さくらひとひら
(三)

「……ところで、小町殿。あなたの本当のお名前は?」
「え……?」
 突然の葵瑛さまの質問に、小町……姫君は、少し驚いた様子です。
 恐らく、この姫君の中では、今宵のこの楽しいひと時は、あくまで一夜のもの。次の夜には持ち越さないものと思っていたのでしょう。
 ですから、まさか名前など聞かれるとは思ってもいなかったのでしょう。
 驚いたような、だけどどこか嬉しそうな表情をのぞかせます。
「だめよ。女性に名を尋ねる時は、まずご自分から名乗るものよ、少将さま」
 しかし、そのお口から出てくる言葉は、そのようなちょっと突き放した言葉です。
 それがまた、葵瑛さまの興を誘ってしまいます。
「これは、一本とられましたね。そうですね、女性に名を尋ねる時は、まずはわたしから名乗らねばなりませんね。――わたしは……葵瑛と呼ばれております」
「葵瑛さま……?」
 姫君は、確認するように葵瑛さまの御名を呼びました。
「ええ、葵瑛です。(あおい)に光の玉の意を持つ(えい)と書いて、葵瑛です」
「素敵なお名前ね……」
 御簾の向こうには、優しげな姫君の微笑みがありました。
 それに気づかれた葵瑛さまは、少し困ったように微笑まれます。
「役職は……聞かないのですか?」
 どうやら、当然聞かれるであろうそのことに触れようとしない姫君に、少し普通の姫君とは異なるところを感じられた葵瑛さまは、そこに困ってしまったようでございます。
 この姫君は、これまで葵瑛さまが相手にされてきた姫君とは、少し違うようでございます。
 ――そう。言うなれば、葵瑛さまが苦手とする姫君の部類に入るかもしれません。
「ええ。聞く必要はございませんもの。あなたさまのそのお姿から……とても高貴なお方だということはわかります。わたくしとは、くらべることもはばかられる身分のお方……。――今となっては、恥ずかしいですわ。このようなあばら家にお招きしてしまったこと」
「そのようなことはありませんよ。わたしは、この屋敷が気に入りました。琵琶の音に合わせ奏でる虫の音。なんとすばらしいことでしょう」
 葵瑛さまは、まったく気にしていないとおっしゃるように、そして姫君にも気になさいますなとおっしゃるように、微笑まれます。
 それを見て、姫君も少しは安心したようでございます。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、わたくしも救われますわ」
 少し拙い笑顔をのぞかせます。
「いいえ。それより、小町殿。わたしは名乗りました。あなたの名は?」
「そうでしたわね。――わたくしは、萌葱と申します」
 そう姫君が名乗ると、何を思ったのか、葵瑛さまはあろうことか、間に垂れている御簾を持ち上げてしまわれました。
 そうなると、間に隔てるものはなくなってしまいます。
 しかし、それにかまうことなく、葵瑛さまと萌葱姫は、互いに見つめ合われます。
 そして、しばらくそれが続いたかと思うと、はっと我に返った萌葱姫は、慌てて扇でお顔を隠しました。
 これまでの短時間、葵瑛さまは、萌葱姫は、何を思っておられたのでございましょう。
 それは、お二人だけがご存知のこと――
「なんということでしょう。わたくしとしたことが」
 萌葱姫は、今自分がしでかしてしまったことをとても恥ずかしそうにお顔を隠します。
「そう恥ずかしがらないで、姫」
 葵瑛さまは、困ったように苦笑いを浮かべられます。
 しかし萌葱姫は、ぶんぶんと首を横に振り、答えようとはしません。
 その萌葱姫の様子に、葵瑛さまもそれ以上無茶なことはできなくなってしまいました。あの葵瑛さまともあろうお方がでございます。
「――すまなかった。わたしとしたことが、つい気が急いて……。あなたの名、そしてあなたとの会話から、ついあなたのお顔を見てみたくなってしまったのです。お許しください」
