落花流水の如く
(十)

 夕暮れ時。逢魔が時。
 先ほどの会話からさして時間を要さずに、東宮御所への参内のご用意が整い、香姫さまと葵瑛さまは、棗を残し、ひっそりと忍ぶように左大臣邸を後にされました。
 どうやら、香姫さまご本人にお知らせする以前に、すでに、陽楊さま、葵瑛さま、そして左大臣の間では話がまとまっていたようで、いつでも出発できるように、左大臣が準備を進めていたようでございます。
 左大臣も、いくら破天荒極まりない頭痛の種の香姫さまとて、そのお命がかかっているとなると、いてもたってもいられないようございます。
 何があっても、香姫さまのお命は守る。
 そのような決意すら感じられます。
 やはり、どのような姫君でも、姫君へ寄せるお父上の愛は、絶大でございます。
 香姫さまは牛車にお乗りになり、その横を守るようにして、騎馬の葵瑛さまがつき従われておりました。
 葵瑛さまは、束帯を身にまとっておられます。
 そして、その腰には、野太刀がたずさえられております。
 これは、いついかなる時も、不測の事態に対応できるように……。
 馬上にいながらも、常に、まわりと、そして太刀に気を張られておられます。
 香姫さまがお乗りになった牛車は、朱雀大路をまっすぐ北へ上っていきます。
 これは、賭けでございました。
 人目の多いこの通りを行けば、刺客もそう簡単に襲ってはこないだろうという少しの安心と、そして、それでもかまわず襲ってきて、庶民を巻き込むことになってしまうかもしれないという不安とがある、そのような賭けでございます。
 果たして、どちらの読みが正しいのか……。
 しかし、そうは申しましても、そろそろ宵にかかろうかという時刻。
 昼間とは違い、その活気も失われ、少し淋しげで不気味な通りに変わり果てておりました。
 夜だからこそ、昼間渦巻いていた人々の思念を、より敏感に感じられるような、そのような気さえしてまいります。
 人が多く集まるところは、それだけ人の思念も渦巻くというもの。
 そのようなところこそ、夜はとても不気味な場所へと様変わりしてしまうようでございます。
 そのような朱雀大路を北へ上り、もうそろそろ朱雀門が見えてこようかとしたその時でございました。
 やはり、事件は起こってしまいました。
 いきなり、香姫さまがお乗りになった牛車の牛が、暴れだしてしまったのです。
 そして、牛車は牛飼い童を振り払い、そのまま目指す場所とは異なる、よりにもよって、羅城門の方向へと暴走をはじめてしまいました。
 葵瑛さまは慌てて馬を操り、暴走していく牛車を追いかけられます。
 そのような葵瑛さまのお姿と暴走する牛車を、牛飼い童たちは、おろおろと見つめるだけでございました。
 牛車の中では、今、一体何が起こっているのかわからないといったご様子で、香姫さまが怪訝な表情を浮かべておられます。
 さすがは、香姫さまでございます。
 普通の姫君ならば、すでにこの時点で気を失っていようものでございますが、香姫さまときたら、「さて、これから一体どうしようかしら?」などと、のんびりとこの後の対応を考えておられる始末です。
 嗚呼。この時ばかりは、香姫さまのその逸脱した神経に、感謝せずにはいられません。
 しかし、そうのんびりもしていられないことに、香姫さまはお気づきなのでございましょうか?
