さくらひとひら
(一)

 これは、昔の話。悠久の風に包まれたはるか昔のお話。
 一人の東宮妃入内の決まった、左の大臣の姫君がおりました。
 しかし、その姫君は、普通の姫君とはどこか少し違っており……。
 そして、その姫君には、天敵が一人。
 それは、とても高貴なお血筋の方。御名を、高良親王とおっしゃいます。
 姫君は、この宮様を、親しみをこめて、葵瑛さまとお呼びになっていたそうでございます。
 このお話は、そのような姫君のお話から少しそれた、葵瑛さまのちょっと昔のお話でございます。


 いつかの年の秋口。
 誰からともなく、ささやかれるようになりました。
 この時期に咲く桜を見て、狂い咲きの桜≠ニ――
 それは、季節はずれに咲く桜があると都中に広まった頃から、噂されるようになっておりました。
 都の朱雀大路から少し東へ入ったところにある大きなお邸のお庭には、毎年秋の頃になると、半年遅れの桜が満開を迎えると。
 それは、そのお邸の主を物語っているようだと、主に似て、桜まで時期を間違えて盛りになってしまったなどと、口さがなく噂する者まで現れていました。
 その桜は、秋だというのに開花し、そしてそれがまた申し分のないほど素晴らしく咲き誇っているものですから、半分くらいはうらやみもあったかもしれません。
 それほどまでに素晴らしい桜が、時期を間違えていつの頃からか、そこでは毎年咲いているのです。例外なく。そのお邸のお庭に。兵部卿宮と呼ばれている方のお邸のお庭に――
 これは、そのような頃に起こったできごとでございます。


 香姫さまには珍しく、お庭を駆けまわるでもなく、女房たちをからかって遊ぶでもなく、ただじっとお庭を眺めておられます。
 簀子に座し、気だるそうに高欄に両肘をつき、お庭を眺めておられます。
 その様子は、何やらとても疲れて、やつれたような様子でございます。
 いつも迷惑なくらい元気なこの香姫さまに、一体何があったというのでございましょう。
 香姫さまのいらっしゃる東の対のお庭は、都に名をはせる左大臣邸の中で、秋のお庭≠ニ呼ばれるお庭でございます。
 ちょうど、これから盛りを迎えるお庭でございます。
 盛りにはまだ少し早いと申しましても、そろそろほのかに冷たさを感じる風がそよいでおります。
 もうそろそろ秋と申しましても、まだ残暑は厳しく、だけど夕刻ともなるとやや冷たい風も吹いてまいります。
 香姫さまは、夕刻の冷たい風にあたり、涼んでおられるようです。
 そのような香姫さまのもとへ、香姫さま付きの女房、棗がやってまいりました。
「ひ、姫さま!?」
 そして、香姫さまのそのお姿を見つけると、驚いたような表情をのぞかせました。
 香姫さまは、棗のこの驚きように、不思議そうに首をかしげられます。
 そして、香姫さまのそのご様子は、さらに棗を驚かせてしまいます。
「姫さま! 一体、何があったのですか!? 姫さまがそのようにしおらしくなさっているなど……。きっと、天変地異の前触れですよ!!」
 やはり、棗のこの主を主とも思わぬ言動は、今もなお健在のようでございます。
 東宮妃入内が決まり、香姫さまも渋々お妃教育をお受けになっておられました。
 ですから、多少は普通の姫君らしくおなりだと思いきや、棗がこのような発言をするということは、香姫さまの破天荒ぶりは衰えてはいないということでございましょう。
 そのような暴言をはいたならば、当然普段なら、嫌味攻撃を一つや二つといわず、三つや四つは食らっているところですが、どうも本日の香姫さまには覇気がございません。
 棗の暴言など無視し、ほうっと一つ、趣深いため息をもらされます。
 それがさらに、棗の目を白黒させてしまいます。
 しかし、そうはいっても、棗にはお役目がございます。
 それを遂行するため、棗は懸命に気を取り直し、香姫さまの横に腰を下ろし、一通のお文をすっと差し出しました。
「姫さま。兵部卿宮様からのお文でございます」
「葵瑛さまから……?」
 香姫さまは、この時、ようやく棗に気づいたかのように棗の顔を見られました。
 それまではずっと、棗の暴言など耳に入っていないご様子で、お庭を眺めておられました。
 棗ではございませんけれど、一体、香姫さまに何があったというのでしょう?


