花ぞさかりに
(三)

「ふんっ!」
 香姫さまがそうおっしゃったかと思うと、ずどしゃっと陽楊さまの左腕ぎりぎり横の床の上に、髪箱が身を沈めました。
 陽楊さまのお顔から、さあっと色が失われていきます。
 香姫さまは、それを確認され、陽楊さまに一瞥を下すと、くるりと身を翻されます。
 そして、ばさっと乱暴に御簾を上げ、外へと出ていかれます。
 香姫さまが御簾の外にお姿を現されると、珍獣でも見るかのように、葵瑛さまが見上げられました。
 すると今度は、そのような葵瑛さまに、香姫さまのぎんというにらみが入ります。
 そして、葵瑛さまは、そのまま、香姫さまに乱暴に左腕をつかまれてしまいました。
 その拍子に、葵瑛さまの手から、ぽろりと扇が落ちてしまいそうになりましたが、さすがは葵瑛さま。あわやのところで、見事捕捉。
 ほっと息をつくもつかの間。香姫さまの怒りの叫びが、葵瑛さまに注がれます。
「いくわよ、葵瑛さま。このような人になどつき合っていられないわ。家出よ、家出!! 宇治の別荘へ家出してやるのだから!! その間、せいぜい頭を冷やしておくことね、オエライ東宮さま!!」
 そう叫ばれると、強引に葵瑛さまを立たせ、そのままどすどすと簀子を歩いていかれます。
 葵瑛さまはというと、口元に扇を当て、愉快そうに微笑み、素直に香姫さまに手を引かれ、歩いていかれます。
 まったく抵抗しようとはされていません。それどころか、今のこの状況を楽しんでおられるご様子。
 まったくもってこの葵瑛さま。それほど、香姫さまと陽楊さまが仲違いされることが、嬉しいのでごさいましょうか?
 香姫さまも陽楊さまも、葵瑛さまのお気に入りのおもちゃでございますから、それも納得のいくことでございます。
 ――冷静に考えると、結局は、葵瑛さまが、今回の香姫さまと陽楊さまの喧嘩の引き金をひいたのではないですか。
 ところで、葵瑛さまは、まだ香姫さまと陽楊さまの邪魔をされようというのでございましょうか?
 別にこのお二人のらぶらぶっぷりを邪魔しなくとも、いえ、それはもう思う存分されてこられたので、「そのような芸のないことをしても、おもしろくないでしょう?」とおっしゃる葵瑛さまにとっては、これももう十分、芸のないこととなりつつあるのではないでしょうか?
 まあ、この宮様のお考えになられること、常人にははかり知れないところがございますけれど。
「こ、香子……!?」
 香姫さまを追いかけ、慌てて簀子へ飛び出された陽楊さまは、頭から湯気を上げ、どすどすと歩いてゆかれる香姫さまと、愉快そうにひっぱられていく葵瑛さまを見つめておられました。
 それ以上は、追いかける気になれなかったようでございます。
 陽楊さまはもちろん、困惑顔でございます。
「東……陽楊さま〜……。今のは、大変まずうございましたよ?」
 そのような陽楊さまに、簾中から出てきて、棗がおずおずと声をかけます。
「え……?」
 陽楊さまは、怪訝そうに棗を見られます。
 すると棗は、ふっと切なそうに微笑みました。
「言い忘れておりましたが、姫さまにとって笹舟の君は、特別な方なのです。命の恩人のような方……。――あのようなわかれ方をしたので、もう一度お会いして、一言お礼を言いたいと、時折おっしゃられていたのです。ですから……その……」
「……そう……だったのか……」
 陽楊さまは、じっと香姫さまが消えていかれた簀子の先を見つめ、その場にたたずんでしまわれました。
 あのようなわかれ方=c…。
 それに多少ひっかかるところはございましたが、陽楊さまはそれよりも、知らなかったこととはいえ、もしや香姫さまに言ってはならないことを言ってしまったのではと、大変後悔し、気にしておられるご様子でございます。
 頭を抱え、そのまますとんとその場に座り込んでしまわれました。
 陽楊さまの表情は、暗く、沈んでおります。
「たしかに、姫さまにあのようなことをおっしゃられては、陽楊さまもやきもちをやかずにはいられないと思われますが……」
