花ぞさかりに
(二)

「いいのはあなたですよ。いい加減、人の目があるところでいちゃつかないでくださいよ」
 ほうっと、これみよがしな、呆れ果てたような大きなため息をつき、葵瑛さまはおもしろくなさそうに、あらぬ方向をぼんやりと眺めてしまわれました。
 明らかに、陽楊さまを馬鹿にしておられます。
 それを見た陽楊さまがかちんときたことは、申さずともおわかりでございましょう。
 もう本当に、こういう時の葵瑛さまのその態度は、腹立たしくて仕方がないというものでございます。
 まこと、どうしたことでございましょう。最近の葵瑛さまは、どうも、香姫さまに関することとなると、陽楊さまに喧嘩をふっかけるような言動をされます。
 そのような少し険悪な空気が流れはじめ、香姫さまはあきれたようにほうと小さなため息をもらすと、控えている棗に目配せをされました。
 それに気づいた棗は、慌てて話をもとへ戻します。
「そ、それより、姫さまの筒井筒の君のお話でしたわよね!?」
「そうだったわね。笹舟の君だったわね!」
 慌てて、香姫さまも棗に続けます。これを逃しては、今度はいつ、この雰囲気の修正の好機がめぐってくるかわかりません。
 香姫さまは陽楊さまをぐいっと引きはなし、またもとの場所へお戻りになります。
 そして、わざとらしく、陽楊さまとは反対側においていた脇息を、陽楊さまとの間にもってこられます。
 脇息をもって、防御されるようです。
 結構恥ずかしがりやなところがあるようで、人前でべたべたいちゃいちゃすることが苦手のようでございます。
 ……と申しましても、誰も信じないでしょうけれど。
 だって香姫さまってば、それに気づきさえしなければ、いつでもどこでも陽楊さまといちゃついているのですから。人目もはばからず。
 ようするに香姫さまは、自覚がある時だけ、恥ずかしがりやのようです。
 香姫さまから引きはなされ、陽楊さまはむすっと、恨めしそうに香姫さまに目でうったえておられます。
 しかし香姫さまは、あえてそれには気づいていないという素振りをされ、誤魔化しておられます。
 気づいてしまったら最後、もとのもくあみでございます。また陽楊さまにお体を引き寄せられるのは、明らかでございます。
 それにしても、この東宮さま、本当、どうしてこのようなへたれになってしまわれたのでございましょうか。
 香姫さまと鴨川にかかる橋の上で出会われた時は、それはもう立派な殿方でしたのに。
 今さらそのようなことを申しましても、せんないことでございますが。
 そのような簾中のご様子を前に、当然、御簾の外の葵瑛さまが楽しんでおられないわけがございません。
 お顔はお庭へ向けてはおられますが、その目はしっかりと簾中をとらえておりました。
 「おやおや」と、楽しそうに口の中でつぶやかれます。
「棗。あなたが適当に説明してちょうだい」
 熱い陽楊さまの視線を受け、香姫さまはたじたじといったご様子で、また棗に助け船を要請されます。
 すると棗は、はっとなり、姿勢を正し、返事をします。
「はい。かしこまりました、姫さま」
 すると、陽楊さまも葵瑛さまも、やはり相当気になっておられたのでしょう、瞬時に棗に注目されます。
 それで、一瞬、棗はたじろぎましたが、さすがは香姫さまのお付女房、すぐに気を取り直し語りはじめます。
「笹舟の君とは……姫さまの筒井筒の君とお話ししたと存じます。その笹舟の君とは、姫さまが幼い頃、宇治の別荘での休暇のおり、そこでお友達になられた若君のことでございます」
「へえ、詳しいですね?」
 香姫さまに代弁を頼まれ、そして話しはじめた棗に、感心したように葵瑛さまが相槌を打たれます。
「ええ。わたくしも、おともしておりましたので」
「ふ〜ん、そう。そのような昔から、君は香姫殿の……」
 面白くなさそうに首を小さく縦に振られる葵瑛さまを、少し怪訝に思いながらも、棗は先を続けます。
「そして、宇治の川で、笹舟を作り、ご一緒に流して遊ばれたことから、その若君を笹舟の君とお呼びするようになったのですわ」
「宇治の川とは……」
 棗の言葉を聞き、葵瑛さまはくすりと笑われました。
