落花流水の如く
(八)

 香姫さまが池に落ち……落とされて、数日が過ぎようとしておりました。
 その後、香姫さまに何かを仕かけてくるようなそのような様子はございませんでしたが、やはり用心にこしたことはありません。
 香姫さまは、陽楊さまと葵瑛さまによって、むりやりお邸に閉じ込められておられました。
 そうすると、あの香姫さまでございます。一日たりともじっとしていられない香姫さまでございます。数日、そのように閉じ込められていては、そろそろ我慢も限界というものでございましょう。
 よって、この方が香姫さまのご機嫌うかがいにやってこられるのも、至極当然ということで……。
 梅雨のこの時期にしては珍しく、本日は朝からすがすがしいくらいに晴れ渡っております。
 絶好のお散歩日和。
 そのような中、お邸に缶詰では、当然ご機嫌を損ねられていると、香姫さまをよく知る者も知らない者も、容易に想像ができることでございます。
「少し、一緒に歩きませんか? 幸い、今日はお天気もよいことですし」
 さすがは葵瑛さまでございます。大臣の厳重な警戒をかいくぐり、簀子でむすっとお庭をにらみつけておられる香姫さまのその前に、いつの間にやってこられたのやら、涼しい顔で立っておられました。
 そして、簀子下から、高欄にすっと手を触れ、妖しげなまなざしを香姫さまに向けられます。
 妖しげなまなざしと申しましても、いつもの含みのある意地悪なものではなく、そう……どこか、物言いたげに、うったえかけるような、そのようなまなざしでございます。
 そのようないつもと違う葵瑛さまのご様子に、香姫さまは思わずこくんとうなずかれておりました。
 ご心配……になられたのでございましょうか? この普通のようで普通でない葵瑛さまを――
 だから、素直に葵瑛さまにおつき合いしようと……?
 何やら香姫さまにも、人を思うお優しいお気持ちがあったようでございます。
 しかし、よりにもよって、そのお相手が葵瑛さまだなんて……。
「葵瑛さま……。どうかなさったの?」
 どうやら、気になっておられたことを、とうとう口にされたようでございます。
 葵瑛さまは、無言で香姫さまを切なげに見つめられるだけでございました。
 これはどうも、ただ暇をもてあました香姫さまのご機嫌うかがいにやってこられた……というわけではないような気がいたします。
 ちなみに、いちばん香姫さまのご機嫌を気にされている陽楊さまは、本日は残念なことに、どうしても抜けられぬお勤めがあるとかで、内裏に足止めでございます。
 ですから代わりに、こうして葵瑛さまが、香姫さまのご機嫌うかがいにやってこられたのでしょう。
 まあそれは、陽楊さまに頼まれて……ということでもなさそうでございますが。


 あっさりとお邸を抜け出された香姫さまは、葵瑛さまについて町を歩いていかれます。
 通りを北へ上り、何やら少し寂れた風情のある辺りまでやってこられました。
 そこまでやってくると、葵瑛さまは、小さな川にかかる小さな橋の上で、ぴたっとその歩みを止められました。
 そして、その橋の欄干に手を触れ、じっと橋の下をのぞき込まれます。
「それで? どうしてこのようなところへ来るのよ!!」
 香姫さまは両手を腰にあて、いぶかしげに葵瑛さまを見られます。
 お二人がやって来られたそこは、京のはし、そのような場所でございました。
 そして、その橋があるそこは、もうすでに一条……。
 この橋は、ある僧が、父親の葬儀の行列がちょうどこの橋の上にさしかかった時、その亡くなった父親を生き返らせたということから、戻り橋と呼ばれるようになったということでございます。
 橋があるのは、一条。
 ですからここは、一条戻り橋(いちじょうもどりばし)ということになるのでございましょう。
 香姫さまが、このようなところとおっしゃるのも無理はございません。
 何しろ、この一条戻り橋という場所は、何やらいわれのたえない、そのような不気味な場所でございますから。
 明らかに疑惑のまなざしを向けられる香姫さまにはおかまいなしに、橋の下からすっと目線を香姫さまへ移し、葵瑛さまはたんたんとお話をされます。
 香姫さまの疑問に、まったくお答えになる様子などございません。
「ここはかつて、稀代の陰陽師が式神を住まわせていたことで有名なのですよ?」
 にやりと、楽しそうに微笑まれる葵瑛さま。
「え!?」
 そのような葵瑛さまの策略?にまんまとはまったのか、香姫さまはぎょっと目を見開き、まじまじと葵瑛さまを見つめられます。
 今の葵瑛さまのそのお言葉で、そこが一条戻り橋であると、迷惑なことに確信されてしまったようでございます。
 先ほど感じていた淋しげな、切なげなしおらしい葵瑛さまはどこへやら、早々にいつもの葵瑛さまにお戻りになられてしまったようでございます。
 先ほど感じていたどこか様子のおかしい葵瑛さまは、気のせいだったのでございましょうか……?
