花ぞさかりに
(五)

「――そういうことなのですよ。ですからわたしは、今もって陽楊の兄で、親王なのです。これが、いとこと言われながら、親王である所以です。――お父君はわたしを哀れと思い、一の宮の名に恥じぬよう、親王の位を残してくださったのです」
 真剣に葵瑛さまのお話に聞き入っておられる香姫さまを、少し困ったように、葵瑛さまは見つめられます。
 香姫さまは、どこか聞いてはならないことを聞いてしまった……というように、香姫さまにしては珍しく、ずっと押し黙ったままでございます。
 そして、そのような香姫さまと葵瑛さまの間には、もみじの葉が、ひらひらと舞い降りてきています。
 一体、いつになったら降り止むのか、このもみじの雨は続いたままでございます。
「帝位を望まぬ……とは、また……。――別にそのような約束などなくとも、わたしは決して帝位など望まないのにね? だってそうでしょう? あのような堅苦しい帝の位など、こちらから願い下げですよ。そのようなものになっては、遊べないからね?」
 少し戸惑ったような香姫さまに、にこっと微笑みかけられます。
「どうしたのだい? あなたらしくない」
「だって……だって……」
 香姫さまは、じっと葵瑛さまを見つめられます。
 何かをおっしゃりたそうにじっと。
 そして、穴があかんばかりに見つめるその目から、ぽろりと一滴の水が流れ落ちました。
「あ……」
 それに気づかれた香姫さまと葵瑛さまは、同時につぶやかれます。
 そして香姫さまは、また葵瑛さまを見つめ、扇を放り投げられ、がばっと抱きつかれました。
 お顔を葵瑛さまの胸に押しつけ、小刻みに震えはじめられます。
 どうやら香姫さまは、葵瑛さまの胸の中で、ふるふると震え、声を押し殺しながら、泣かれているようでございます。
 そのような香姫さまに気づき、葵瑛さまは、香姫さまを左手で抱き、右手で、長く豊かなその髪にそっと触れられました。
 そして、お顔を香姫さまの耳元に近づけられ、優しくささやかれます。
「あなたが……涙を流す必要はないのですよ……」
 お慰めしようとする葵瑛さまが、これまで見たことのないほど優しく、そして切ない表情を放っていたことは、当然、ぐすぐすと泣く香姫さまは知るよしもございませんでした。
 葵瑛さまは、頬に触れる香姫さまの柔らかい髪に、心地よいうっとりとした微笑を浮かべられます。