 それに続け、陽楊さまも苦笑いを浮かべられます。
「源氏物語で、浮舟が身を投げた川だね」
「そのようなこと、今は関係ないでしょう!」
 陽楊さまと葵瑛さまの話をはぐらかすような、少し馬鹿にしたようなその態度に、香姫さまはむっとされました。
 香姫さまにとっては、今でも美しい幼い頃の思い出。それを馬鹿にされたようで、当然、おもしろくなかったのでございましょう。
 そのような香姫さま方でございますが、棗はくじけず、いえ、ここでまた喧嘩をはじめられては困るので、強引に続けます。
「その笹舟の君……とおっしゃる方は、たしか……さる名がある貴族の若君で、かえでの若君と呼ばれていた記憶がございます。そして、お体が弱い方とかで、宇治には療養に来られていたとか……」
「……よくそのようなところまで覚えていたわね。わたしですら忘れていたのに」
 香姫さまは棗の記憶力のよさに、さらにむっとされてしまいました。
 どうして、香姫さまが覚えていないことを、棗が覚えているのかと、悔しかったのでございましょう。
「姫さまが、記憶力がなさすぎるのです。普通、名がある貴族の若君の御名なら忘れませんわよ?」
「たしかに」
 棗が香姫さまに言い返すと、示し合わせたかのように、陽楊さまと葵瑛さまがお声をそろえ相槌をうたれました。
 それがまた、香姫さまのお怒りをあおってしまいます。
「――くすくす。どうします? 陽楊。今、その笹舟の君とやらがこの場に現れて、あなたの大切な香姫殿をさらっていってしまったら?」
「はあ!?」
 さらに、葵瑛さまはそのようなことをおっしゃり、また陽楊さまをからかいはじめました。
 もちろん、突然そのようなことを言われても、陽楊さまとて、「はあ!?」という反応をするしかございません。
 まったくもってこの葵瑛さま。相変わらず、その言動を読むことがかないません。葵瑛さまの言動は、まったく予測がつきません。
「だってそうでしょう? その笹舟の君とやらは、恐らく、香姫殿の初恋の君。女性というものは、初恋に弱いと聞きますからね〜。それに香姫殿は、東宮とは結婚したくないと、かつておっしゃっていましたからね?」
 ちらりと、様子をうかがうように、葵瑛さまは香姫さまへ視線を送られます。
 それに気づかれた香姫さまは、ふんと顔をそむけられました。
 そして、わざとらしく扇をいっぱいに広げ、それでお顔を隠されます。
 香姫さまのこのお振る舞いは、もう葵瑛さまの相手なんてしてあげない、とおっしゃっているようなものでございます。
 それは、賢明な選択でございましょう。葵瑛さまは、まともに相手をすればするだけ、その分、ご自分が馬鹿になる相手でございますから。
「そのような昔の話をむし返すのじゃない。――ふん。その笹舟の君とやら、どうせ、もうとっくに亡くなっているのだろう?」
 もちろん、陽楊さまも葵瑛さまがからかって楽しんでおられることなど百も承知でございますので、まともに相手をなさるおつもりはないようでございます。
 お話をそこでやめさせようと、嫌々に、そうおっしゃいました。
 しかし、それがまずかったようでございます。
「亡くなってなどいないわよ!」
 香姫さまは、お顔の前にあった扇をばっと膝の上に押さえつけ、そしてぎろりと陽楊さまをにらみ、叫ばれました。
 そうです。よりにもよって、陽楊さまがいちばん怒らせたくない相手、お怒りをかいたくない相手を怒らせてしまったのです。
「え? だって、香子……。たしか、今はどうされているかわからないと……」
 いきなりの香姫さまのお怒りように、陽楊さまは訳がわからず、たじたじでございます。
「どうされているかわからないけれど、お亡くなりになったとは言っていないわ」
 つんとお顔をそむけ、つれない態度でお答えになる香姫さま。
 香姫さまにこのようにつれなくされ、陽楊さまは狼狽してしまわれました。
「ええ!? わたしは、てっきり……」
 同時に、顔をしかめられます。
 どうやら、陽楊さまの中では、もうすでに笹舟の君は亡くなっていて、過去の存在となっていたようでございます。
 それが、香姫さまのこのご様子。
 もしかして、香姫さまは、今もまだ……?
