落花流水の如く
(九)

 まさか、ここまで本格的に、命を狙ってくるなど思っていなかったわ……。
 どうやら、わたしの読みがあまかったようね?
 ――本気なのね? 本気でわたしを疎ましく思っている……。命を狙っている……。
 は〜あ。考えただけで恐ろしい。
 だけど、命を狙われているのはこのわたし。陽楊さまでなくてよかったわ。それだけが救いだわ……。
 だって陽楊さまは、わたしとはくらべられないほど尊いお方。東宮……。そして、次の帝になられるお方……。
 そのような東宮が……いえ、陽楊さまだからこそ、そのお命が大切なの。
 陽楊さまにもしものことがあれば、わたしはもう――

 ふん、上等じゃない……っ!!
 矢でも何でも、いくらでも飛んでくるといいわ!
 これくらいで、陽楊さまへのわたしの思いがゆらぐと思ったら大間違いよ!
 そのような簡単な思いではないのですからね、この思いは!
 壁があればあるほど、困難があればあるほど、燃えるものが恋というものよ!?
 ご存知かしら?
 見ていなさい。今に犯人をとっ捕まえて、たっぷりと嫌というほど、お仕置きしてあげるのだから!!


「そういうことでしたら、わたくしたちもご協力いたします! 是非、こちらへお越しくださいませ。全身全霊かけて、お守りいたしますわ!」
 こちらは、都の北に位置する、後宮は東宮御所。
 そして、その東宮御所の一角で、御所に仕える女房三人がいきりたっております。
 やはり、空模様は、気分が滅入ってしまうほどのうっとうしい雨。
 今年の梅雨は例年よりも長いのか、まったく明ける気配がございません。
 それはまるで、現在、香姫さまが、そして葵瑛さまがおかれた立場を物語っているようでございます。
「香姫さまのお命を狙おうだなんて、なんと不届きな輩なのでしょう!!」
 栞に続き、雅も大憤慨でそう叫びます。
 慌てて志木が、雅の口をふさぎます。
「雅さん! お声が大きいですわ!」
 そのような三人の女房を前に、葵瑛さまは無表情で扇を口元へあて、おやおやと微笑まれております。
 どうやら葵瑛さま、こちら東宮御所へ参内し、東宮ではなくこの女房たちのもとへやってきて、何やらこれまでの経過をお話しになられたようでございます。
 たしか、この女房三人衆が香姫さまによからぬことを吹き込んだと、お怒りだったはずですが……?
 ……ということは、やはりこの三人をお仕置きされに来られたとか……?
 しかし、それにしては、お話が違うような気がいたします。
 何しろ、先ほど雅の口をついた言葉は、香姫さまのお命を狙う……たしかそのようなものでございましたから。
「それでは、あなたたちは承知してくれるのですね?」
 いきまく女房三人衆に葵瑛さまがそうおっしゃられると、栞も雅も志木も、じっと葵瑛さまを見つめ、「どうして承知しないことがありましょうか!」と言いたげに、こくんとうなずきました。
「そうですか。それは助かります。――ところで……」
 葵瑛さまは嬉しそうにそうおっしゃると、この上ないというほどにこやかに微笑まれます。
 その微笑がまた葵瑛さまらしく、とてもいや〜な予感を覚えさせる、そのようなものでございました。
 女房たちはそのような葵瑛さまの微笑みを見て、何やら悪寒が走ったような気がしました。
 それは、気がしたのではなく、まさしく悪寒が走ったの間違いであったことに、この後すぐに気づくことになります。
「あなた方、よくも香姫殿に、よからぬことを吹き込んでくれましたね? もちろん、覚悟はできているのでしょう?」
 そうおっしゃると、すっと立ち上がり、女房三人衆を見下ろされます。
 そして、次の瞬間、雨がしとしと降る東宮御所に、恐怖におののいた女房三人の悲鳴が轟きました。
「ぎえ〜っ!!」
 時を同じくして東宮御所にいらした陽楊さまのお耳にももちろん、そのようなかわいそうな女房たちの悲鳴が届いておりました。
 何やら書き物をされていたその手から、ぽろりと筆が落ち、御料紙を墨で汚され、慌てふためいておられます。
 ……まったく……。この親王さま方ときたら――


