さくらひとひら
(四)

 あれから、幾日が過ぎたでしょう。
 あの百夜通い(ももよがよい)のお約束から、すでに何十日も過ぎておりました。
 もうほとんど、残す日はございません。
「ねえ、葵瑛さま。質問してもいいかしら?」
 さすがに何十日も経てば、かなりうちとけてきたのでございましょう。
 萌葱姫は親しげに、そう葵瑛さまに話かけます。
 葵瑛さまもまた、優しげな表情で萌葱姫にこたえられます。
「何だい?」
 今ではすっかり間の御簾も取り払われ、そして萌葱姫は扇でお顔を隠すこともしなくなっておりました。
 この何十日という日にちは、お二人の間の距離を縮めるには、十分な日数だったのでございましょう。
「あのね、雪がとけたら何になるでしょう?」
 そのかわいらしい萌葱姫の質問に、葵瑛さまは一瞬驚いたような表情をのぞかされました。
「あはは。そのようなありきたりな質問。それで水≠ニ答えては、わたしは馬鹿ではないですか」
「もう。そうじゃなくて、何になるのか答えてくれなければだめじゃない」
 萌葱姫は少しすねたふうに、頬をふくらませてみせます。
「ごめんごめん。――それはね、春だね、春になるのだよ」
 葵瑛さまは、まだ見ぬ先の春を思っておられるように、愛しそうに月を仰がれます。
 そのようなどこか艶かしい葵瑛さまを前にしても、萌葱姫のかわいらしい態度は崩れることはありません。
 いえ、むしろ、そのような葵瑛さまなど、気にしていないかのようでございます。
「正解! ……やはり、知っていらしたのね?」
 そして、今度はつまらなそうに、恨めしそうに葵瑛さまを見ます。
 それが、またとても愛らしい素振りなので、葵瑛さまの意地悪心に火がついてしまいます。
 その愛らしい姿を見たくて、何度も何度も、萌葱姫をいじめてしまいます。
「それでは、これはどうかしら? 桜が散っても、残るものは何でしょう?」
 くすくすと、これはわからないわと楽しげに萌葱姫は笑います。
 その姿が、葵瑛さまにとっては、これまたかわいらしく映り、質問の答えなどそっちのけで、思わず抱きしめてしまいたい心境にかられておられました。
 しかし、まだ今宵は約束の夜ではございません。
 やはり約束した以上、百日を待たねばなりません。
 葵瑛さまは、はやる気持ちをおさえ、冷静を装い答えられます。
「桜が散っても残るもの……ですか? ――はて? さすがにそれは……」
 なんと、あの葵瑛さまがお答えになられなかったのです。
 どのような質問をなげかけられようと、それが正しい答えとは限らなくとも、逆に相手を打ち負かしてしまうほどのお口の持ち主の葵瑛さまがでございます。
 ――それは、意図してなのか、それとも本当にわからなくてなのかは、真のところはわかりませんけれど。
「ねえ、お答えは?」
 萌葱姫は上目遣いに、期待に満ちた眼差しを葵瑛さまへ向けます。
 そのような萌葱姫を前に、葵瑛さまは本当にそのお答えがわからないのか、少し困ったように微笑まれました。
「……降参。それはわたしにもわからないよ。――何かな?」
「もう! そのように早く降参してはおもしろくないじゃない。まったく、葵瑛さまは……」
 萌葱姫は悔しそうに、持っていた扇をぱちんと鳴らしました。
「あはは! そうすねないすねない。それで……何なのかな?」
 このような発言をする時の葵瑛さまならば、きまって意地悪げな表情をのぞかせているはずでございますが、今回はそうではなく、優しげな笑みを浮かべておられました。
 そして、やはり、優しげな眼差しを萌葱姫へ向けておられます。
「――仕方がないわね……」
 萌葱姫は、多少非難するように、そして諦めたようにため息をもらしました。
「あのね、桜が散っても残るものは……それは愛しさよ」
「……愛しさ?」
 葵瑛さまは、訳がわからないというように首をかしげられます。
 すると萌葱姫は、そのような葵瑛さまの様子を見て、得意げに語りだします。
「ええ。愛しさ。――桜が満開の時は、それはそれで人は桜を美しい、愛しいと思うでしょう? そして、桜が散っても、人はそれを忘れないわ。また来年を思い、散ってしまった桜を愛しく思うのよ。――人の心も、それと同じだと思わない?」
「人と同じ……?」
 葵瑛さまは、興味深げに萌葱姫のお話に耳を傾けられます。
 そのような葵瑛さまを、萌葱姫は愛しそうに見つめます。
「もう決して手に入らないと、一緒の時を過ごすことができなくなったとわかっていても、忘れることはできないでしょう? その人のことを。それが辛くて悲しくて、もう二度と大切な人は作らないと思うの。だけど、それでも人は、また見つけてしまうのよ。その人のかわりになる人を。――人は、弱い生き物だから、だからかわりを求めてしまうの。――だけど、それもいいと思うわ。だって……一人は本当に辛いもの……」
 そう言って、萌葱姫は、悲しげに葵瑛さまを見つめます。
 それはすなわち……これからお二人に待ち受けているものを意味しているのでしょう。
 お二人の間には、雲泥の差といわれる身分の差が立ちはだかっております。
 決して、一緒になることができない身分の差が……。
「――わたしは、あえてそれには賛同いたしかねます。……きっと、何かいい方法がありますよ。わたしは、それを信じて、百夜通い続けます」
 葵瑛さまはそうおっしゃると、そっと萌葱姫の肩を抱かれました。
 すると、萌葱姫の瞳から、ぽろりと、一滴の涙がこぼれ落ちました。
 もうすぐそこにやってくる別れの時を思うと、涙をこぼさずにはいられなかったのでしょう。
 百夜見事達成したとしても、決して一緒にはなれないのですから。
 むしろ、百夜がきてしまうと、もうお二人は会うこともできなくなってしまうかもしれません。
 これまでは、百夜を口実に、こうして会ってきましたが、実際そうなってしまえば、もう口実を失ってしまいます。
 ――お二人が結ばれる。
 誰も、それを許しはしないのです。


