落花流水の如く
(七)

「わたしだって、もっと軽装をしていれば、まんまと逃げられることなどなかったわ! ――そう、たとえば……」
 あれ……? 香姫さま。あなたさまは、普通の姫君ではないというようなことを言われてお怒りになっていたのではなく、力がないと言われたことを怒っておられたのでしょうか?
 嗚呼……。せっかく、香姫さまもようやく女性らしくおなりになってきたと思いましたのに……。
 なんて、なんて嘆かわしいことなのでしょう。
 相変わらず、香姫さまは、香姫さまのままでございます。
 香姫さまはそこで言葉をとめ、もったいぶるように陽楊さまと葵瑛さまを見られます。
 そして、にたりと、嫌な笑みを浮かべられました。
 ……ということは、これはいつものあれですね?
 何かよからぬことを考えついて、その結果を想像し、お一人で楽しまれているという……あれですね?
「たとえば、狩衣や水干、直衣などがいいわね? だけど、さすがにこの髪ではね〜……」
 そうおっしゃりながら、あろうことか、だらりとのばされた、まだ少し湿っている、長く黒い、ゆたかで美しいその御髪を手で束ね、ぐるんぐるんと振りまわされます。
 時折、御髪から水滴が飛び散るような気配がいたします。
 湿っているとはいえ、もうほとんど乾ききっているので、そのようなことはあり得ないのですが……。
「香子!!」
 陽楊さまは真っ青な顔をして怒鳴られました。
 さすがにこのようなお振る舞いは、寛大?なお心をお持ちの陽楊さまとて、許しがたいものなのでございましょう。
 ……いいえ。違いました。ただ陽楊さまは、ご自分がからかいの対象になっていることを、面白くなく思っておられるだけ……。
 そして、そのような気心の知れた振る舞いを、陽楊さまだけでなく、葵瑛さまがいらっしゃるその前でされてしまったので、その辺りに不安を感じたのでございましょう。
 何しろ陽楊さまの脳裏には、数日前の雨の夜、葵瑛さまが陽楊さまにおっしゃられたあの言葉が、今も色濃く残っておられますから……。
 それが、いらぬ不安を掻き立てるのでございます。