 香姫さまが葵瑛さまの胸の内で、ぐすぐすと泣かれたその日の夕刻でございます。
 陽もそろそろ西へ傾き、沈もうとしていた頃でございました。
「香姫殿。そろそろ内へ入りましょう。肌寒くなってきましたからね。お風邪を召されては大変です」
 葵瑛さまはそっと香姫さまに耳打ちをされ、そして香姫さまのお顔を上げようとされます。
 しかし、香姫さまはぷいっとお顔をそむけ、素直に従おうとはされません。
 だって香姫さまのそのお顔ってば、あれだけ泣いたものですから、それはもう見事に……。
 そのようなお顔を葵瑛さまに見られるのが、とてつもなく嫌だったのでございます。
 泣いただけでも不覚ですのに、その理由が、そして泣き場所が、よりにもよって葵瑛さまでございますから。
 天下無敵の破天荒、横暴乱暴姫君にとって、これは不覚……失態以外のなにものでもないのでございます。
 一方、このような弱々しい香姫さまを見ることのできた葵瑛さまは、にこにこ顔でございますけれど。
 香姫さまの弱みの一つでも握ったなどと、思っていらっしゃるのでございましょう? どうせ。
 ――いいえ。それも違います。葵瑛さまは、香姫さまがあまりにも理想通りの、かつての萌葱姫と同じような反応をされるものですから、つい……。
 それが、正解のような気がいたします。
 どれほど意地悪な表情を浮かべようとも、そのお心を隠すことはできません。
 嫌がる香姫さまと、それをあやす葵瑛さまのお耳に、こほんという咳払いが聞こえてまいりました。
 それに気づき、香姫さまはばっと葵瑛さまからはなれ、ぷいっとお顔をお庭へと向けられました。
 そしてもちろん、放り投げられていた扇を拾い、それでお顔を隠しておられます。
「どうした?」
 葵瑛さまが、声の主へとお声をかけられます。
 すると、声の主……女房が答えます。
「都より、月影の中将さまがお越しでございます」
「月影の中将殿が?」
 葵瑛さまは、ぱらりと扇を広げ、驚いたように、おもしろそうにお答えになられます。
「……はい。どのように……いたしましょうか?」
 女房は、ためらいがちに確認いたします。
 香姫さまは、現在、ここ宇治の別荘へは、家出しに来ておられます。
 それをここの別荘に仕える者たちも承知していますので、まさか、あっさりと月影の中将と会わせることはできないと判断したのでしょう。
 普段、香姫さまの破天荒ぶりを放任されている月影の中将が、わざわざこのような宇治までやってくるということは、何かあると考えてもよいでしょう。
「どうします? 香姫殿」
 さすがに葵瑛さまも、こればかりは香姫さまの意志を無視するわけにもいかず、確認されます。
 すると香姫さまは、相変わらずお庭へ体を向けられたまま、ぶつぶつとつぶやかれます。
「いいわ。兄様をこちらへお通しして。――どうせ、兄様がこちらへ来るということは、どこかの傲慢東宮の差し金なのだから。そのような兄様をそのまま帰しては、兄様が性悪東宮にいじめられるでしょう?」
「はいはい……」
 少し困ったようにくすくすと笑いながら、葵瑛さまが答えられます。
 まったく……。香姫さまってば、まだ根にもっておられるのですね。
 本当に、しつこいったらないのですから。
 まあ、これもまた、香姫さまらしいといえば、らしいのでございますけれど。
 葵瑛さまが、女房に返事をされようと、再び視線をやられた時でございます。何かに気づかれたように、ぽつりとつぶやかれました。
「――おや?」
 そして、愉快そうに、くすくすと笑い出してしまわれました。
「まあ、東宮のことをどう言おうと、わたしの知ったところではないが、さすがに追い返されてはわたしも困るのでね。良かったよ、承知してくれて……」
 そうおっしゃりながら、香姫さまの兄上、月影の中将が現れました。
「に、兄様!? まだ許しもしていないのに、勝手に来て!!」
 月影の中将のお声に反応された香姫さまが、ぐるりと首をまわし、ぎろりと、そこに立っておられる月影の中将をにらみつけられます。
「かまわないだろう? ここは、わたしの別荘でもあるのだから。お前の許しなど必要ない」
「んまあっ! なんて嫌な人なのかしら。さすがは、あのむかつく東宮の右腕だわね! この腰ぎんちゃく!!」
 香姫さまはそうおっしゃると、またぷいっとお庭へ顔を向けられます。
 そのような香姫さまの前に、葵瑛さまに断りを入れた後、月影の中将は腰を下ろされます。
「まったく、お前は。母上に似て、気位だけは高く、しつこいのだから」
 そうおっしゃり、香姫さまのお体を、むりやりご自分の方へと向けられます。
 するとそこには、恨めしそうな香姫さまのお顔がございました。
「当たり前じゃない。だって母様は、先々帝の末の内親王よ? お血筋もよろしい方だったし、そのようなこと当たり前じゃない」
「はいはい。それはわかっているから、わたしの話を聞きなさい」
 そうおっしゃると、するりと胸の内から一通のお文を取り出し、むりやり香姫さまの手に押しつけられました。
「……兄様……?」
 香姫さまは、怪訝そうに月影の中将をにらまれます。
「東宮からのお文だよ。いい加減、目を通しなさい」
 少し威圧的に、口答えを許さないといったふうに、月影の中将は香姫さまにおっしゃいました。
 すると、さすがの香姫さまも、兄上の月影の中将にそう言われては、反抗することもできず、渋々お文を開き、読みはじめられます。
 そして、目を通されてすぐ、香姫さまのお顔が真っ赤に染まりました。
「な、な、何を考えているのよ! あの馬鹿東宮!!」
 ぎゅっとお文を握りつぶし、叫ばれます。
「こ、香子!?」
 香姫さまのそのご様子に、月影の中将は、目を見開き驚かれております。
 顔を真っ赤に染め上げた香姫さまと、それにうろたえる月影の中将を見て、葵瑛さまはほほうとつぶやかれると、香姫さまの手から、東宮のお文を奪いとってしまわれました。
 そして、お文のしわをのばし、広げ、目を通されます。
 すると……葵瑛さまのお顔が、本当に愉快そうに、何かを企むように、にやりとしたものへと変わりました。
「これは、愉快だねえ」
 それから、さらりとそのようなことをおっしゃいました。
 一体……陽楊さまが香姫さまへ送られたお文には何と……?
 香姫さまがお顔を真っ赤にし、葵瑛さまが愉快とおっしゃる、お文の内容……。
 ――それは、とても簡単なものでした。
 お文には、たった四行。

 愛している。
 わたしが悪かった。もうやきもちはやかない。
 だから、頼む。早く帰ってきてくれ。
 あなたがいないと、わたしはもう……気が狂いそうだよ。

 そのような恥ずかしいことが、書かれていたのでございます。
 まったく……陽楊さまってば、本当にもう……香姫さまにめろめろなのですから。
 香姫さまも、ここまで愛されてしまっては、仕方がございません。
 もうここは腹をくくるしかございません。
 そして、そろそろ都へお戻りになった方がよいかもしれません。
 そうでないと、本当に、東宮御自ら、馬を駆り、この宇治へやってきかねませんから。
「お文に……何と書かれていたのかはわからないが、とにかく明日、わたしと一緒に都へ帰るのだ。そうでないと、東宮は本気で、お前を連れに宇治までやって来る勢いだったぞ?」
 顔を赤く染め、うろたえる香姫さまに、月影の中将はそう追い討ちをかけられました。
 ――月影の中将に言われなくても、もう香姫さまは決めておられました。
 このような熱烈なお文をいただいては、帰らないわけにいかないではないですか。
 それに、もうそろそろ、ここの生活にも飽きてきていたことですし、陽楊さまを焦らせるのにもよい頃合でございますからね。
 香姫さまは、ふうっと重いため息をもらされます。
「わかっているわよ。帰るわよ、明日……。――本当にもう、陽楊さまってば……」
 しかし、そのようなお言葉とは裏腹に、たしかに香姫さまのお顔は、にやけておりました。
 まあ、今そのようなところに触れては、せっかく帰京を決めた矢先、また、帰らない!と言い出すかもしれませんので、さすがに今回ばかりは、葵瑛さまも、香姫さまを冷やかしたりなどされません。
 何しろ、葵瑛さまもまた、都へ帰りたくて仕方がなかったのでございますから。


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update:03/10/02