さくらひとひら
(二)

 もうとまらない香姫さまのお怒りと、相も変わらずひょうひょうと香姫さまをからかう葵瑛さまの間に立たされ、棗の頭は真っ白です。
 そのような棗を気の毒に思ったのか、そこに控えていた他の女房たちが助け船を出しました。
「そ、それより、香姫さま。このようなお話はご存知でしょうか?」
 香姫さまのお怒りをやわらげようと、必死に他の話題を持ち出します。
「そうそう! 前武蔵介娘の話ですわ!」
「前武蔵介娘……?」
 女房たちの思惑通り?、香姫さまは、あっさりと葵瑛さまをお捨てになり、興味をそちらへと移されます。
 この辺りが、いかにも香姫さまらしいところでございましょう。
 興味のあることができれば、それまでのことはあっさりと切り捨て、次へと移っていかれます。
 まあ、そのおかげで、棗は命拾いをしたのですけれど。
 安心したように、ほっとため息をもらします。
 しかしこのお方、葵瑛さまだけは、おもしろくなさそうに、ぶすっとした表情をのぞかせておられます。
 そして、女房たちの話へ耳を傾けられます。
 聞いていないような素振りをされながら。
 ぱたぱたと、扇で、暑そうにあおいでおられます。
 さすがに夏も終わりとはいえ、昼間はまだ暑いのでございましょう。
「ええ、前武蔵介娘です。どうやら、その娘の嫁ぎ先、伊予守のところへ、この間、夜盗が入ったそうなのですよ」
 わざとらしく、おどろおどろしい表情を作り、女房の一人がずいっと香姫さまに詰め寄ります。
 何やら、どこかの女房三人衆を思い起こさせるような言動でございます。
 どこでも、女房というものは、似たり寄ったりなのでございましょう。
「そして……殺されてしまったのですよ、夜盗に。伊予守が」
「え……!?」
 それまで興味深そうに聞かれていた香姫さまのお顔から、色が失われます。
 さすがに香姫さまも、このような続きが待っていようとは思いもよらなかったようでございます。
「残された前武蔵介娘で、北の方の萌葱(もえぎ)さま。すでに前武蔵介はお亡くなりだし、これで本当に身寄りがなくなってしまったのですわ。この後、一体どうなさるのでしょう?」
 そう言って、悩ましげに女房たちはため息をつきます。
 そのような女房たちの話を、香姫さまはどこかやりきれないといった表情で、静かに聞いておられました。
 そのお顔にはもう、先ほどまでの葵瑛さまに対する怒りはございませんでした。
 すっかり、そのお話にのめりこまれてしまったようでございます。
 葵瑛さまも、何をおっしゃられるわけでもなく、静かに女房たちの話に耳を傾けておられました。
 どこか焦点の合わない、そのような目をして。


 季節は初秋。
 今年は残暑厳しく、すすきが顔をのぞかせる頃だというのに、いまだに湿った生ぬるい風が頬をかすめます。
 その方の頬にも、例外なくそのような風がかすめます。
 暮夜。
 都のはずれのここ、山科(やましな)に、一台の牛車がありました。
 その車は、洛中へと急ぎ足で向かっているふうでございます。
「宮様、とうとう夜になってしまいましたね。できれば夜に入る前に、もう少し都へと進んでおきたかったのでございますが……」
 そう言って、牛車に従って歩いていた、この牛車の主に仕える家人らしい男が、牛車の中へと話かけます。
 すると、牛車の中から、言葉が返ってきました。
「仕方がないでしょう。これも仕事だからね」
 そのような物分りのよいお返事でございました。
 どうやら、この牛車の中にいらっしゃる方は、さすがは宮様と呼ばれるだけあり、いえ、宮様だからこそ、とてもできたお方のようでございます。
 それにしても、都を抜けて、このような鄙びた場所へとは……一体、どのような御用向きだったのでございましょうか?
 そのようなお仕事を、宮様が……?