 ――今とて、認めてはいませんよ? あの時、香姫殿にときめいてしまったのは、何もあなただけではないのですから。――嫌ですね。血が近いというのも……。

 そのように真剣になっている陽楊さまを、けらけらと嘲笑うかのように、陽楊さまのお肩をばしばしと叩き、あけらかんと香姫さまはおっしゃいます。
「や〜だ! 冗談に決まっているじゃなあい!」
 お肩を叩かれたまま、陽楊さまは首だけをぐりんと香姫さまに向け、「本当か!?」と疑わしそうにじろりと見つめられました。
 そして、数秒そうしたかと思うと、げんなりとつかれきったように肩を落とされました。
 葵瑛さまは、予想通りであり、予想通りでない香姫さまのそのような言動を、とても楽しんでおられるのでしょうか、にこにこと微笑まれております。
「――と、冗談はさておき。少しはまじめな話をいたしましょう」
 そうおっしゃり、なごやか……?なその雰囲気を、また厳しく険しい空気の漂うお話へ戻したのは、やはり葵瑛さまでございます。
 お話をころっと転換させる名手は、やはりこの三人の中では、葵瑛さましかおられません。
 何しろ、普段からその話題といえば、誰も予想のしないところへと飛んでいってしまいますから。
 その辺りにおいては、香姫さまも陽楊さまも、まともなのかもしれませんけれどね?
 葵瑛さまほど、話題が飛んだりはいたしませんから。
「まじめ……?」
 せっかく陽楊さまをからかって楽しんでおられた香姫さまですが、それを十分に楽しまないうちに葵瑛さまに邪魔されてしまって、おもしろくなさそうにぶすうっと頬をふくらまされます。
「そうすねないの、香姫殿」
「すねてなどいないわよ!」
 いーっだ!と、葵瑛さまに喧嘩を売ろうとする香姫さま。
 しかし、やはり、案の定、葵瑛さまは相手にもいたしません。
 それがまた、香姫さまを憤らせてしまうのです。
 悔しそうに、脇息をぎゅっと握り締められます。
 葵瑛さまはそれに気づいておられるにもかかわらず、やはりどこかいけ好かない、涼しい表情を浮かべられたままでございます。
「それにしても、文の件といい、わら人形といい、そして今回のこの池の件といい……どうやらこれは、狙われていますね?」
「誰が?」
 香姫さまは脇息に肘をつき、その上にお顔をのせ、ぶすっと面白くなさそうに葵瑛さまをにらむように見られます。
 その横で、陽楊さまは苦笑いを浮かべておられました。
 葵瑛さまは、やはりなかなか予想通りの反応を返してくれない香姫さまに、楽しみを覚えてしまったようで、嬉しそうに、にこにこと微笑んでおられます。
 そして、これでもかというほど満面の笑みを浮かべ、清々しくおっしゃいます。
「決まっているではありませんか。あなたですよ、香姫殿」
 香姫さまは、その予想もしない言葉に、そして、そのような恐ろしい言葉を清々しくおっしゃる葵瑛さまを見て、思わず、ずるりと脇息からずり落ちてしまわれました。
 そして、慌てて体勢を立て直し、ぐいっと葵瑛さまの胸倉をつかまれます。
 ぎろりと、憎らしげににらみつけて。
「どうして、わたしが狙われなきゃならないのよ!?」
 そうして迫られてもなお、葵瑛さまはいつもの調子を崩されません。
 そして、そのような香姫さまの反応がまた、葵瑛さまを楽しませてしまうのです。
「そのようなことは当たり前ですよ。何しろあなたは、東宮をたぶらかしたのですから」
「な……っ! た、たぶらかしたですって!? 何よ! それ!!」
 ぱくぱくとお口を動かしたかと思うとそう叫び、目を白黒させておられます。
 頭の血管の十本や二十本、ぶち切れてしまったようでもございます。
 もう冷静に物事を考えられなくなった、そのように見受けられます。
「あなたの東宮妃入内が決まり、おもしろくなく思っている輩は、この都にごまんといるのですよ? あわよくば……と、東宮妃を狙っていた貴族や、その姫君。はたまた、その家族丸ごとひっくるめ敵にまわし、恨まれていてもおかしくはありません」
 葵瑛さまは、ご自分の胸倉をつかんでいる香姫さまの手にそっと手を重ね、優しく説明されます。
 その態度がまた、腹立たしいものだということは言うまでもありません。
 香姫さまは怒りを通りこし、血を沸騰させ、今にも卒倒されてしまいそうでございます。
 このようなお二人のやりとりを、少し引いて聞いておられた陽楊さまは、やれやれとため息をもらされ、どこか遠くを見つめておられました。
 ――というか、陽楊さま! 香姫さまは、あなたのために今、このような状況におかれているのですから、もっと香姫さまを助けるなり、心配されてはいかがですか!?
 ……って、あの香姫さまですから、陽楊さまの心配には及ばないのでございましょうが。どうせ……。
 ――まあ、現在の陽楊さまのご心配のあるところは、そのようなところではなく、あくまで葵瑛さまのあの意味ありげな発言でございますけれど……。
 それは、葵瑛さまをよく知る陽楊さまだからこそ、心配せずにはいられないことなのでしょう。
 世に浮名を流す葵瑛さまですが、それはどの女性にも本気ではないから……。
 そのような最高機密を、陽楊さまはご存知なのです。
 そのような葵瑛さまが、特別に興味を持たれている女性が、どうやらこの破天荒な姫君、香姫さまであるかもしれないのです。
 陽楊さまに心配するなと言う方が、無理なことなのでございましょう。
「他人のことにはすこぶる勘のよいあなたですが、ことご自分のこととなるとだめだめですね」
 先ほど重ねた手でぎゅっと香姫さまの手を握り、ふうっとため息まじりに、哀れむように香姫さまを見られます。
 葵瑛さまが香姫さまのお手を握った瞬間、陽楊さまの表情がきっと険しくなりました。
 その葵瑛さまの憎らしい、腹立たしい態度とお言葉を受け、香姫さまは、手をばっと振り払い、ばしばしと悔しそうに脇息を叩かれます。
「つぶす!! いつか絶対、この親王に頭を下げさせ、『わたしが悪うございました』と言わせてやる!!」
 そして、きーっと奇声を発してしまわれました。
 よほど……悔しかったのでしょうね。よほど、腹立たしかったのでしょうね。香姫さま……。
 ――同情せずにはいられませんよ……。
 誇り高い香姫さまが、これほどおもちゃにされ、遊ばれてしまっているのでございますから。
 そのような憤る香姫さまに近寄り、陽楊さまはそっと耳打たれます。
 どうやら、先ほどのよからぬ思いはひとまずおいておいて、会話に戻る気になられたようでございます。
 いえ。それよりも何よりも、この重大事項を、どうしても香姫さまに伝えねばならなかったのでございます。
「それは、やめておいた方がいいよ? ――葵瑛を本気で怒らせると、後が怖い。死んだ方がいいと思うくらいひどいめにあわされるよ……?」
「――え……?」
 香姫さまはばしばしと脇息を叩くのをぴたっとやめ、険しいお顔でじっと陽楊さまを見つめられます。
 その香姫さまに向かって、陽楊さまは真っ青な顔で冷や汗を流し、ぽつりとつぶやかれます。
「それは、わたしが保証する。何しろ……かつてわたしも試みたことがあるからね……」
 そして、正気を失ったかのように、どこか遠くを眺めてしまわれました。
 ――試みたことがあるとは、それはまた殊勝な……。
 そして、最後につぶやかれたお言葉は、先ほど述べられた事柄について、とっても説得力をもっております。
 ……まこと、葵瑛さまは、陽楊さまですら恐れる存在……ということなのでしょう。
 恐れる……といっても、違う意味ででございましょうけれど……。
 嗚呼。だから、宮中一の困ったちゃん。帝ですら、この葵瑛さまには歯が立たないのでございますね?
 そのような葵瑛さまに、一度でも逆襲を考えた香姫さま……。
 ご用心なされませ? いつ何時、葵瑛さまの脅威が襲ってくるやもしれませんよ……?
 それにしても、香姫さまの東宮妃決定は、それほどまでに貴族の反感をかってしまっていた……ということになるのでございましょうか?
 ――しかしまあ、それをおっしゃられたのが、よりにもよってあの葵瑛さまですから、それを素直に信じろ……と言われても、難しいかもしれませんが。
 それもまた、ありということで……。


