花ぞさかりに
(八)

「それよりも、香姫殿。あなたは覚えておられるかな? 一年前の……」
 案の定、そのような陽楊さまと月影の中将などあっさり無視され、葵瑛さまがまたころっとお話を変えてしまわれました。
 どうやら、これ以上お二人をつついて遊んでも、香姫さまがこのような反応ではおもしろくないと思われ、お話を変えられたようでございます。
「一年前の……何?」
 きょとんとしたお顔で、香姫さまは葵瑛さまを見られます。
「ええ、あなたをはじめて見た時も、今宵のような秋の夜でした。あの時も、今宵と同じ望月でしたね……」
 扇をぱらりと開け、月を仰ぐように、試すような口調でおっしゃいます。
「望月……? 去年の望月といえば……。――ああー! 思い出すだけでも腹が立つ! あのむかつく婿とりの宴よ!!」
 きょとんとしておられた香姫さまでございますが、その腹立たしいできごとを思い出され、一気に噴火してしまわれました。
 持っておられた扇を、ぎゅっぎゅっと雑巾絞りしてしまわれます。
 そのような香姫さまのお姿を、実に愉快そうに葵瑛さまは眺めておられます。
 どうやらこれは、葵瑛さまの予想通りの反応だったようでございます。
 いきなり隣で憤りはじめられた香姫さまに、陽楊さまは首をかしげておられます。
 陽楊さまには、まだお話の道筋がわかっていないようでございます。
 このような陽楊さま好みの楽しいことに気づかれていないなど、陽楊さまってば、もったいないですよ?
「その宴で、他にも何かありませんでしたか?」
 葵瑛さまは、扇でとんとんとご自分のお口を叩かれながら、上目遣いに香姫さまへ視線を送られます。
 香姫さまは、雑巾絞りをするその手を緩め、扇をぽすっと膝の上に置かれました。
「え……? そういえば……公達お二人と出会ったわ。――葵の君と、月見草の君……。たしか、葵の君とは、機会があれば、また一戦まじえましょうと約束したのだったわ。――今頃、どうされているのかしら? あのお二人は……」
 香姫さまはそこまでおっしゃると、何かひっかかるものがあるというように、お言葉をとめてしまわれました。
 そして、訝しげに、陽楊さまと葵瑛さまのお顔を見られます。
 するとお二人は、にこにこと微笑み、香姫さまを見ておられました。
 この時にはもう、陽楊さまも葵瑛さまの意図を理解されておられたようです。
 そして、香姫さまは、先ほどよぎった嫌な予感が、的中してしまったことを悟るのでございます。
 ひっかかるものに、ようやく気がつかれたようでございます。
 がばっと身を乗り出し、葵瑛さまに詰め寄られます。
「あれって、あなたたちだったの!?」
「おや? 今頃わかったのかい? ――鈍いね〜」
 葵瑛さまは、にやにやといつもの嫌な笑みを浮かべ、他人事のように楽しんでおられます。
 まあ、あの時の公達お二人が、これまで、陽楊さまと葵瑛さまということに気がつかれていなかった香姫さまが相当鈍いだけなので、からかわれても、この場合はいたしかたないでしょう。
 香姫さまは、葵瑛さまのそのお言葉に、悔しそうに、ばしばしと扇を簀子にたたきつけられます。
 そして、仕舞いには、その扇を、閉じたままでばきっと真っ二つに折り、ぽいっとお庭へ投げ捨ててしまわれました。
 それを見て、葵瑛さまは扇でお口もとを隠し、楽しそうに香姫さまの憤慨ぶりを見物しておられます。
 その態度が、また香姫さまのお怒りをかうことになってしまいます。
 葵瑛さまの扇をひったくり、今度はばきぼきと、閉じたままのかたちで四つに折り、またしてもお庭へと放り投げられてしまいました。
 そして、ようやく満足したように、ふんとふんぞり返り、葵瑛さまに見下すような視線を向けられます。
 陽楊さまは、そのような香姫さまを、苦笑いを浮かべ見ておられました。
 やれやれといった様子でございます。
 入内が決まり、少しは大人しくなられたかと思っておりましたが、やはり、香姫さま≠ヘご健在のようでございます。
 また、葵瑛さまとの溝は、日が増すにつれ、時が経つにつれ、深まっていくようでございます。
 香姫さまは、一体いつになれば、このいかれとんちきな宮様に勝つことができるのでございましょうか?