「冗談ですよっ」
 期待通りに驚かれる香姫さまを見て、葵瑛さまは楽しそうにくすくすと笑われます。
 それを見た香姫さまはもちろん、ぶるぶると震える拳をぎゅっと袖の下で握り締められておりました。
「だから、結局のところ、どうしてここへきたの?」
 精一杯その怒りをおさえ、声を殺して、またそうお尋ねになられました。
 しかし、その目はたしかに、「いい加減に、ちゃんとお答えなさい!」と、ぎろりと葵瑛さまをにらみつけております。
「おや? てっきり、このような場所がお好きだと思ったのですが?」
 と、残念そうにお答えになられる葵瑛さまでございますが、そのお言葉とは裏腹に、香姫さまをからかってお遊びになっていることは明らかでございます。
 いくら香姫さまといえども、このような場所がお好きなわけがございませんのに……。
「おすき〜っ!?」
 香姫さまは語尾を上げ、そう叫ばれます。
 今にも、「きい〜!!」と叫びだされてしまいそうな勢いでございます。
 嗚呼……。そろそろ香姫さまのお怒りも頂点に達し、抑えきれなくなってきたようでございます。
 どうやら香姫さまは、上手い具合に、葵瑛さまに誤魔化されてしまったようでございます。
「ええ。何しろあなたは、鴨川川原やら羅城門やら、糺の森、鳥辺野といった、何やら人の好まぬ禍々しい土地をお好みのようですからね?」
 どっか〜ん。
 とうとう、頭から火を噴かれてしまいました。
「いつ、誰が、好き好んで行ったのよ!! あれは、みんなあなたの所為じゃない、葵瑛さま!!」
 そうおっしゃり、香姫さまは、持っておられた扇で、ばしばしと葵瑛さまを叩きつけられます。
 すると葵瑛さまは、あはは!と楽しそうにお笑いになり、これといって抵抗するような素振りはされません。
 ただ本当に、この香姫さまとのじゃれ合う時間を楽しんでおられるようでございます。
 このような場所でございますが、いいえ、このような場所だからこそ、人目をはばからず、香姫さまと二人きりの時間を楽しまれているようでございます。
「痛いですよ、香姫殿」
 そのようなことをおっしゃってみても、やはり葵瑛さまには嫌がる素振りはみじんもございません。
 さらには、ひょいひょいと、香姫さまの扇攻撃をかわしはじめてしまわれます。
 それがさらに、香姫さまの闘争心をかきたてるのをご承知で。
 香姫さまは、ところかまわずぶんぶんと扇を振りまわし、とにかく葵瑛さまに襲いかかっていかれます。
 そんな一生懸命な香姫さまのお姿を、葵瑛さまはほほえましそうに見つめておられました。
 ――これはもう、確定でしょうか?