 後を追ってこられた葵瑛さまの馬が、ようやく暴走する牛車に並びました。
 すると、葵瑛さまは牛車へ向かって叫ばれます。
「香姫殿! 飛び降りなさい! 早く!!」
 香姫さまは葵瑛さまのそのお言葉に、ようやくこの事態をのみこみ、ばっと牛車の御簾を上げられます。
 すると、時機よく牛車のすぐ後ろに、馬に乗った葵瑛さまがお姿を現されました。
「わたしが必ず受けとめるから! さあ、早く!!」
 そう叫ばれると、手綱を放し、両手を大きく広げられました。
 それを見て、香姫さまも決心されたのか、きっと険しい顔つきになり、どかっと牛車をけられます。
 その途端、香姫さまのお体は宙を舞い、そして、どっと葵瑛さまのその広げられた腕の中へと落ちていきました。
「葵瑛さま……!!」
 香姫さまを確かに抱きとめると、葵瑛さまはどうどうと馬をあやしとめられます。
 そして、馬に乗ったそのままで、確認するように香姫さまをぎゅっと抱きしめられます。
 香姫さまもまた、葵瑛さまにしがみつくように抱きつかれました。
 さすがにこれは、香姫さまも恐ろしかったのか、かたかたと何やら小刻みに震えておられる様子でございます。
 しかし、香姫さまでございます。お口から出る、その感想はいかがなものかと……。
「死ぬかと思った〜」
「あはは! さすがは香姫殿。わたしが見込んだ姫だけのことはある。この都広しといえど、このように果敢な姫君はあなただけですよ。――おかげで、助かりました」
 そのような冗談めいたことをおっしゃり、葵瑛さまは熱く、そして優しげな瞳で香姫さまを見つめられます。
 それは、心底、香姫さまのご無事を喜んでおられるようでございました。
 香姫さまは、そのような葵瑛さまを、ただじっと見つめておられます。
 と、安心したのもつかの間。
 そのような馬上のお二人を取りかこむように、わらわらと(さぶらい)姿の男十数人が現れました。
 侍たちは皆太刀を抜き、お二人へと突きつけております。
 どうやらこれらの侍たち、香姫さまの暗殺を企てる輩に雇われた刺客と思ってもよさそうでございます。
 とうとう、業を煮やした首謀者が、本格的に動きはじめたようでございます。
 手段を選ばなくなってきたようでございます。
「……」
 葵瑛さまは面白くいなさそうに、その侍たちを見下ろされます。
「おやおや。これは無粋な……」
 そうおっしゃると、左手で香姫さまをぎゅっと抱かれ、右手で手綱を持たれます。
 そして、葵瑛さまが「はっ!」とおっしゃられたかと思うと、その拍子に、助走もなしに馬は宙を舞い、そしてあっさりと侍の頭上を跳び越し、そのまま駆け出してしまいました。
 それを見て侍たちは、慌ててお二人を追いかけましたが、人間の足が馬の足に追いつけるはずもなく、すぐにまかれてしまいました。


「ここまでくれば、もう安心ですね……」
 葵瑛さまがそうおっしゃられたそこは、都の東の山中でございました。
 刺客から逃げ、ようやく落ち着きを取り戻したその頃は、すでに夜も深まり、お空にはぽっかりと黄色い月が浮かんでおりました。
 牛車の暴走からはじまり、現在のここに着いたその頃には、それまでのうっとうしい雨もすっかり上がり、今では嘘のように晴れております。
 ですから、月を望むことも可能なのでございます。
「このような夜更けに、このような山中へ……。もののけでも出るのじゃない?」
 香姫さまは馬からおりられると、ため息まじりにそうおっしゃいました。
 続いて葵瑛さまも馬からおり、馬の手綱を取り、近くの木の枝に結わえつけられます。
「もののけごときを恐れるあなたではないでしょう?」
 そして、くすりとそう笑われます。
 そのような葵瑛さまを見て、香姫さまは面白くなさそうにぽつりとつぶやかれました。
「まあ……ね……」
 その香姫さまのお答えで、また葵瑛さまはにこりと微笑まれます。
 そして、束帯の下にご自分が着ておられた(あこめ)をすっと抜き取られると、それをそっと香姫さまの肩へかけられます。
 山の中といえば、さすがにもうすぐそこに夏がやってきているとはいえ、肌寒いようです。
 ですから葵瑛さまは、香姫さまがお風邪を召されぬようにと、ほんの少しのお心遣いをなされたのでしょう。
「少し歩きませんか? この近くに、それは素晴らしい滝があるのですよ?」
 香姫さまはそのような葵瑛さまのお振る舞いに、一瞬どきっとされましたが、すぐに優しげな表情を浮かべられました。
 しかし、やはりまたすぐにその表情は変わり、葵瑛さまをきっとにらみつけ、小さくお口を動かされました。
 それはまるで、「ありがとう……」とおっしゃられているようでございました。
 葵瑛さまは、もちろん、そのような香姫さまの天の邪鬼なお振る舞いに気づいておられます。