「まあ、この夜を楽しみながら帰ろうではないか。――ほら、今夜は月がとてもきれいだ……」
 そうおっしゃりながら、宮様は物見から目だけをのぞかされます。
 夜空には、おっしゃる通り、真ん丸い、とても綺麗な月がうかんでおりました。
「ほう……。これはこれは……」
 宮様に促されるまま、おつきの者も黄色く輝く月を見上げ、その美しさに、思わずうっとりとしたため息をもらしました。
 そのような時でございます。どこからともなく、じょうじょうと、琵琶の音色が響いてまいりました。
 今宵の月にとてもよく合う、しっとりと落ち着いた品のある琵琶の音……。
「……とめなさい」
 琵琶の音色が聞こえたかと思うと、宮様はそうおっしゃられていました。
 もちろん、いきなりの宮様のそのお言葉に、おつきの者たちは耳を疑うように、一瞬、動きをとめてしまいました。
 しかし、次の瞬間、はっと我に返り、慌てて車をとめます。
 そして、車がとまると、中から宮様が姿を現されました。
 その宮様は……見覚えのあるお方でございました。
 そう、この宮様こそが、あの宮中一の困ったちゃん、兵部卿宮、葵瑛さまだったのでございます。
 ということはもしや、またよからぬことでも企んで、このような鄙びたところまでやってこられたのでしょうか?
 ――葵瑛さまのことですから、それも十分あり得ます。お仕事をたてまえに……。
「宮様!? 一体、どうされたのです?」
 もちろん、おつきの者たちは、慌てて葵瑛さまに確認します。
 しかし葵瑛さまは、そのようなおつきの者など気にせず、何かにひかれるように歩みを進めていかれます。
 葵瑛さまの歩みの先には、古ぼけた一軒の屋敷……。
 竹の垣根には苔が生えており、ここ何年もあまり手入れがなされていないような、そのようなみすぼらしいお屋敷でございました。
 そして、あろうことか、そこから聞こえてくるのです。
 あの素晴らしい琵琶の音が……。
「み、宮様!? お待ちください! もしや、もののけの仕業かもしれません!!」
 そのあまりにも素晴らしすぎる音色に、おつきの者たちは、とりとめのない不安を覚えてしまいました。
 あの葵瑛さまですら魅了してしまう、その音色に。
 慌てておつきの者が葵瑛さまの後を追おうとしますが、それを葵瑛さまは手で制されました。
「このようにきれいな音色、もののけが奏でられると思うかい?」
 そうおっしゃり、にこりと微笑み、竹垣に手を触れられます。
 その瞬間、先ほどから聞こえてきていた琵琶の音が、やんでしまいました。
「誰……? 誰かそこにいるの?」
 そして、竹垣の向こうから、そのようなか細い、しっとりとした女性の声が聞こえてきます。
 その言葉を発した人物が女性だとわかると、当然、葵瑛さまのその後の行動は決まっているようなものでございます。
「やあ。これは驚かせてしまったようですね? 思わず……美しい琵琶の音色に惹かれて、やってきてしまいました」
 問いかけるその声に、葵瑛さまは柔らかな口調でそうお答えになられました。
「まあ。嬉しいわ。わたくしの琵琶を誉めていただけるなど。――よろしければ、こちらへいらっしゃらない?」
 葵瑛さまのお答えに気をよくしたのか、その琵琶の奏者は、葵瑛さまを屋敷の中へとお誘いになります。
 葵瑛さまは、一瞬驚いたような表情をお見せになりましたが、すぐににこりとした微笑みに変えられました。
「ええ。よろこんで」
 そうおっしゃると、いつの間にかそこに立っていた一人の女房に促されるように、その竹垣の中へと入っていかれます。
 それを見ていたおつきの者たちは、突然の葵瑛さまの行動に驚き、慌てて駆け寄ってきます。
 しかし、それもまた、葵瑛さまに制され、竹垣の外で待機させられてしまいました。
 不安そうな顔で、御簾のたれたその庇へ、女房に促され、歩みを進める葵瑛さまをじっと見つめておりました。
 果たして、おつきの者たちが心配していたのは、葵瑛さまなのか、はたまた、葵瑛さまを呼び入れた琵琶の奏者なのか……。
 それは、誰にもわからないことでございます。


「おや?」
 御簾の前までやってこられた葵瑛さまは、感心したようにそうこぼされておりました。
 そして、にこりと微笑み、それが当たり前のように、簀子に腰を下ろされます。
 まったく、この宮様ときたら、どこでもおかまいなしに、我が物顔でお振る舞いになられるのですから。
 さすがは、帝ですら、この宮様の困ったちゃんぶりはとめられないと言わしめるお方でございます。
「山科に……この世のものとは思えぬ絶世の美女がいると聞き及んでやってきたのですが、それはあなたでしたか」
 そうおっしゃると、わざとらしく驚いてみせられます。
 まったくもう。葵瑛さまってば、そのような歯が浮くような台詞をよくもまあ……。
 しかもそれってば、今思いついたことでございましょう?