「とうとう……やってきてしまいましたね。――今夜で九十九夜です。そして、明日が約束の百夜」
 簀子にたたずみ、庇に座す萌葱姫を、切なげな表情で見下ろされる葵瑛さま。
 そのご様子から、それ以上語らずとも、葵瑛さまのお気持ちはわかってしまいます。
 葵瑛さまもまた、百夜がやってきた後のことを承知されているのです。ご存知なのです。
 ――しかし、望まずにはいられません。
「葵瑛さま……?」
 萌葱姫は、今にも葵瑛さまに飛びついてしまいそうな表情を浮かべ、じっと葵瑛さまを見上げております。
「お約束します。たとえ、どのような妨害にあおうとも、わたしは、必ずあなたを迎えます。あなたが、それを望んでくださるのならば……」
 そうおっしゃると、すっと跪き、萌葱姫に手を差し伸べられます。
 もちろん萌葱姫は、差し伸べられた葵瑛さまの手をぎゅっと両手で握り締め、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしはじめました。
「何を泣いているのです? 泣く必要がどこにあるのですか? 我々に用意されたもの、それは来年の桜≠ナすよ。桜を思って(しとね)をぬらすことはないのです」
「葵瑛さま……!!」
 萌葱姫は、涙でぬれたそのお顔をぎゅっと葵瑛さまの胸へと押しつけ、そして求めるように抱きつきます。
 葵瑛さまもまた、そのような萌葱姫を、愛しそうに抱きしめかえされます。