 翌日。
 香姫さまのもとに、昨日のお文の差出人、兵部卿宮様こと、葵瑛さまがやってこられました。
 本日は、どうやら参内せずに、直接香姫さまのもとへやってこられたようでございます。
「葵瑛さま、本当にいらっしゃったのね?」
 御簾越しに、簾中の香姫さまが、そこに現れた葵瑛さまに、半分迷惑そうにお声をかけられました。
 さすがに気がおけない関係のお二人と申しましても、香姫さまは東宮へと嫁ぐことが決まった姫君でございますので、そろそろ葵瑛さまとて、やすやすと香姫さまのお顔をご覧になることが難しくなってきたようでございます。
 まあ、それはたてまえで、香姫さまの夫となるお方、東宮……陽楊さまのご命令で、葵瑛さまとて香姫さまとあまり親しくできなくなった……というのが、本当のところでございましょうか。
 陽楊さまは、過日の音羽の滝での一件以来、あからさまに葵瑛さまを邪魔者扱いされておられます。
 このまま葵瑛さまを野放しにしておけば、またいらぬ火の粉が降りかかり、迷惑を被ると……。
 まあ、そこまではよいとして、いちばん腹立たしいことは、葵瑛さまに手のひらの上でころがされもてあそばれて、おもちゃにされることなのですけれど……。
 そして、陽楊さまのたった一人のお妃候補、香姫さまにちょっかいをかけられるのが、とてつもなくおもしろくないのでございます。
 本日、ここ左大臣邸には、左の大臣はいらっしゃいません。
 帝のおともで、標野(しめの)へと鷹狩(たかがり)におでかけになられております。
 そのような、左大臣とて簡単には断れない帝の誘いをいいことに、葵瑛さまはこうして、邪魔者がいないすきにとばかりに、しめしめとばかりに、簡単に香姫さまのもとまでやってこられたのでございます。
 しかも、葵瑛さまってば、腹立たしいことに、前日、大臣にあてつけるかのように、香姫さまに「明日、おうかがいいたします」といった内容のお文を送っておられたのですから。
 もちろん、それを知った左大臣は、本日、気が気でなく出かけて行かれたことでございましょう。
 まったくもって、この葵瑛さまにかかれば、時の権力者、左の大臣とて、この扱いなのでございます。
 邪魔者がいないのでは、もう葵瑛さまの天下もよいところでございます。
「ええ、やって参りましたよ。あなたのお顔を拝しに」
 葵瑛さまはそうおっしゃりながら、御簾の前に腰を下ろされました。
 そして、いつものどこか腹立たしい笑顔をお見せになられます。
「またお上手ね。葵瑛さまってば、いつもそのような調子のいいことばかり。だから、宮中一の困ったちゃん、葵瑛さまに目をつけられて落ちない女性はいないと、口さがなく噂されるのよ?」
 もちろん、香姫さまも葵瑛さまに負けてはおられません。というよりはむしろ、そろそろ葵瑛さまの扱いにも慣れてこられたようでございます。
 このような葵瑛さまの思わせぶりな発言にも動じることなく、嫌味で応じられるのですから。
 ……まあ、香姫さまに関しては、最初から、百戦錬磨の葵瑛さまの話術もくどき文句も、通じてはいなかったようですけれど?
「ふふふ。そのようなつまらぬ噂、情報源はまた、例の三人組ですね」
 葵瑛さまは、一人そうつぶやかれると、不気味にほくそ笑まれました。
 それがまた、本当に恐ろしい微笑みなのです。背筋にぞっと悪寒がはしるような……。
 あ〜あ。またいじめられますよ? 東宮御所のユウノウな女房三人衆の方々――
「それよりも、香姫殿。たしか、もうそろそろですね? 陽楊との約束の日は」
 葵瑛さまはころっと態度をかえ、にこりと簾中の香姫さまに微笑みを向けられます。
 そして、香姫さまはと申しますと、葵瑛さまのそのお言葉に必要以上に反応し、嬉しそうに微笑まれます。
「ええ。――うふふっ。遅れていたけれど、もうすぐ陽楊さまと嵐山へ行けるの。嵐山ではご一緒に月を愛でたり、桂川(かつらがわ)に舟を浮かべ、舟遊びをしたりするの。――楽しみだわ。うふっ。葵瑛さま、うらやましいでしょう?」
 尋ねてもいないのに、香姫さまは本当に嬉しそうにそう語られます。
 もちろん、そのような香姫さまのご様子を見ては、葵瑛さまはおもしろくありません。
 何しろ今回は、葵瑛さまはご一緒できないのですから。
 香姫さまと陽楊さま、お二人きりのお忍び旅行でございます。
 前回、仮にも、葵瑛さまは、香姫さまに告白まがいのことをされたというのに、香姫さまときたらまったく気にもされていないようで、あまつさえ、のろけてしまう始末でございます。