 ――そのような日は、いつになってもやってこないかもしれません。
 気の毒なことに……。


 ところはかわり、ここは都のはずれ、御室。
 ……から、もう少し南へ下がった蚕ノ社(かいこのやしろ)
 空には、ぽっかりと真丸い月。
 どうやら今宵は、満月のようでございます。
 しかし、せっかくの月も、すぐに雲に隠れてしまいました。
 三柱鳥居(さんちゅうとりい)が立つ、元糺(もとただす)の池の前に立つ人物が一人。
 その人物は、墨染めのその姿で、じっと三本の鳥居を見つめておりました。
 そして、ちょうど、その三本の鳥居に、雲間から月明かりがさした時、何かに気づいたようにはっと体を震わせました。
 その瞬間、手にしていた伽羅(きゃら)の数珠が、じゃらりと心地よい音を響かせます。
 心地よいはずのその音色も、この僧衣姿の若者には、不気味なものに聞こえてなりませんでした。
 険しい顔でつぶやきます。
「――行かねば……」
 そして、池にたつ三本の鳥居に背を向け、すたすたと歩き出してしまいました。
 どこか、気品を感じる香りを漂わせながら……。
 その香りはどこかでかいだことのあるような、香り――
 一体、この若い僧は、そこで何を感じ、見たというのでございましょうか。


「姫さま!? 姫さま、ようやく、お目を覚ましてくださいましたのね!?」
 厳しいほどの秋の朝日が差し込むのを感じ、香姫さまは憂鬱そうにゆっくりと目を開かれました。
 香姫さまのお体は、いつもお休みになられている御帳台の上にございました。
「棗……?」
 だるそうにお体を起こし、不思議そうに棗を見られます。
 なんと棗は、両手を口にあて、目からぼろぼろと涙を流していたのです。
 そして、体いっぱい、ぶるぶると震わせておりました。
「こうしてはおられませんわ。大臣と、それと陽楊さまと兵部卿宮さまにもお知らせしなくては……! 今は寝殿にいらっしゃるはず……!!」
 そう叫ぶと、棗の後ろに控えていた他の女房に、陽楊さまたちを呼んでくるようにと指示を出しました。
 それを確認した女房はさっと立ち上がり、すすすっと寝殿の方へと早足で歩いていきます。
 そのような普通ではない棗や女房たちの様子に、香姫さまは怪訝そうに首をかしげられます。
「棗? 一体どうしたというの?」
 香姫さまのそのお言葉に、棗は目を見開き驚きます。
 そして、口をぱくぱくさせたかと思うと、大きな深呼吸を一つし、じっと香姫さまを見つめました。
「姫さま。覚えておられないのですか? その……昨夜のことは……」
「昨夜? 昨夜といえば、たしか……。また、性懲りもなく葵瑛さまがふざけたことをして、その後、父様をまじえ、今後の入内までのお話をして……」
 香姫さまは、思い出すように語られます。
「あれ? そこから先の記憶がないわ」
 そしてそうおっしゃり、たらりと一つ冷や汗を流し、訴えるような目で棗を見つめられます。
 棗は、そのような香姫さまの手をとり、ぎゅっと握り、険しい顔で見つめます。
「……そうです。そこで……姫さまは毒を盛られたのです」
「へ!?」
 あまりにもすっとんだ言葉が棗の口からでたので、香姫さまは思わず、ずるりと体勢を崩してしまいそうになられました。
「ごめん……棗。それ、わたし覚えていないわ。よければ……詳しく話してくれない?」
 香姫さまは、どっと疲れたように頭を抱えられます。
 その香姫さまを支えるように、棗はまた香姫さまを横たえました。
 香姫さまは横になり、顔だけを棗へ向けて、先を話すように促されます。
 それに、棗はこくんとうなずきました。
「ですが……それが少しおかしいのです。――姫さまが毒を盛られた御酒をお口にされようとした時、その場に投げ文があったのです。その投げ文で、姫さまはあわやのところで御酒をお口にされることはなかったのですが……」
 そこで言葉をにごすように、口をとじてしまいました。
「なかったのですが……? 何なの?」
 香姫さまは、じっと棗を見つめます。
 すると棗は、少しためらいがちに答えます。