 そうおっしゃり、するりと御簾をお戻しになり、切なそうに簀子にたたずみ、月を見上げられます。
 そのような葵瑛さまのご様子を見て、萌葱姫は、困ったように、悲しそうに、慌てて何かを言おうと口を開きかけます。
 しかし、萌葱姫の口から言葉が出る前に、再び萌葱姫に振り返られた葵瑛さまのお口から言葉が発せられました。
「それにしても、あなたはとても不思議な方ですね」
 萌葱姫は、一瞬何のことを言われているのかわからなかったようですが、すぐに皮肉るような複雑な笑みをもらしました。
「それもそうだわ。長年、このような鄙びたところに住んでいては、風変わりにもなりますわ」
 そう言って、自分で自分を揶揄してしまいました。
 そのような、控えめでいて、皮肉るところはちゃんと皮肉る萌葱姫の発言に、葵瑛さまはさらに興をそそられてしまったようでございます。
 とても優しげな表情で、萌葱姫を見られます。
 あまりのぞかせたことのない、その珍しい心からの優しげな瞳で。
「そのようなことは申しておりませんよ。わたしは本当に……不思議な女性だと思ったのですよ。他の姫君とは違う……魅力的な方だ」
「まあ、本当、お口がお上手ね」
 あえて茶化すように、萌葱姫はころころと笑います。
 萌葱姫にはちゃんとわかっていたのです。葵瑛さまのお言葉を真に受けては、信じてはいけないと。
 萌葱姫と葵瑛さまとは、本来ならば言葉を交わすことさえできないほどかけ離れた身分の差があると、ちゃんとわかっていましたから。
 そのような分別もつかないような、馬鹿な姫君ではありませんから。
 だからこそ、葵瑛さまも、この姫君をお気に召されたのでございましょう。
 これまでの葵瑛さまのお言葉、そして表情から、お気に召されたことなど、葵瑛さまをよく知る者ならば誰でもわかることでございます。
 そうしてご自分の言葉を誤魔化されても、葵瑛さまはくじけることはございません。
 あえてそれには気づいていないというように、お言葉を続けられます。
「ところで……本当に、わたしをあなたの深草少将にしてはいただけないでしょうか? 百日間、ここへ通い続けます。見事百日通い続けることができたら……。――決して、決して同じ轍は踏みません」
 葵瑛さまは、御簾ぎりぎりまで身をお寄せになり、そして御簾越しに、じっと熱い眼差しを簾中の萌葱姫へ向けられます。
 そのような視線を向けられては、萌葱姫とてたじたじです。
 しかし、その視線から、その瞳にこめられる光から、葵瑛さまは決して冗談でおっしゃっているのではなく、嘘偽りなく本気だとわかります。
 そして、次第に悟りはじめていた自分の気持ちに、素直に従ってみることにしました。
「……よろこんで」
 萌葱姫は、気づけばそう答えておりました。


「葵瑛さま! 葵瑛さまってば。どうなさったの!?」
 ぼんやりとお庭を眺める葵瑛さまに、不審げな香姫さまのお声がかかります。
 そのお声に気づき、葵瑛さまは、はっと我に返られました。
 どうやら、先ほどの女房たちの会話を聞いているうちに、心はどこか遠くへ飛んでゆかれていたようでございます。
「ああ、すまない。少し、ぼうっとしていたようだ」
 困ったように苦笑いを浮かべられます。
「もう、葵瑛さまってば。わたしをからかいにやって来たくせに、ぼうっとしていては駄目じゃない」
 香姫さまは、そのような、明らかに香姫さまには不利な発言をされます。
 首をかしげ、少し困ったように、優しげな眼差しで葵瑛さまを見ておられます。
 その香姫さまを見て、葵瑛さまは一瞬切なげな表情をのぞかされたかと思うと、またいつものような憎らしい、ふてぶてしい表情にお戻りになります。
 しかし、葵瑛さまにはちゃんとわかっておられました。
 香姫さまの、香姫さまのようで香姫さまらしからぬこの発言。