 棗は、少し困ったように微笑みました。
 陽楊さまは苦笑いを浮かべ、すっとお庭へ目をやられます。
 さりげなく、棗に図星をつかれてしまったのでございましょう。
 やきもち……。それはまさしく、あの時、陽楊さまが抱いておられたお気持ち。
 香姫さまが、もう一度笹舟の君に会いたいなどとおっしゃらなければ、陽楊さまとて、あのようなことはおっしゃらなかったでしょう。
 ただ、からかってお遊びになる程度でとめておられたでしょう。
 しかし、あのようなお顔をされ、あのようなお言葉を、誰よりも愛しい姫君、香姫さまに言われては、陽楊さまの理性もぷっつんと切れてしまいます。
 御簾の外の葵瑛さまにも、それは当然おわかりになられていたことでございます。
 そして、控えていた棗もまた……。
 ただお一人、わかっておられなかったのは、これまたぷっつんとこられていた香姫さまだけでございます。
 いちばんわかってもらい相手にわかってもらえないとは、陽楊さまも、まったくお気の毒なことでございます。
 まあ、そのような鈍い香姫さまをお選びになられたのは陽楊さまでございますので、これも少々の試練と思い、耐えていただかねばなりませんけれどね?
「だけどまあ、行き先はわかっていることですし、姫さまのお怒りがさめるまで、お待ちになっていらっしゃればよいかと思いますわ」
 すっかり気落ちしてしまわれた陽楊さまに、棗は精一杯明るくふるまい、そう言いました。
 すると陽楊さまは、悲しそうでいて切なそうに、柔らかな微笑を棗に向けられます。
 その陽楊さまのお顔がまた、棗の同情を誘ってしまいます。
 これほど愛しいのに、その相手にはまるで通じていないようだね。
 と、陽楊さまの目が語っておられるようでございました。
 そのような時でございます。陽楊さまにすりよる、小さな生き物がいました。
 陽楊さまはそれに気づかれ、ふっと目線を下にやられました。
 すると、陽楊さまの左手にすりよる、白いふわふわの毛をした、小さな猫がおりました。
「まあ、伽路(きゃろ)。伽路も陽楊さまをおなぐさめしてくれるの?」
 その伽路と呼んだ猫に気づいた棗は、ふふっと笑い、そう話しかけます。
 伽路は、棗に顔を向け、にゃあ〜と小さく鳴くと、ひょいっと陽楊さまのお膝の上にのりました。
「伽路?」
 陽楊さまはその伽路をお膝の上にのせられたままで、棗に問いかけます。
 棗は、どこか遠くを見るようにお庭へ目をやりました。
「ええ。陽楊さまも、噂はお耳にされたのではないでしょうか? 姫さまが床下にもぐり込んだという……」
「ああ、あれか……」
 陽楊さまもまた、どこか遠くを見るように、またお庭を眺められます。
 そのお顔は先ほどとは異なり、半分あきれているようでもございました。
 そのような陽楊さまのお姿を見て、棗は苦笑いを浮かべると、思い出すように語ります。
「その時、床下で見つけたのが、その伽路なのです。伽路はどうやら親とはぐれてしまっていたらしく、それを哀れに思い、今では姫さまがかわいがっておられるのです」
「へえ。香子が……」
 そうおっしゃりながら棗へ振り向いた陽楊さまのお顔には、優しい甘い微笑みがございました。
 陽楊さまもまた、思い出すかのように、愛しそうに微笑んでおられます。
 恐らく、陽楊さまが今思われていることは、香姫さまのことでございましょう。
 このようなお顔をされる時は、決まって、香姫さまのことを思っていらっしゃる時でございます。
 やはり、何と申しましても陽楊さまは、香姫さまにめろめろなのでございます。
 そして、陽楊さまの膝の上で、居心地よさように、うとうととしはじめた伽路を抱き上げ、陽楊さまは愛しそうに頬擦りをされました。
 すると伽路は、目を開け、くりくりとした瞳で陽楊さまを見つめ、にゃあっと嬉しそうに鳴きました。
