さくらひとひら
(五)

「宮様、姫様。到着いたしました」
 ごとんと牛車が大きく揺れたと思うと、牛車の外からそのような声がかかりました。
 その声にはっと気づかれた香姫さまと葵瑛さまは、慌てて寄り添われていた体をはなし、触れ合われていた手をはなされます。
 そして、牛車をおりようとされます。
 まずは、葵瑛さまが牛車をおりようと、片ひざをつかれた時でした。
 香姫さまが、ぎゅっと葵瑛さまの袖を握られます。
「……香姫殿?」
 その不思議な香姫さまの行動に気づかれた葵瑛さまは、不思議そうに香姫さまを見つめられます。
 香姫さまは、真剣な面持ちで葵瑛さまを見ておられました。
「あのね、葵瑛さま。先ほどの伊予守の北の方のお話だけれどね。女房たちはああ言っていたけれど、今は出家なさり、伊予守と、お父君の前武蔵介の菩提を弔っているそうよ? ――きっと……愛していたのね。だって、あの若さで出家なさるくらいだもの?」
 困ったように、そして何かを悟っているかのように、優しく香姫さまは葵瑛さまに微笑みかけられます。
 すると葵瑛さまも、香姫さまのおっしゃろうとしていることがおわかりになるのか、切ないけれど、嬉しそうに微笑まれました。
「そう……ですか……」
 どこか安心したようなところがあるようにも感じられます。
「――やはり、あなたは気づいていたのですね?」
 少し困ったように、葵瑛さまがそう確認されると、香姫さまは何もおっしゃらず、ただこくんとうなずかれるだけでございました。
 それで、葵瑛さまは、全てを悟ってしまわれたのです。
 香姫さまは先ほど、前武蔵介娘の話を、まるではにめて聞かれたような素振りを見せておられましたけれど、ちゃんとご存知だったのです。
 現在と、そして過去を……。
 何しろ、香姫さま。いつか伏見(ふしみ)の深草の稲荷大社で、山科に住む、琵琶をよく弾く、身分低き姫君とお話されたことがございましたから。
 その時に、ほんの少し聞いていた、昔の恋のお話。
 身分違いの恋のお相手がどなたなのか、きっと予想がついていたのでございましょう。
 おそらく、あの方だと。
 そしてそれは、前武蔵介娘の話を聞いた時の、どこかいつもと違う葵瑛さまのご様子から、確信めいたものになっていたのでございましょう。
 今はほんの少し前のお話。身分高き殿方と、身分低き姫君の、結ばれなかった恋のお話――