 それは、ぼうっとしている葵瑛さまを気づかって発せられたお言葉であると。
 香姫さまの優しさ、労わりであると――
「やはり、あなたは、わたしにからかって遊んで欲しいようですね? では、お望みのままに」
 そうおっしゃると葵瑛さまは、ずいっと身を乗り出し、御簾に手を触れようとされました。
「こんの馬鹿親の――」
 香姫さまがいつもの調子で扇を振りかざし、そう怒鳴ろうとされた時でございます。
 お言葉をさえぎるように、どたどたと慌しい足音が聞こえたかと思うと、血相をかえた女房が飛び込んできました。
「香姫さま! 兵部卿宮さま! 大変です!!」
 このよくしつけの行き届いた左大臣家の女房にあるまじき、はしたない振る舞いでございます。
「どうしたの、近江(おうみ)。騒々しいわね」
 香姫さまは、ぶすっと面白くなさそうに、血相を変えて飛び込んできたまだ若い女房を怒鳴りつけます。
 香姫さまにしかられ、近江は一瞬たじろぎました。
 しかし、すぐに気を取りなおし、言葉を続けます。
「も、申し訳ございません。しかし……!!」
 近江は苦しそうに、そこで言葉をとめてしまいました。
 そのような近江を、怪訝そうに香姫さまは見られます。
「一体、どうしたの?」
 意を決して、真っ青な顔で近江が叫びます。
「そ、それが、実は……。帝が、帝が落馬されてしまったそうなのです!!」
 その言葉が発せられると同時に、色を失ったお顔で、がたんと音を立て、葵瑛さまは思わずたてひざをついてしまわれました。
 そして、迫るように簾中をにらみつけておられます。
 その場にいた香姫さまからも、そして棗を含める女房たちからも、言葉と顔の色が失われてしまいました。


 ごとごとと、急ぎ足で朱雀大路を北へ向かう牛車がここに一台。
 この牛車は、先ほど左大臣邸へやって来た兵部卿宮家の牛車でございます。
 これから左大臣邸の牛車の準備をしていては遅くなるということで、香姫さまも葵瑛さまの牛車に同乗することになりました。
 本来ならば、このお二人が一つ牛車に同乗するなど、あってはならないことでございます。
 東宮へ嫁ぐことの決まった左大臣家の姫君と、その東宮のおいとこの親王さまが牛車を同じにするなど。
 しかし、今回ばかりはそうも言っておられません。何しろ、事態は急を要するのでございますから。よりにもよって、帝が落馬されてしまったなどとは……。
 しかも、それは鷹狩の最中の出来事。もしかすると、勢いよく走る馬の上から転落されてしまっていたら……。
 ――それはもう、最悪の事態しか待っていないでしょう。
 そのようなめくるめく不安が渦巻く中、一つ牛車に乗り込み、香姫さまと葵瑛さまは、朱雀大路を内裏へと向かっておられます。
 言葉もなく、ただただ蒼白な顔で。
 香姫さまは、ついには、小刻みに震え出してしまわれました。
 いつもの香姫さまからは、とても連想のできない女性らしい反応。
 香姫さまとて、はやりその真のお心は、普通の女性そのものだったのでございます。
 普段あれだけ好き放題お振る舞いになられている、破天荒な姫君でございますけれど……。
 そのような香姫さまに気づかれた葵瑛さまは、そっと香姫さまを抱き寄せられました。
 香姫さまも、さすがにこの時ばかりは抵抗しようとはされません。
 そして、気づかれてしまったのです。震える香姫さまを落ち着かせようとした葵瑛さまのお体もまた、かすかに震えていることに。
 香姫さまは、心配そうにじっと葵瑛さまを見つめられます。
 そして、お二人は互いを気遣うように、震える手を重ね合わせられました。
 葵瑛さまは、牛車の進行方向を、険しいお顔でにらみつけておられます。


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:03/09/05