 それではもちろん、葵瑛さまがおもしろいわけがございません。
 もちろん、お一人仲間はずれにされるのがおもしろくないのではなく、そろそろからかい甲斐のなくなってこられた香姫さまを、おもしろくなく思っておられます。
 しかしまあ、それでも変わらず、気の毒なことに、葵瑛さまのおもちゃとしての地位は失っておられませんけれど。
「へ〜、それはそれは……」
 どこか含みのある生半可な返事を、葵瑛さまはされます。
 そして、伏目がちに、香姫さまをじっと見つめられます。
 何やらまた、よからぬことでも企んでおられるのでしょうか。
「うらやましがってもだめよ。今度ばかりは、葵瑛さまは一緒に連れて行ってあげない。――絶対に、邪魔しないでよ!!」
 前回、散々な目にあわれたので、香姫さまもさすがに学習されているようでございます。
 葵瑛さまが一緒にくれば、絶対ただではすまないとわかっておられるようでございます。
 もちろん、葵瑛さまとて、同行したならば、ただですますおつもりはないでしょう。
「――しませんよ。さすがにそろそろたいがいにしておかないと、東宮のご不興をかってしまいますからね?」
 おもしろくなさそうに、意外にも理解のある態度をとられます。
 どうやら葵瑛さま、珍しいことに、本気でお二人の邪魔をされる気はないようでございます。
 しかし、それでも、香姫さまにはちゃんとわかってしまわれているようでございます。
「あら? そのようなこと、みじんも思っていないくせに。それに、陽楊さまはそれくらいで怒ったりしないわ」
 ところがどっこい。それは香姫さまの前でだけ。
 陽楊さまと葵瑛さまお二人きりの時は、それはもう、陽楊さまってば、これでもかというほど、葵瑛さまにやきもちをやかれているのでございます。
 いつかの、香姫さまが葵瑛さまに音羽の滝へと連れて行かれたと知った時の陽楊さまの慌てぶりときたら……。
 香姫さまの前では、常に格好よくありたいとそう思う、陽楊さまのなけなしの意地と誇りなのでしょうけれど……。
 もちろん、そのような陽楊さまのやきもちっぷりをご存知の葵瑛さまは、香姫さまのこの発言がおもしろくって仕方がございません。
 そして、それに便乗し、いつものからかい体勢に突入されていかれます。
「おや? それはまた酔狂な。それではまるで、わたしに邪魔をしてもらいたいような口ぶりですよ?」
「な……っ!! まったく腹立たしい人ね! 葵瑛さまってば!!」
 葵瑛さまにからかわれていると気づかれた香姫さまは、そうおっしゃると、悔しそうに、扇で脇息をばしばしとたたきつけられます。
 御簾越しに、その様子がわかってしまうので、葵瑛さまは本当に愉快そうに微笑まれます。
「お褒めにあずかり、光栄ですよ」
 そして、そのようなことを言って、にこりとした微笑を簾中の香姫さまへ向けられます。
 それがまた、嫌味なほどにわざとらしい微笑みなので、香姫さまの怒りをさらにあおってしまうのでございます。
「きい〜!! 本当、ことごとく腹立たしい人だわ! 棗! このような人、さっさとつまみ出してちょうだい!!」
 ばっと立ち上がり、そこに控えていた棗にそう怒鳴りつけられます。
 怒鳴られた棗は、もちろんたじたじです。
 主である香姫さまの命令は絶対ですが、相手が相手なだけに、そうもいきません。
 恐れ多くも、相手は宮様。そう簡単に無礼を働けるはずがございません。
「ひ、姫さま〜……。そのような無茶なことを……」
「何が無茶なものですか! この常識はずれな宮様など、宮様に値しないわ! さっさとつまみ出しなさい!!」
 香姫さまのお怒りは最高限らしく、もう棗にもとめることはできません。
 棗は泣き出しそうな顔で、御簾の外へと出てまいりました。
 そして、訴えるようにうに、哀願するように、葵瑛さまを見つめます。
「おやおや。これはまた……。かわいそうなことをなさいますね、香姫殿は」
「かわいそうだと思うなら、さっさと自分から出て行ってちょうだい!」
 香姫さまも負けてはおりません。相変わらずの葵瑛さまへ向かっての暴言。
 まあ、このような暴言をはかれても、葵瑛さまはびくともされませんけれど。
 むしろ、その暴言を楽しんでおられる始末でございます。
 だって葵瑛さまってば、切れた時の香姫さまの予想もつかない暴言が、大好きなのですから。
 まったく、一体、どのような趣向をなさっているのでしょう、この宮様は。


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update:03/09/02