 お気をつけあそばせ、陽楊さま。……やはり危険でございますよ、葵瑛さまは。
 そのようなことをしてしばらく遊んでいると――と申しましても、遊んでおられるのは、あくまで葵瑛さまだけでございますが――香姫さまの扇攻撃を葵瑛さまは見事にかわされます。
 そのため、勢いのついておられた香姫さまは、そのまま倒れこみそうになってしまわれました。
「あ!」
 そう香姫さまと葵瑛さまが同時に声を上げられたかと思ったその瞬間、葵瑛さまはすかさず香姫さまの腕をつかみ、ぐいっとご自分へと抱き寄せ、支えられました。
 そして、そのままぎゅっと香姫さまを抱きしめられます。
 香姫さまは助かったとほっと一息つかれたのもつかの間、葵瑛さまのそのような大胆な行動に驚かれ、凝視されます。
 その途端、香姫さまの目は、葵瑛さまの目と合ってしまわれました。
 香姫さまは目が合うと、ばっと目線をそらし、そっぽを向かれ、ぐいっと葵瑛さまのお体をご自分から引きはなされます。
 それから、欄干に両手をつき、お顔を真っ赤にさせ、だけどどこか苦しそうに、欄干を見つめられます。
 そのような香姫さまをご覧になり、葵瑛さまは切なそうに苦笑いを浮かべられます。
 そして、ふうっと小さなため息をもらされました。
 そのように切ない空気が漂いはじめた時でございました。
 ひゅんという不気味な音がしたかと思うと、次の瞬間にはかっという乾いた音が響き、それと同時に、欄干におかれた香姫さまの手のそのすぐ横に、矢が突き刺さっておりました。
 それを見て、香姫さまも葵瑛さまも、険しいお顔で見つめ合われます。
 そしてまた、ひゅんと不気味な音が、お二人の耳に入ってきます。
 その瞬間、葵瑛さまのお顔は青ざめ、香姫さまをご自分の方へと引き寄せようと手をのばされますが、どうやら遅かったようでございます。
 香姫さまはその飛んできた矢をすかさず後退しておよけになり、橋の上に跪き、ぜいぜいはあはあと息を荒げておられました。
 香姫さまが先ほどまでおられたその場所には、また一本の矢がささっておりました。
 もちろん、これは香姫さまだからこそおできになる芸当でございます。
 また、息を荒げておられるのは、香姫さまも他の姫君と同じだけの体力しか持ち合わせておられないからではございません。
 都ところ狭しと駆けまわる香姫さまですから、体力がないわけがございません。
 ただ香姫さまは、わずかな距離をおいて、その素晴らしい運動神経のおかげで、ぎりぎり矢をおよけになることができたにすぎません。
 ですから、矢をよけることができたその安堵感と、先ほどから続く恐怖感によって、息を荒げておられます。
 そのような九死に一生を得たような体験を、今まさにされた香姫さまのお姿を見て、葵瑛さまは楽しそうにぱちぱちと手をたたかれます。
「ああ! すごいすごい。さすがは香姫殿だね」
 そう言って、感心したように、まじまじと香姫さまを見つめられます。
「感心している場合じゃないでしょう!!」
 そのようなことをされては、もちろん香姫さまのお怒りをかってしまいます。
 香姫さまがきっとにらみつけられると、葵瑛さまはそれまでのからかい半分のお顔から急に真面目な表情に変わり、欄干にささった矢へとよっていかれます。
「ふむ……。これは矢だねえ」
 そして、そのようなわかりきったことをつぶやき、しげしげと矢を観察されます。
「そのようなことはわかっているわよ! それよりも――」
 香姫さまはそこまでおっしゃられると、ふと何かに気づかれたように、がばっと起き上がられ、そして葵瑛さまへ駆け寄り、ぐいっと胸元をつかみ上げられました。
「もしかして、今回のこれも、葵瑛さまの仕業だったりしないわよね!?」
 そして、ぎろりとにらみつけられます。
 嗚呼……。やはり、そのような結論に至ってしまったのですね、香姫さま。
 それも、無理からぬことでございますが……。
 何しろ、葵瑛さまの普段の行いが行いなだけに……。
 しかし、さすがの葵瑛さまといえど、このようにお命にかかわるような危険なことを、ご自分が楽しむためとはいえ、果たしてなさるでしょうか……?
 ――しておしまいになるかもしれませんね、あの葵瑛さまでございますから……。
「心外ですね。いくらわたしとて、このような芸のないことはいたしませんよ」
 葵瑛さまは、むっとしたようにおっしゃられます。
 ところで、葵瑛さま……。では、裏を返せば、芸のあることならば、また何度でもされる……ということでございましょうか?
 まったく、それだから、あらぬ疑いをかけられるのですよ? おわかりですか?
「どうだか……」
 やはり、香姫さまは、相変わらず疑わしげに葵瑛さまを見られたままでございます。


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update:03/08/09