 それでまた、楽しそうにくすくすと声を殺し笑われました。
 香姫さまは、むっと、葵瑛さまをにらみつけられます。
 そして――
「……滝……?」
 何事もなかったように、首をかしげられます。
「ええ、そうですよ」
 葵瑛さまもまた、何事もなかったように、そう優しげに微笑まれました。


 香姫さまと葵瑛さまは、先ほどのところから少し歩き、月に照らされきらきらと輝く水辺へとやってきておられました。
 どうやらそこが、先ほど葵瑛さまがおっしゃられていた滝のようでございます。
 この滝の名は、音羽の滝。
 あまり人の近寄らない淋しいところでございます。
 ですから、葵瑛さまはあえて、この場所へ逃げてこられたのでしょう。
 葵瑛さまは、すっと滝の方へと歩いていかれます。
 その後に続き、香姫さまも滝へと近寄られます。
 ふいに、葵瑛さまは香姫さまへと振り返られました。
「落花流水の如く……。そのように、あなたもわたしを思ってくださればよいのに……。決して叶わぬこととわかってはいるけれど……。そう望まずにはいられないのです」
 そして、憂いを含んだ湿った妖しげな瞳で、葵瑛さまは香姫さまを熱く見つめられます。
 水が滝つぼに落ちる音は妙に大きく、そればかりが耳に響いてきます。
 香姫さまは、葵瑛さまのそのお言葉に、悟りたくなどなかったことを、悟ってしまわれたようでございます。
 これまでの葵瑛さまのそのお振る舞いから……。そのご様子から……。
 香姫さまの肩にかけられた葵瑛さまの衵が、悲しく風にそよいでおります。
「この滝の水は……飲めば恋が叶うといわれているのですよ? ご存知でした?」
 葵瑛さまは跪き、ゆっくりと滝つぼの水をすくいあげようと水に手を入れられます。
 その時、滝つぼの水は、一緒に葵瑛さまの束帯の袖を濡らしました。
 ゆっくりと、水が衣に浸透していきます。
 葵瑛さまはそれにはかまわず、滝つぼの水をすくいあげられました。
 そしてそっと、その赤く美しい唇へと運んでいかれます。
 それを思わず、香姫さまははたいてしまわれました。
 それと同時に、葵瑛さまの手の中にあった水は、全てばしゃんと地面にたたきつけられてしまいました。
 葵瑛さまはゆっくりとお顔を上げ、意味ありげに香姫さまを見られます。
「くすくすくす……。どうしたのです? いくらわたしでも、滝つぼの水を飲んだりはしませんよ。――飲むとしたら……こうして流れ落ちてくる水ですね」
 そうおっしゃりながら葵瑛さまは、今度は滝つぼの中へとぱしゃんと音を立て入っていかれます。
 そういうことではなく……。
 香姫さまが思わず手を払われた本当の理由は……。
 そんなこと、今申しましても、甲斐ないでしょうけれど……。
 葵瑛さまは、流れ落ちる水に手を触れられました。
「もういい! もういいからやめて! お願い、葵瑛さま!!」
 そのような葵瑛さまを見て、香姫さまは叫ばれました。
 そのお顔は、真っ赤に染め上がっておりますが、どこか苦しそうで切なそうでもありました。
 痛いくらいに、葵瑛さまのお気持ちが、香姫さまにも伝わってくるようでございます。
 そのような香姫さまのお姿を見て、葵瑛さまは大きくため息をつかれます。
「――冗談ですよ? まさか、本気にしました?」
 そう言って、おどけてみせられます。
 しかし、葵瑛さまのその表情は、いつもの腹立たしい挑発的なものではなく、どこか淋しげでございました。
 とうてい、冗談という言葉が通じるような表情ではございません。
 それに、葵瑛さまはお気づきになられているのでしょうか?
 香姫さまはいつものものとは違う、そのような葵瑛さまをご覧になり、思わず目をそらしてしまわれました。
 じっと、足元に転がる小石を見つめておられます。
 そのような時でした。ふいに後方でがさっという葉ずれの音がいたしました。
 香姫さまと葵瑛さまは、がばっと振り返り、その葉ずれのした場所を険しい顔でにらみつけられます。
 どうやら、まいたと思っていたあの刺客たちが、後をつけてきていたようでございます。
 次々に葉を鳴らし、姿をあらわしました。
 そして、すぐにその小さな滝の前は、刺客たちに埋めつくされてしまいました。
 万事休す。
 このような狭い場所では、しかも馬を下りていては、さすがの葵瑛さまとて、香姫さまをお守りできるかどうかは……。
 葵瑛さまが、かちりと、腰の太刀に手をかけられたその時でございます。
 それに気づいた刺客の一人が、香姫さまめがけて飛びかかってきました。
 今度こそ、今度こそ香姫さまは……!
 大ピンチでございます!!


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update:03/08/15