 ちょうどここが山科で、そして相手が女性でしたから……。
 かつて、山科に居をかまえた絶世の美女といえば、それはもう――
 まあしかし、このお方は、困ったちゃん同様、百戦錬磨とも言われておりますれば? このような台詞など、朝飯前なのでございましょうけれど?
 考える間もなく、ぽっとわいて出てしまうのでございましょう。
 ……それにしても、このような台詞にひっかかる世の女性も女性ですよね?
「まあ。お口がお上手な方ね。――それでは、わたくしは小野小町(おののこまち)といったところかしら?」
 葵瑛さまに歯が浮くような台詞を言われた女性――どうやら、この屋敷の姫らしい女性――は、くすくすと笑い、まるでたわいないというように簡単にあしらってしまいました。
 あの葵瑛さまをものともせず簡単にあしらえる女性など、この世に香姫さまくらいなものと思っておりましたが、他にもおられたようでございます。
 まこと、稀有な姫君でございます。
「小野小町も顔負けですよ。……そうですね。では、わたしはさしずめ、深草少将(ふかくさのしょうしょう)といったところでしょうか?」
「まあ!」
 ぱらりと扇を開き、お顔の前へ持ってくると、何やら葵瑛さまらしい、企んでいるともとれる不敵な笑みをのぞかされました。
 そしてもちろん、その目は、とても楽しんでおられるご様子です。
 そのような葵瑛さま相手に、簾中のこの姫君は、少し大げさに驚いてみせます。
 どうやら姫君もまた、このようなたわいない葵瑛さまとの会話を、楽しみだしているようでございます。
「それにしても、今宵の月に、あなたの琵琶はよく映えておりました。――もう一度、お聞かせ願えませんか?」
 葵瑛さまは高欄に左のひじをおき、どこか切なげに、夜空に浮かぶ月を見上げられます。
 そのご様子を、姫君は、もの言いたげに御簾越しに見ております。
 そして、切なげに首を静かに横にふり、にこりと微笑みます。
「もちろんですわ。拙い演奏ですが、このようなものでよければ」
「それはよかった……」
 葵瑛さまは月から姫君へと視線を移しながら、そうおっしゃいました。
 そして、御簾越しに、姫君の琵琶の演奏がはじまります。
 琵琶の演奏がはじまると同時に、それに合わせるかのように、どこからか、秋の虫の声まで聞こえてまいりました。
 それに聞き入っておられた葵瑛さまは、
「なんと、風流な……」
そう感嘆されました。
 そして、葵瑛さまのご注文曲何曲かが終了し、ことんと琵琶の上に撥が置かれます。
 どうやらこれで、今宵の演奏はおしまいのようでございます。
「とてもすばらしかった。――まるで……内面からにじみ出る、あなたのお心を聴いているようでしたよ」
 少し興奮気味で、葵瑛さまはそうおっしゃいました。
 すると、琵琶の奏者の姫君は、一瞬にしてかっとお顔を真っ赤にし、恥ずかしそうにうつむいてしまいました。
 どうやらこの姫君は、やはり普通の姫君とは少し違っていたようでございます。
 その容姿を誉められても簡単にあしらえてしまえますが、それが琵琶の演奏に及ぶとこの反応。
 なんとも、かわいらしい反応をされる姫君でございます。
 そのような反応を目の当たりにして、この方が、この葵瑛さまが、それを喜ばないわけがございません。楽しまないわけがございません。
 愉快そうに、にこにこと微笑まれております。
 どうやらこの姫君、気の毒なことに、葵瑛さまに気に入られてしまったようでございます。


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update:03/09/02