 陽楊さまの胸が、嵐の前触れのようにざわつきます。
「お亡くなりになどなっていないわ……。今もきっとまだ……。――会いたいわ。笹舟の君……」
 そのような陽楊さまを横に、笹舟の君を思い、懐かしそうに、切なそうに語る香姫さま。
 やはり、香姫さまは今もまだ、かつての筒井筒の君、笹舟の君を思っておられるようでございます。
 しかも東宮妃入内の決まった姫君であるのに、東宮以外の殿方に会いたいなどとは……。
 もちろん、いつになくしおらしい態度をお見せになる香姫さまを、葵瑛さまは興味深げにまじまじと見ておられます。
 この宮様のことでございますから、考えなくてもすぐにわかります。
 どうせまた、「これは、楽しいことになってきましたねえ」と、この険悪になりはじめた空気を、これでもかというほど楽しんでおられるのでございましょう。
 陽楊さまは、複雑な表情をしておられました。
 何かを考え込まれるように閉じた扇を口元におあてになり、伏目がちにじっと床を見つめておられます。
 そして、ふいに、鼻で笑うようにおっしゃいました。
「ふん。たとえ、その輩が今頃のこのこ現れたとしても、すでに香子はわたしのもの。今さらどうこうなるわけでもないだろう? ――でもまあ、体が弱いということだから、どうせもうすでに死んでいるよ」
 そして、くっと笑い、陽楊さまらしからぬ人を小馬鹿にした、それでいて陰湿な笑みを香姫さまへ向けられます。
 当然、そのような予想もしていなかったいじわるな発言が、葵瑛さまからではなく陽楊さまから出たので、香姫さまは目を見開き驚き、そしてぶるぶるとふるえはじめられました。
 明らかに、香姫さまは、頭が真っ白になるほどの衝撃を受けておられます。
 そして、きっとした険しいお顔をされ、がばっと立ち上がり、扇を陽楊さまにびしっとつきつけられます。
「な、な……なんて傲慢なもの言いなのかしら! 誰がいつ、あなたのものになったというのよ! ――信じられない。陽楊さまがそのようなことをおっしゃる人だったなんて……。もう、幻滅よ!!」
 その通りでございます。これが葵瑛さまならまだしも、よりにもよって陽楊さまのお口から出るなどとは……。陽楊さまが、そのような心ないことをおっしゃるとは……。
 香姫さまに、幻滅よ!とまで言われてしまい、陽楊さまは一瞬衝撃を受けたようなお顔をされます。
 そして同時に、怒りもこみ上げてこられたのか、きっと香姫さまをにらまれます。
「香子が悪いのだろう! わたしというものがありながら、今さら他の男のことを気にして、さらには会いたいなどと……」
 陽楊さまはそこまで言いかけると、何かに気づかれたようにふと目線を少し上へやり、そして青ざめてしまわれました。
 ばっと床に両手をやり、ざざざっと手をついて後ずさりされます。
 その拍子に、陽楊さまが使われていた脇息が倒れ、がたんと嫌な音を響かせました。
「わあ〜っ! 待て、香子! 落ち着くのだ、落ち着け! わたしが悪かった。謝るから。だから、髪箱(かみばこ)を投げるのじゃない〜! しかもどうして、このようなところに髪箱があるのだ!!」
 そう叫ばれた陽楊さまの目の前には、頭の上に髪箱を持ち上げ、今にも陽楊さまに投げつけようとされている香姫さまのお姿がございました。
 わなわなと震え、怒りの空気をまとっておられます。
 陽楊さまは、もう恐ろしくて、まともに香姫さまのお顔を見ることができませんでした。
 何しろ、この時の香姫さまのお顔ときたら、まるで般若のようでございましたから。
「今朝、別の女房が片づけ忘れていたことに気づき、几帳の後ろにそっと隠しておいたのです。気づいた時にはもう、陽楊さまと兵部卿宮さまがおみえになられた頃でしたので……」
 妙に落ち着いて、棗がさらっとつぶやきました。
 普段の棗なら、こういう時は決まって、真っ先に香姫さまのご乱行をお止めするのですが、どうも今回の棗はそうでもなさそうでございます。
 むしろ、香姫さまのご乱心ぶりを、容認しているかのようでございます。
 相手が……東宮であるにもかかわらず。
 当然、この場をとめられるのは棗だけでございますので、陽楊さまは慌てて棗に助けを求められます。
「棗! お前もそこで落ち着いていないで、香子をとめなさい!」
「……無理です」
 棗はきっぱりと言い放つと、ほうっとため息をもらしました。
 そしてそのまま、そこに足を根づかせてしまいました。
 香姫さまは、そのような陽楊さまと棗のやりとりをじっと見ておられます。


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update:03/09/29