花ぞさかりに
(六)

 翌朝。
 よく晴れた、小春日和の朝。
 ここ宇治の上にも、真っ青な空が広がっております。
 本日は、まこと、よい帰京日和となったものでございます。
「香子? 仕度はできたか?」
 御簾を上げ、月影の中将が、香姫さまのいらっしゃる庇へと入ってこられました。
「とっくに。だからこうして、最後にここのもみじを見納めていたのじゃない」
 月影の中将が入ってこられると、香姫さまはすっと立ち上がり、得意げに微笑みかけられました。
 もうすっかり、香姫さまは、いつもの調子を取り戻されているようでございます。
 昨日、葵瑛さまの胸で泣かれていたことが、嘘のようでございます。
「うふふ。都へ帰ったら、どのようにして陽楊さまをいたぶってさしあげようかしら」
 そして、そのような台詞を残し、牛車に乗り、香姫さまは宇治の別荘を後にされたのでございます。


 香姫さまと葵瑛さまは別々の牛車に乗り込み、月影の中将は香姫さまの牛車の横に、騎馬で従っておられます。
 まずは葵瑛さまの牛車が先頭を行き、その後に香姫さまが乗られる牛車がついていきます。
 宇治から出て、しばらくした頃でございましょうか。
 ふいに、香姫さまは牛車の中からお声をかけられました。
「とめて」
 牛飼い童も供の者たちも、そのお言葉を聞くと、不思議そうな顔をし、速度を落とし、月影の中将の顔色をうかがいました。
「香子? どうしたのだ?」
 怪訝に思われた月影の中将は、牛車の中の香姫さまにお声をかけられます。
「もみじ……。――ねえ、兄様。とめさせてよ。あのもみじが欲しいの」
 牛車の中から、そのようなこどものようなおねだりをする香姫さまのお声が聞こえてまいります。
 月影の中将は、また頭の痛いことを……と嫌そうにお答えになられます。
「もみじって……。お前は、また……。早く都へ戻らねばならないというのに……」
「だって、陽楊……東宮さまにも、あのもみじを見せてあげたいのだもの」
 そのお言葉を聞き、月影の中将は狐につままれたような顔をし、くすりと笑われました。
 昨日まで……いえ、ついさきほどまで、「東宮なんてなによ!」とおっしゃられていた方のお口から出てくる言葉とは、とうてい思えません。
「わかったよ。――お前たち、車をとめなさい」
 月影の中将は供の者たちに声をかけられると、馬を降り、馬を供の者の一人にあずけ、前を行く葵瑛さまの車へ駆け寄られます。
 そして、葵瑛さまにお声をかけられました。
「兵部卿宮、失礼いたします。妹が……香子が牛車をとめ、少しばかりもみじを見たいと申しておりますので、我々は少し遅れて参ります」
「そうか。では、わたしもそうしよう」
 葵瑛さまはすぐにそうお答えになり、牛車をとめさせられました。
 そして、牛車の中から葵瑛さまが現れ、降りてこられます。
 葵瑛さまは降りられるとすぐに、後ろの香姫さまのもとへといかれます。
 その後に、月影の中将も続きます。
「香姫殿。降りるのでしょう?」
 そうおっしゃり、御簾の隙間より、牛車の中に、すっと右手を差し入れられます。
 すると、香姫さまはその手をとり、牛車から降りられました。
「もちろんよ。あそこのもみじを、陽楊さまにもお見せするの」
 そうおっしゃって、にこりと微笑まれます。
「おや? つい先ほどまで、その陽楊のことで、頬をふくらませていた方はどなたでしたか?」
「いいじゃない。――くす。だけどね、ただでは見せてあげないの」
 香姫さまは、意地の悪い笑みを浮かべられ、けらけらと笑い出されます。
 こうおっしゃっておられますが、実は香姫さま、とうの昔に、陽楊さまのことをお許しになっておられたのでございます。
 ですが、意地っ張りな香姫さまでございますから、そう簡単に都へ帰ってなるものですかと、あれほどねばっておられたのでございます。
 しかし、陽楊さまのあのお文を読んでしまわれたので、撃沈。
 今すぐにでも、陽楊さまに会いたくなってしまわれたのでございます。
 だけど、そのようなことを、葵瑛さまにも月影の中将にも知られるのは癪なので、あえて、まだ怒っているような素振りをされていたのでございます。
「おや? これはまた、愉快なことを企んでいるようですね。是非とも、わたしも仲間に入れてもらいたいですね」
「だ・め」