「――ということですので、香姫殿。今から東宮御所へ行きますよ」
 女房三人衆がお仕置きをされた、その日の夕刻。
 葵瑛さまは、香姫さまのもとへとやってこられておりました。
 今回は、どうやら陽楊さまのお口添えもあり、左大臣に邪魔されることなく、東の対へ渡ってこられたようでございます。
 葵瑛さまはそのようにおっしゃりながら、棗と貝合わせなどをしてお暇を潰されている香姫さまの腕を、予告なくぐいっとつかまれます。
「何がどうなって、ということなのよ! ちゃんと説明しなさい、ちゃんと! わかりやすく、いちから順に!!」
 もちろん、香姫さまは怒鳴られ、ぶんと葵瑛さまの手を振り払われます。
 そして、ぎろりとにらみつけられます。
 先日、一条戻り橋で、あれだけ香姫さまのお疑いをかった葵瑛さまですから、これは当然の反応でございましょう。
 そのような香姫さまを見て、葵瑛さまはやれやれといったふうに、香姫さまの前へと腰を下ろされます。
 突然現れ、このようなお振る舞いをされた葵瑛さまを見て、棗は慌てふためいております。
 おろおろとした手つきで、慌てて貝合わせの道具を片づけようといたしますが、上手くいきません。
 別に棗とて、これといって葵瑛さまをおもてなししようとは思っておりません。
 ただ……この後起こるであろうことを予測して、早々に貝合わせの道具を片そうとしているだけでございます。
 このままいくと、恐らく……香姫さまの大立ち回りがはじまってしまいそうな気配が、そこはかとなく漂って――
「棗殿。そのようなことはどうでもいいから、あなたもそこへ座っていなさい」
 そうおっしゃり、葵瑛さまは、貝合わせの道具を片づける棗に指図なさいます。
 すると棗は、一瞬何やら考えたような表情を見せると、渋々その場に腰をおろしました。
 とうとう貝合わせの道具を片づけることができず、これから起こるであろうことに巻き込まれていくようです。
 せっかくの道具も、見るも無残な状態になるであろうことが、棗には手にとるようにわかっておりました。
「それで? 説明してくれるのでしょうね? 葵瑛さま。いきなり何なのよ?」
 香姫さまは腕組みをし、ぷいっと顔をそむけられます。
 やはり、まだ先日の一条戻り橋での一件を、疑っておられるようでございます。
「相変わらず、信用がありませんね〜」
 葵瑛さまは、そのような香姫さまにはおかまいなしに、楽しそうに微笑まれます。
「そこで笑うのじゃない!」
「あはは! そうですね、そうでした……」
 葵瑛さまはそうして少しおどけてみせられると、すぐに真剣なまなざしになり、すっと香姫さまの両手をとられます。
 葵瑛さまに手をとられた香姫さまは、一瞬びくっとされましたが、すぐにその表情が真剣なことに気づき、神妙な面持ちで見つめられます。
 そして、葵瑛さまの次のお言葉を待たれます。
「実はね、これまでのことを、東宮御所の女房三人衆に話してきたのですよ」
「え!?」
 香姫さまは驚き、ぎゅっと葵瑛さまの手を握り返されました。
 そして慌てて、その手をまた振り払われます。
「そしてね、彼女たちにあることを頼んできました。――これは、陽楊も承知し、それを望んでいるのですが……」
「……」
 香姫さまは、じっと葵瑛さまを見つめられます。
 何やら、これからご自分の身に起こることを、悟りはじめておられるようでございます。
「……葵瑛さま。つまりは……?」
「ええ。つまりは、そういうことです。あなたには、また香という女房に化けていただきたいのです。――あなたの命を守るために」
 香姫さまの意見など無視するように、そのお言葉遣いとは異なり、有無を言わせぬ態度でおっしゃいました。
 香姫さまは、息をのまれます。
「……嫌。わたしは、逃げも隠れもしないわ。たかだか暗殺ごときにひるむ香姫さまではないわよ!」
 そうおっしゃり、べっと舌を出し、ぷいっとまたそっぽを向かれてしまいました。
 その香姫さまの後ろでは、棗が真っ青な顔をして、おろおろとしております。
 棗もまた、気づいて、そして陽楊さまと葵瑛さま、左大臣からきつく言われておりました。
 今、香姫さまのお命を狙う不逞の輩がいることを。だから、決して、香姫さまから目をはなしては、お一人にしてはならないということを。
 そのような、いつものように姫君らしからぬ態度に、いつもなら楽しそうにお笑いになる葵瑛さまですが、今回ばかりはそうもいきませんでした。
 険しいお顔でばっと香姫さまの両肩をつかまれると、むりやりそのお体を葵瑛さまへ向けさせ、そして多少声を荒げておっしゃいます。
「わがままもたいがいになさい! 我々はあなたを心配しているのですよ! あなたが大切なのですよ! 少しは我々の気持ちを察し、言うことを聞いていなさい!」
 そのような今まで見たことのない葵瑛さまの表情に、迫力に、香姫さまは悔しそうに唇をかみ、そして渋々、こくんとうなずかれました。
 それを見て、葵瑛さまはほっとため息をもらされます。
 それにしても、葵瑛さまのこのただならぬご様子……。
 やはり、やはりそうなのでございますね? 葵瑛さま。
 嗚呼……。暗殺のことだけでも頭が痛いと申しますのに……。
 いいえ。あの聡い葵瑛さまのことでございますから、滅多なことは口走ったりなさらないでしょう。滅多なことをしたりはなさらないでしょう。
 しかし、よりにもよって香姫さまに……。
 そして、そのような葵瑛さまのお気持ちに、鈍いとはいえ、さすがの香姫さまもそろそろお気づきになられてきたようで、切なそうに葵瑛さまを見ておられます。
 もちろん棗は、やりきれない、そのような表情を浮かべ、今もなお香姫さまの両腕をつかみ、そのままご自分へ引き寄せてしまいそうな葵瑛さまを見守っておりました。
 しかし、その一方で、棗は、棗の予想をはずれ、貝合わせの道具は事なきを得た、そのような別なところに、ほっと胸を撫で下ろしていたことも事実でございます。


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update:03/08/15