 わたしの命が狙われているですって!?
 しかもそれは、東宮妃入内に絡んでですって!?
 冗談じゃないわ! そのような、どこの誰とも知れない輩の陰湿な嫌がらせに、暗殺に屈してなるものですか!!
 もとより、それは覚悟の上だわ。
 東宮である陽楊さまを選んだその時から。
 わたしは、東宮がおっしゃられたという「生涯ただ一人の女性だけを愛しぬく」というそのお言葉を信じているわ。
 それは、わたしがずっと夢見ていたこと。
 ナンバーワンでは嫌なの。オンリーワンでなければ意味がない。
 そのようなわたしのわがままな思いと同じ思いを抱いておられた東宮と、身分なんて、正体なんて関係なく好きになってしまった陽楊さまが、実は同一人物だった……。
 このような偶然、このような奇跡、普通ではあり得ないわ。
 もう、これはあれよね? あの言葉しかないわ。
 そう、その言葉とは――

 運命……。

 そのような言葉の二人だもの。たかだか嫌がらせくらいで、暗殺くらいで、誰がたじろいだりするものですか!
 何があろうと、この愛、貫いてみせるわ!
 わたしは、危険だからといって、おとなしくお邸の奥に隠れて震えているような、そのようなやわな姫じゃないのよ! 
 わたしを誰だとお思い?
 わたしはね、わたしは、都に名を轟かせる、天下無敵の香姫さまなのよ!!


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update:03/08/09