 だだだだだ……と乱暴な足音を立て、香姫さまと葵瑛さまが清涼殿は夜御殿(よるのおとど)へ飛び込んでこられました。
 あまりにもすごい勢いで飛び込んでこられたものですから、そこにいらした方々は皆、ぎょっと目を見開き驚いておられます。
「帝! ご無事ですか!?」
 そう言って、葵瑛さまは、そこに座していらっしゃる帝へ詰めよられます。
「こらこら、宮。そう慌てずとも、わたしは生きているよ」
 少し困ったように、迫る葵瑛さまに帝はそうおっしゃいます。
 しかし、葵瑛さまの勢いは衰えることはありません。
 帝のお言葉を信じられないとばかりに、あちらこちらとお体をなめるように見まわされます。
「葵瑛。本当に、父君は大丈夫だよ」
 困りきっている帝を助けるかのように、帝から少し下がったところに座していらっしゃった陽楊さまが、そう葵瑛さまにお声をかけられました。
 その陽楊さまのお言葉で、葵瑛さまもようやく落ち着きを取り戻されたようでございます。
 すっと帝からはなれ、そして陽楊さまよりも下がった位置に腰を下ろされました。
「香子も。そこで立っていないで、遠慮せずにこちらへおいで」
 そして、立ったまま、遠慮がちにこちらを見ておられた香姫さまに、陽楊さまがお声をかけられます。
 それでようやく、香姫さまもすごすごと夜御殿へと入って来られました。
 帝のすぐ前には陽楊さまが、そして少し下がったところに葵瑛さま。その後ろに、香姫さまのお父君であられる左大臣が座しておられます。
 香姫さまは入ってこられたはいいものの、どこに身を落ち着かせればいいのか、少し困っておられる様子でございます。
 すると陽楊さまは、優しげに微笑まれます。
「香子は、わたしの隣に」
 まったくもう、いけしゃあしゃあと、陽楊さまってば、そのようなことをおっしゃられました。
 もちろん、それに反対する方などおらず、葵瑛さまはまたいつものひょうひょうとした態度に戻り、にやにやと、楽しげに陽楊さまと香姫さまを見ておられます。
 そして、帝もまた、興味深げに、その様子を眺めておられました。
 ただ左大臣だけが、本当はそれに反対したいものの、東宮のおっしゃられることに逆らえない。そして、それを帝もお許しになられているからと、多少はらはらとした気持ちで見守っておられました。
 香姫さまは言われるまま、陽楊さまの横にいらっしゃると、ちょこんとそこに腰を下ろされました。
 それを確認し、陽楊さまは嬉しそうに微笑まれます。
 そして、葵瑛さまが口を開かれました。
「それにしても、落馬されたとうかがいましたが、それにしては帝のご様子は……?」
 少し不思議そうに、首を傾げられます。
 まったくもう、葵瑛さま。それでは何ですか? 帝は、もっと怪我をされていなければならなかったのですか?
 ――とは申しません。何しろ、そうおっしゃられた葵瑛さまは、首こそ傾げておられますが、とても嬉しそうだったのでございますから。
 帝がご無事で、本当に嬉しそうでございます。
 もちろん、そのようなことは、帝も、そして陽楊さまもご存知です。香姫さまとて容易におわかりになります。
「それはね、左大臣のおかげだよ。彼が落馬しかけた父君をかばってくれたそうだよ」
「え……? 左大臣が……?」
 陽楊さまのお言葉を聞き、葵瑛さまは不思議そうに左大臣を振り返えられました。
 すると左大臣は、少し照れたようにうつむいてしまわれました。
 そのような左大臣に葵瑛さまは近寄り、そして、すっと両手をとられます。
「ありがとう、左大臣。帝を……お父君を助けてくれて……」
 じっと左大臣を見つめ、そうおっしゃいました。
「いえ……」
 そして、左大臣もまた、静かにそう答えられます。
 ――と、ちょっとお待ちください。ということはすなわち、左大臣もまた、葵瑛さまのあの秘密……いえ、秘密という秘密ではございませんけれど、実は陽楊さまと葵瑛さまが母君違いのご兄弟だということをご存知なのでしょうか?
 まあ、それは今は関係のないことでございますね。何より、帝がご無事で、そして助けた左大臣もかすり傷程度ですんだのでございますから。
 葵瑛さまが握った左大臣の手に、ほんのちょっとかすったようなかすり傷がある程度でございました。
 そのようなご様子を、ちっとも不思議とは感じておられない様子で、香姫さまはご覧になられていました。
 もしかすると、香姫さまは、これもまたすでにご存知だったというのでしょうか。
 ついこの間、その事実を知られたばかりであるはずの香姫さまですのに……。
 そして香姫さまは、あえてその話題には触れないように、おもむろに、まったく関係のないことをおっしゃいました。
「わたしね……今回のことで、思い出したことがあるの……。――笹舟の君……」
「笹舟の君……?」
 いきなりの香姫さまのそのお言葉に、陽楊さまは不思議そうに香姫さまを見つめられます。
 もちろん、当たり前のように、香姫さまの腰に手をまわされているあたり、陽楊さまもなかなかにあなどれませんけれど。
「ああ。香姫の筒井筒(つついづつ)の君です」
 不思議そうな表情をお見せになる帝、陽楊さま、そして葵瑛さまに気づき、左大臣がそうつけ足されました。
「――今は、どうされているのかわからないけれどね?」
 そして香姫さまは、困ったように切なげに微笑まれます。
 その香姫さまの表情は、何かよからぬ、そしてとりとめのない不安を、陽楊さまに運んでしまいました。
 香姫さまも、陽楊さまも、まだその事実に気づかれておられない様子でございますけれど……。
 今回のこととは、一体……帝の落馬か、それとも、前武蔵介娘の話か……。
 それはもちろん、香姫さまだけがご存知のことでございます。


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update:03/09/08