 どうやら、この伽路にも、ご主人様に思いを寄せる方のお気持ちが、わかってしまったようでございます。
 誰よりも、ご主人様を愛する方のお気持ちが。


 葵瑛さまもまた、香姫さま同様、宇治のこの生活に飽きはじめておられました。
 しかし、香姫さまは、まだ意地でも都へ帰るおつもりはございません。
 それに付き合わされる葵瑛さまは、たまったものではございません。
 葵瑛さまは、あの時、素直に香姫さまに手を引かれるままついてきたことを、少し後悔しはじめていらしたかもしれません。
 だからといって、ここで香姫さまを放って帰るわけにもいきません。
 宇治は、別荘地といえど、僻地。いつ何時、不測の事態に陥るとも限りません。
 そのような時、香姫さまの御身に何かあっては一大事です。
 ですから、葵瑛さまが素直に香姫さまの家出につき合っておられるのは、香姫さまの護衛も兼ねてだったのでございます。
 もちろん、葵瑛さまにも、都でのお仕事がたっぷりございますが、この場合は、香姫さまの護衛が、何よりも優先されることなのでございます。
 しかし、葵瑛さまがやけに香姫さまにつっかかるのは、そのようなところにはございませんでした。
 葵瑛さまは、お忘れかもしれませんが、その名を都にとどろかす、宮中一の困ったちゃん。
 その突飛なお振る舞いからも困ったちゃんと呼ばれておりますが、困ったちゃんぶりは、私生活にまで及ぶのでございます。
 都でプレイボーイの名をほしいままにし、浮名を流しまくっている葵瑛さまでございますから、そろそろ潤いを欲しておられました。
 そうです。このような鄙びたところでは、遊びたくても遊べないのでございます。
 こう何日も遊んでいなければ、葵瑛さまも当然、いらいらしてくることでございましょう。
 本命の姫君が手に入らない限り、葵瑛さまは遊び続けるのでございます。
 本命の姫君はいらっしゃるけれど、だけどその姫君が手に入らない今、葵瑛さまはもう遊び続けるしかございません。
 その淋しさを埋めるために、癒すために――
 どれほど遊ぼうとも、その淋しさが癒されることはないとわかっていても、遊び続けずにはいられないのでございます。
 この宇治では、遊び相手にできそうな年頃の娘といえば、香姫さまと香姫さまに仕える女房くらいでございます。
 しかし、どちらも、葵瑛さまには遊び相手にすることができません。
 一方は東宮妃入内の決まった姫君。一方はその姫君の女房。
 当然、どちらにも手を出すことはできません。
 女房の方ならまだ……と思われるかもしれませんが、その女房がお仕えしている姫君に、問題がてんこもりなのでございます。
 そのような姫君の女房に手を出して、痛い目を見ないはずがございません。
 そして、そのために姫君に嫌われてしまうのは、葵瑛さまの望むところではございません。
 ですから、こうして我慢をされているのでございます。
 いえ。そうではないかもしれません。葵瑛さまは、少なからず姫君をお気に召していらっしゃるので、それがため、苦しめられていらっしゃるのやも……。
 葵瑛さまは、本当は、姫君のことがお好きかもしれませんから。
 何度となく、冗談まじりにそれらしいことをおっしゃられ、それを姫君がするりとかわされていただけのこと……。
 しかし、退屈されはじめておられますが、そうやすやすと退屈もしていられないのが事実かもしれません。
 何しろ香姫さまは、葵瑛さまと違う遊びを、すぐに見つけてしまわれますから。
 そして、そのお姿を見ているだけで、葵瑛さまは退屈しないのでございます。
 香姫さまを見る。それが何よりの、葵瑛さまの退屈しのぎかもしれません。
 だって香姫さま、それはもう、普通の姫君とは違っておられますから……。
 さすがは、都に名高い、破天荒な姫君でございます。


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update:03/09/29