 とうとう、約束の百日目。
 百夜通い達成の夜でございます。
 葵瑛さまは約束通り、萌葱姫のもとへやって来られました。
 おっしゃった通り、深草少将と同じ轍は踏まれなかったようでございます。
 深草少将は、九十九夜通い続けることはできましたが、約束の日、最後の日、百日目にして、小野小町のもとへやってくることなく、そのままはかなくなってしまったのです。亡くなってしまったのです。
 しかし、葵瑛さまは、ちゃんとここにいらっしゃいます。萌葱姫のもとに。
「萌葱。約束の日だよ。――我々の約束は守られたのだよ」
 簀子にお姿を現された葵瑛さまは、御簾の向こうで、こちら側に背を向けて座っている萌葱姫にそうお声をかけられます。
 しかし、一向に萌葱姫の返事はございませんでした。
「萌葱……?」
 葵瑛さまは不思議に思い、萌葱姫に近づこうと御簾を持ち上げようと手を伸ばされます。
 その瞬間、ようやく萌葱姫は言葉を発しました。
「来ては駄目!」
 ようやく萌葱姫の口から出た言葉は、そのような予想外の言葉でした。
「萌葱……? 来ては駄目とは、一体……?」
 さすがの葵瑛さまも、これほどまでに予想を覆される言葉を投げかけられては、うろたえずにはいられません。
 それが、愛しい者の口から発せられたものであればあるだけに。
「お願い。そのままで聞いて。葵瑛さま……」
 萌葱姫は、相変わらず葵瑛さまに背を向けたままです。
 葵瑛さまは仕方なく、萌葱姫に従うことにされました。
 御簾に伸ばした手を戻し、じっとその前にたたずまれます。
「――ねえ、葵瑛さま。やはり、わたしたちは同じ轍を踏んでしまったのよ」
「萌葱!?」
「あなたはやはり、深草少将だったわ……。だってわたしたち、百夜を迎えることができなかったのですもの!」
 萌葱姫は、はきすてるようにそう叫ぶと、そのままわあっと大声を上げて泣き出してしまいました。
 もちろん、そのような尋常ではない様子を見せられては、そのような理解に苦しむ言葉を投げかけられては、葵瑛さまもこのまま素直に萌葱姫に従っているわけにはいきません。
 萌葱姫の真意を確認するため、御簾を持ち上げ、萌葱姫のもとへ駆け寄ろうとされます。
 しかし、駆け寄る間もなく、すっと現れた萌葱姫つきの女房に、いくてを阻まれてしまいました。
「そこをどきなさい!」
 葵瑛さまは女房を避けるように、萌葱姫のもとへ行こうとされますが、女房は執拗にそれを邪魔し、そして苦しそうに叫びました。
「どうか、どうか姫さまの望むようにしてくださいませ! 葵瑛さま!」
「女房殿?」
 さすがに、女房のそのような振る舞いを見せられては、これ以上は、葵瑛さまも強引に萌葱姫のもとへ向かうわけにはいきません。
 怪訝そうに、女房を見下ろされます。
「――どうか、ご理解くださいませ。……今朝早く、姫さまのお輿入れが決まりました」
「え……?」
 女房のその言葉を聞かれ、葵瑛さまは思考が停止したように、その場に呆然と立ちつくしてしまわれました。
 もう女房を避け、萌葱姫のもとへ向かおうとはされておりません。
 いえ、向かう必要が、向かうことが、許されなくなってしまったのでございます。
「ご覧の通り、我が前武蔵介家は、明日をも知れぬ落ちぶれぶりでございます。そこで、それを見かねた伊予守が、姫さまをご自分の北の方へと……」
「……」
 葵瑛さまは何を言うでもなく、ただ険しい顔で女房の話を聞いておられます。
「――仕方がないのです。姫さまもそれをご承知です。――どうか、このままお引き取りくださいませ。あなたさまとわたくしどもは、もとより、同じ時間を過ごしてはいけなかったのでございます。――ほんのひと時、夢を見られたと、姫さまも満足しておられます」
 女房は今にも泣き出してしまいそうなその顔で、気丈にも、しっかりとした口調でそう言い放ちました。
「……では……それでは、わたしのもとへ来ることもできるでしょう? わたしでも……」
 葵瑛さまは、それでもなお、萌葱姫とこれまで過ごしてきた時間を思うと、そう食い下がらずにはいられませんでした。
「どうか……どうか、ご理解くださいませ。姫さまのことを思うなら、このままお引き取りくださいませ。――姫さまは、ご自分のために、あなたさまにご苦労をおかけしたくはないのです。あなたさまを思うからこそ、身をひいたのでございます。葵瑛さま!!」
 すがるように、訴えるように、女房は葵瑛さまに詰め寄ります。
 さすがにここまで言われては、葵瑛さまとて、それ以上何もおっしゃることはできません。
 葵瑛さまにも、もちろんわかっておられたことでございますから。
 もとより、葵瑛さまと萌葱姫には、一緒になることのできない身分の差がございました。
 しかし、この幸福な時が、もうしばらくは続くとも思っておられました。
 それが、意外にも早く別れの時が訪れてしまったものですから、葵瑛さまもそれを素直に受け入れることができなかったのでございます。
 ――そう。必ずやってくる別れの時が、予想よりも少し早かったというだけのこと。
「……わかりました。わたしも、これ以上、あなたを苦しめたくはありません。このまま……去りましょう。――しかし、これだけは覚えていてください。わたしのあなたを思う心は、本当に……本当に、嘘偽りなく、本物だったということを……」
 そうおっしゃると、葵瑛さまは、そのまま夜の闇にお姿をとかしていかれました。
 月は、細く赤く、不気味に輝いておりました。
 そして、この頃には、もうすっかり、虫の声も聞こえなくなり、ちらほらと、白いものが空から舞い降りてくる季節になっておりました。
 完全に葵瑛さまのお姿がなくなると、萌葱姫はようやくお顔を上げ、そしてぽつりとつぶやきました。
「わたしもよ……。わたしもよ、葵瑛さま……」
 そして、仰ぐように天へ顔を上げます。
 何かを決意したように、ぎゅっと目をつむって。
 先ほどまで葵瑛さまがたたずんでおられたその簀子の上には、ひとひらの桜の花びらが落ちておりました。
 葵瑛さまの衣についていた桜が、その存在を主張するように、自らの意思でそこに落ちたように。
 このような季節にまだ花をつけている桜など、都広しといえど、たった一本しかございません。
 朱雀大路を少し東へ入ったところにある、大きなお邸のお庭。兵部卿宮家のお庭――
 それ故に、その桜は、狂い咲きの桜と呼ばれ、この時期の都の風物詩として、都で知しらぬ者はいなかったのでございます。

 これが、今より二年前の出来事でございます。


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update:03/09/05