「その投げ文をした人物が、いまだにわり出せないのでございます。邸中の人間を探したのですが、一向に見つからず……。だからといって、この警備の厳しい左大臣邸に、まさか外から人が入り、投げ文をできるはずはなく……」
 棗はそこまで言うと、すっと香姫さまから目線をそらしました。
 かなり気まずそうに、顔をゆがめています。
 そのような棗の態度に、香姫さまは、諦めたように、小さくため息をもらされました。
「……そう。わかったわ。だけど、その後のことが腑に落ちないの。それで、どうしてわたしは、今までこうして寝ていたのかしら?」
 香姫さまのその執拗な追究に、棗は言葉を失い、たじたじでございます。
 その時でございました。
「香姫殿。それくらいで勘弁しておやりなさい。その後のことは、我々がお話しするよ……」
 御簾をあげながら、葵瑛さまが入ってこられました。
 その後に続き、陽楊さま、左大臣、そして若い僧が入ってきます。
 驚いたことに、この若い僧、蚕ノ社にいた、あの僧でございました。
 ただ、月影の中将の姿だけが、どこにもございませんでした。
 どうやら、月影の中将は、昨夜のことを引き続きお調べになられているようでございます。
「陽楊さまに、葵瑛さまに、父様まで……!?」
 香姫さまはがばっと起き上がろうとされましたが、とっさに棗に押さえつけられてしまいました。そして、また寝かされます。
「香子はそのままで……」
 そうおっしゃりながら、陽楊さまが香姫さまの枕元に腰かけられました。
 そして、葵瑛さま、左大臣、若い僧が、陽楊さまとは反対側の、香姫さまの枕元に腰を下ろされます。
 棗は香姫さまを押さえつけると、そのまま陽楊さまの後ろへ下がり、そこで控えました。
 香姫さまは、納得がいかないというように、むすっと頬をふくらませておられます。
「それで? 早く続きを話してちょうだい。葵瑛さま」
 香姫さまは横になられたまま、じろりと葵瑛さまをにらみつけられます。
 まったく、香姫さまってば、このような時でも強気なのですから。
 まあ、それでこそ、香姫さまでございますが。
「ふふっ。それだけ元気があれば、もう大丈夫だね。――そうだね〜、その投げ文の後にね、君は呪詛されてしまったのだよ」
 葵瑛さまは、そのようなとんでもないことを、実に愉快そうに、さらっとお話しになられます。
 葵瑛さまのそのお言葉を聞き、さすがの香姫さまも、お口をぽか〜んとお開きになり、静止されてしまいました。
「実に愉快な呪詛の仕方だったね。恐らく……今頃は、呪詛を仕かけた者は、生死の(はざま)をさまよっているだろうね。……ねえ、明水(みょうすい)?」
 葵瑛さまはそうおっしゃり、一歩後ろに控えていた若い僧に微笑みかけられます。
「宮様。愉快とは、不謹慎でございます」
 明水と呼ばれた、蚕ノ社にいた若い僧は、じっと葵瑛さまを見つめ、たしなめます。
 どうやら、あの時感じたこととはこのことで、行かねば……とは、ここ左大臣邸だったようでございます。
「おやおや。これは怒られてしまったよ。陽楊」
 葵瑛さまは、陽楊さまに助け船を求められます。
 しかしもちろん、陽楊さまにもあっさりと見捨てられてしまいます。
「当たり前だ」
 陽楊さまはそうおっしゃると、愛しそうに香姫さまを見つめ、そっとその頬に触れられました。
「よかった……」
 そうつぶやかれ、香姫さまの手をとり、きゅっと握り締められます。
 陽楊さまは、葵瑛さまのことよりも、香姫さまのことの方が大切なのです。当たり前でございますが。
 香姫さまはぽっとお顔を赤らめ、じっと陽楊さまを見つめられました。
 その時、こほんという咳払いが響きました。
「そのようなことより、話を進めましょう」
 左大臣が、陽楊さまと葵瑛さまを非難するように見られます。
 それで、陽楊さまは、ぱっと香姫さまの手を放し、葵瑛さまは、おやおやと苦笑いを浮かべられました。
 それを確認すると、左大臣は明水に目配せされました。
「はじめまして、姫君。わたくしは、御室の僧、明水と申します」
 明水はそう言い、にこりと微笑みます。


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update:03/10/08