 そうおっしゃると同時に、香姫さまは葵瑛さまの手からするりとご自分の手をはなされ、少し前に通りすぎてしまったもみじの木へとかけていかれます。
 この辺りは、香姫さまがもみじを見たい……いえ、見せてあげたいとおっしゃるように、とてもきれいなもみじの木がたくさんございます。
 その中でも、特に美しい赤い葉をつけるもみじの木へとかけていかれます。
 そして、その木まで来られると、見上げられました。
 葵瑛さまも月影の中将も、そして供の者たちも、牛車の横で、そのご様子を見守っておられます。
 香姫さまは、狙いを定められたのか、すっと一本の枝へと手をのばされました。そして、ふわりと、もみじの葉に触れられます。
 と思った瞬間、なんと香姫さまはその枝をつかみ、ひょいっともみじの木へ上ってしまわれました。
 それを見た月影の中将は、頭を抱えその場にしゃがみこんでしまわれます。
「嗚呼〜……! あの馬鹿! あのような格好で木に登って……」
「くすくす。いかにも香姫殿らしくてよいではないか。もう少し、様子を見ていよう」
 葵瑛さまにいたっては、そのようなことをおっしゃり、香姫さまのそのおてんばぶりを楽しんでおられます。
 どうやら香姫さまは、手のとどく辺りのもみじの枝には見向きもされず、ずっと上のおめあての枝をとるために、もみじの木によじ登ってしまわれたようでございます。
「とれたわ」
 ぽきっと細い枝を手折ると、嬉しそうに微笑まれました。
 それを見届け、葵瑛さまと月影の中将が、香姫さまが登っておられるもみじの木へと歩いていかれます。
 そして次の瞬間、嬉しそうにもみじの枝を振り上げたものですから、その拍子にお体がぐらりと大きく揺れました。
 もちろん、葵瑛さまも月影の中将も、それを見逃してはおられません。
「香子!!」
 慌てて香姫さまのもとへと駆け寄られます。
 しかし、その時にはすでに遅かったのでございます。
 あろうことか香姫さまは、もみじの木の枝から落ち、宙を舞っておられました。
 もちろん、その次に待ち受けている光景は、地面にたたきつけられる香姫さまでございます。
 ――と思いきや、香姫さまのお体は、まだ、ふわっと宙にとどまったままでございます。
 さすがの香姫さまも、今回ばかりはもう駄目だと思われたのでございましょう。目をかたくつむっておられます。
 そして、当然、香姫さまも地面にたたきつけられるものと思われているので、いつまでたっても衝撃を受けないことを不思議に思われ、そろ〜りと目を開けられました。
 すると、そのような香姫さまの目に飛び込んできたものは、真っ赤な景色の中に、微笑をたたえる公達のお顔でした。
「……え?」
 香姫さまは、ぽか〜んとその公達の顔を見ておられます。
 真っ赤なもみじの葉を背に、真っ白な直衣をまとっているので、公達だけが白く浮き上がり、不思議な景色でございました。
 どうやら、この公達が、木から落ちてこられた香姫さまを、受けとめていたようでございます。
 公達の腕の中にすっぽりと、香姫さまのお体は入っておられます。
 そして、公達の足元には、先ほど香姫さまが手折られたもみじの枝が一本。
 まだ呆けておられる香姫さまを、公達はすっとおろします。
 そこへようやく、葵瑛さまと月影の中将が駆け寄ってこられました。
「香姫殿! 無事ですか!?」
「香子!!」
 月影の中将は香姫さまをぎゅっと抱きしめられ、葵瑛さまはしげしげと香姫さまのお体を見まわされます。
 どこにも傷を負っていないかと確認しておられるようです。
 そして、香姫さまにお怪我がないことを確認すると、ほうっと深いため息をもらされました。
 香姫さまは、今もって、この状況をまだ理解できておられないご様子です。月影の中将の腕の中で、ぽか〜んとされております。
 そのような香姫さまへ、香姫さまを助けた公達が、先ほど手折られたもみじの枝を拾い上げ、すっと差し出します。
 香姫さまは、相変わらずのお馬鹿なお顔のまま、公達からもみじの枝を受け取られました。
 それを確認すると、公達はにこりと微笑み、そのままもみじの木々の間へ姿を消していきました。
 香姫さまは、消えいく公達の後ろ姿を、じっと見つめておられます。
「――今の方は……もしかして……」
 そして、思いふけるように、ぽつりとつぶやかれます。
