さくらひとひら
(六)

 左大臣邸。
 そこに、みすぼらしい装いの牛車がつけられておりました。
 そして、その車に、人目をさけるかのように、香姫さまが近寄ってこられます。
「ごめんなさい。遅くなってしまったわ」
 車の中へ、お声をかけられました。
「かまわないよ。女性の仕度に時間がかかることくらい、承知しているよ」
 そう車の中から返事があると同時に、香姫さまに手が差し伸べられます。
「まあ、憎らしい! それではまるで、女性をたくさん知っているような口ぶりではなくて!?」
 怒気をはらみそうおっしゃられると、香姫さまはぱしんとその差し出された手を払ってしまわれました。
 すると車の中から、慌ててその手の持ち主が姿を現します。
 なんと、車から姿を現したのは、他の誰でもない、陽楊さまでございます。
 恨めしそうに手をさすりながら、じっと香姫さまを見つめられます。
「それは、あなたがいちばんよく知っていることでしょう。わたしは、あくまで世間一般のだね……」
「そのようなこと、わかっているわ。もちろん」
 そうおっしゃり、先ほどまでたしかに怒っておられた様子のそのお姿はなく、にやにやとたちの悪い笑みを浮かべられている香姫さまのお姿がそこにありました。
 ということはもちろん、陽楊さまは、香姫さまにからかわれておられたということなのでしょう。
 まったく香姫さまは、いつも本気なのか冗談なのかわからないことをおっしゃり陽楊さまをからかうのですから、これでは本当、陽楊さまが気の毒で仕方がございません。
 わかっておられるのですか? 香姫さま。これは、陽楊さまだから通じること、許されることなのですよ?
 ――ああ、もちろん、わかっておられるからこそ、陽楊さまをからかわれるのですね。
 まったくもう……。この姫君ときたら……。
「はいはい。それでは参りましょうか、姫君。約束の嵐山へと」
 陽楊さまも慣れたもので、それがからかっているだけだとわかると、そうおっしゃって、香姫さまを車の中へと促されます。
 香姫さまも、それ以上はからかって遊んでいてはいけないとご存知なので、そのまま素直に車の中へと入っていかれます。
 何しろ、この嵐山は、お忍びなのですから。
 そしてここに、香姫さま以上に、何やら騒動を巻き起こしそうなお方が一人。
 嵐山へ向かう香姫さまと陽楊さまをお見送りに来られたのでしょう、車の前に葵瑛さまが立っておられました。
 もちろん、この葵瑛さまがこのまま素直に行かせてくれるなど、みじんも思っておられない香姫さまと陽楊さまでございますから、気が気ではございません。
 このまま無事に、旅立てることを願うほかありません。
「では、お気をつけていってらしゃい」
 しかし、お二人の予想に反し、葵瑛さまは素直にお二人を見送られます。
 そうして、本当に不思議なことに、何事もなく、香姫さまと陽楊さまを乗せた質素な牛車は、そのまま左大臣邸の車寄せをはなれ、門へさしかかりました。
 ですが、そこで車は動きをとめてしまいました。
「どうしたのだい?」
 もちろん不思議に思われた陽楊さまが、物見から顔をのぞかされます。
 そして、見られてしまったのです。見てはいけないものを。
 一瞬にして、陽楊さまの動きは止まってしまいました。
 それを見ていた香姫さまは不思議に思い、同様に牛車の外をのぞかれます。それから思わず、声をもらされておりました。
「げっ……」
 やはりやってくれておりました、この方。
 そう簡単に事が運ぶはずがなかったのでございます。
 先ほど、左大臣邸の車寄せでお二人を見送られていたはずの葵瑛さまが、もうすでに門の外にいて、お二人の乗る牛車同様の質素な車を従え、そこに立っておられました。
 それに気づき、お二人の乗る牛車の牛飼い童が、ご丁寧にもそこで車をとめてしまったのです。
 香姫さまと陽楊さまが顔をのぞかされたことを確認されると、葵瑛さまは楽しそうに不敵な笑みをもらされます。
「やはり、お二人だけでは心もとないでしょう。わたしもおともいたします」
 そうおっしゃり、声高らかに楽しそうに笑われます。
 お二人は、もう好きにしてくれ……とでも言わんばかりに、疲れたようにどっと肩を落とされ、そのままのぞかせていた顔をお戻しになられました。
 そうして、質素な牛車二台は、左大臣邸をはなれ、朝日が昇ったばかりの京へと消えていきました。


 ところで、これは余談ですが、帝が落馬されたと聞き、香姫さまと葵瑛さまが慌てて夜御殿へ飛び込まれた日の夜のことでございます。
 左大臣はまだ内裏に残り、残った仕事をするというので、左大臣にとっては本当に不本意ではありましたが、代わりに葵瑛さまが香姫さまを左大臣邸までお送りすることとなりました。
 もちろん、来る時は一つ車でやって来られたのですから、帰る時も同様でございます。
 そしてこれは、そのような左大臣邸へ向かう牛車の中でのできごとでございます。
「ところで香姫殿。あなたは、桜が散っても残るもの……と聞いて、何を思いますか?」
 おもむろに、葵瑛さまが香姫さまにそのような質問を投げかけられました。
 もちろん、いきなりのそのような訳がわからない質問に、香姫さまは怪訝そうに葵瑛さまをにらみつけられます。
 しかし、葵瑛さまはそれには当たり前ですが動じることなく、じっと香姫さまのお答えを待っておられます。
 香姫さまもまた、じっと葵瑛さまをにらんでおられましたが、すぐに諦めたようにふうっと一つため息をもらされ、そして口を開かれます。
「そのようなこと、決まっているじゃない。愛情よ。桜を愛しいと思う気持ち、愛しさよ。――桜を愛でるように、その心と同じように、いえ、それ以上かしら? まわりにいる大切な人たちを思う気持ちよ」
 何を今さらとでも言いたげに、香姫さまはふんとふんぞり返っておられます。
 そのあまりにも香姫さまらしい態度に、葵瑛さまは思わずぷっと吹き出されてしまいました。
 そして、とてもおかしそうに、くくくと笑われます。
「本当、あなたは、かの人を思い起こさせる」
「はあ!?」
 またこの宮様は訳がわからないことを言って!と、思い切り馬鹿にしたように、香姫さまは葵瑛さまを見られます。
 そして、そのような香姫さまに、葵瑛さまの手がすっと伸びてきて、その頬に触れました。
 香姫さまはいきなりのその行動にぎょっとなり、思わずかたまってしまわれました。
 まさか、この期に及んで、まだ何か……。
 もう音羽の滝での一件は、葵瑛さまの冗談だと、からかいだと明らかになっているこの期に及んで……。
「だけど、あなたは、かの人とは少し違うようですね? あなたは……かの人よりも、ずっと前向きです。――それは、とてもよいことですよ」
 そして、さらにそのような訳のわからないことを、葵瑛さまはおっしゃいました。
 そうおっしゃられた葵瑛さまの表情には、どこか物悲しいものが、切ないものがほのかに感じられました。
 もちろんそれに、香姫さまも気づいておられます。
 しかし、あえてそれには触れられませんでした。
 頬に手を触れ、熱く優しげな、だけどどこか切なげな眼差しを向ける葵瑛さまを、香姫さまは静かに見つめ返されます。


 ――桜が散っても、残るものは何でしょう?

 今も、萌葱姫のその言葉は、葵瑛さまの心に響いてやみません……。


さくらひとひら おわり

* BACK *
* TOP * HOME *
update:03/09/08