 どうやら香姫さまは、この状況が理解できていなかったのではなく、その公達に気を取られていたようでございます。
 月影の中将は、相変わらず、そのような香姫さまを抱きしめたままでございます。
 よほど驚かれたのでございましょう。心の臓でもとまる思いをされたのでございましょう。
 まったくこの香姫さまときたら、おてんばもよいですが、少しはまわりの者の気持ちも考えていただきたいものでございです。少しは自粛していただきたいものでございます。
 しかし、そのようなことは、いまだにもみじの木々の間を見つめるこの香姫さまに申しましても、無駄なことでございましょうけれど……。
 香姫さまは、ぎゅっともみじの枝を握り締められました。
 何かを思い出されたかのように、切なそうなお顔をされて。


 そのような出来事があった日の夕刻。
 ようやく、香姫さまは、左大臣邸へと帰ってこられました。
 左大臣邸の門をくぐると、そこにはすでに陽楊さま、左大臣、棗が、帰りを待っておられました。
 それに気づいた牛飼い童が、陽楊さま方の前で牛車をとめました。
 すると中から、くすくすと笑いながら葵瑛さまが降りてこられ、続いて後の牛車より、もみじの枝を手にされた香姫さまも降りてこられます。
 まだ車寄せでもないというのに、平然と車から降りてこられる辺りなど、さすがは香姫さまでございます。
 普通の姫君ならば、家族にすらお顔を見せることをはばかられるのですが、香姫さまに限っては、誰にお顔を見られようとも、何とも思わないといったご様子でございます。
 香姫さまのお姿を確認するなり、陽楊さまは嬉しそうに微笑まれました。
 そして、香姫さまへ駆け寄ろうと、一歩踏み出された時でございます。
 陽楊さまの横をすっと通りぬけていく、蘇芳色の物体がございました。
 そしてその物体は、そのまま香姫さまへと駆け寄り、がばっと飛びかかります。
「師匠〜!!」
 そう叫び、飛びつこうとした物体……いえ、人物には、もちろん飛びつくその前に、香姫さまの一蹴が顔に炸裂し、痛そうに顔をおさえ、その場にしゃがみこんでしまいました。
 そうです。恐れ多くも、あの香姫さまに抱きつこうとしたこの人物とは、梅若だったのでございます。
 かつて葵瑛さまのお遊びに加担し、陽楊さまに呪詛をしかけた、あの梅若でございます。
 どうやら梅若も、ここ左大臣邸へやって来て、香姫さまのお帰りを待っていたようでございます。
 香姫さまは、痛がる梅若を冷めた目で見下ろされております。
「ひどいです、師匠。ぼく、もう、師匠が心配で心配で、気が気でなかったのですよ!? それなのに、この仕打ち!」
 梅若は、そのような香姫さまを、恨めしそうに見上げます。
「お黙り。まったくもって、無礼きわまりない童ね。このわたしに抱きつこうなどとは」
「だって、ご無事なお姿を拝見したら、思わず……。――どこかのへたれ東宮のせいで、師匠が、よりにもよって、陰険エロ宮を連れて、宇治なんて辺鄙なところへ家出なさったりするから……」
 梅若は、香姫さまを責めるようにぶつぶつと愚痴ります。
 しかし香姫さまは、そのような梅若の相手などしていられないとばかりに、すっと梅若をよけ、陽楊さま方のもとへと歩いていかれます。
 そして、じろりと陽楊さまをにらみつけ、持っていらしたもみじの枝を、すっと突き出されます。
 すると陽楊さまは、嬉しそうにそれを受け取られました。
 もうそれだけで、お二人は仲直りしてしまったのでございます。
 なんとも単純なお二人でございます。
 いえ。このお二人だからこそ、これで十分なのでございましょう。
 ただでは見せてあげないとおっしゃっておきながら、やはり、ただでお見せになってしまわれたのですね、香姫さま。
 それに気づいた梅若が、香姫さまを追おうと慌てて振り返った時です。梅若の行く手を阻む黒い物体が、そこにそびえ立っておりました。
 梅若は嫌〜な予感がし、ゆっくりと視線を上へ移していきます。
 するとそこには、お顔はたしかに微笑んでいるにもかかわらず、額にひっそりと青筋をたてた葵瑛さまのお姿がございました。
「げっ……!」
 一瞬にして、梅若の顔から色がひいていきます。


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update:03/10/05