花ぞさかりに
(九)

「明水……さま?」
「はい」
 確認するように見つめる香姫さまに、明水は再び、にこりと微笑みかけます。
「昨夜、呪詛からあなたを救ったのが、この明水だよ」
 葵瑛さまが、優しげに香姫さまを見られます。
「毒が盛られたすぐ後にね、明水が我々のもとへ飛び込んできたのだよ。この邸に呪詛がしかけられていると……」
「え……?」
 香姫さまのお顔が、瞬時に険しくなりました。
 葵瑛さまのお話に耳を傾けられます。
「どうやら、その酒に盛られた毒というのが……呪詛の本体だったらしい。――恐らく、相当力のある者が呪詛を仕かけたようだね。我々にはきかない……。香姫殿、あなたのためだけの呪詛でした。それを口にされると、瞬時に苦しみだし、悶え死ぬという……」
 おどろおどろしいお顔をわざとらしくつくられ、葵瑛さまは香姫さまに迫られます。
 するともちろん、葵瑛さまの頭に、香姫さまお得意の鉄拳がめり込みました。
「それで、明水さま。あなたが、わたしを助けてくれたのですか?」
 そして、さっさと葵瑛さまなど無視し、明水に話しかけられます。
「はい……。嫌な……予感がしましたので、無礼を承知で、急いでこちらへうかがった次第で……」
「いえ。ありがとうございます。あなたのおかげで、わたしは今、こうしていられるのですから……」
 香姫さまは明水に礼をおっしゃると、陽楊さまへ視線を向け、じっと見つめられます。
 すると陽楊さまは、香姫さまがおっしゃりたいことがわかったのか、こくんとうなずかれ、香姫さまを助け起こされます。
 そして、ご自分の胸にもたれかからせるように、香姫さまのお体を支えられます。
 香姫さまは、陽楊さまの胸の中で、目線を葵瑛さま方に合わせておられます。
「明水。わたしからも礼を言う」
 そっと、香姫さまを抱きしめるように腕をまわされた陽楊さまが、明水に優しい視線を送られました。
「……いえ。兄上さま……。兄上さまのためならば……」
 少し恥ずかしそうに、明水が答えました。
 その言葉を聞き、香姫さまはもちろん驚かれております。
「あ、兄上さま……って……!?」
「おや? 言い忘れていたかな? この明水は、我々の弟だよ。母君は違うけれどね? そして、東宮御所に呪詛をしかけた時、御室から呼んだ僧も明水なのだよ。何かと都合がいいからね?」
 葵瑛さまが、いかにも今気づいたかのように、とってつけたように、明水さまを紹介されます。そして、くすくすと笑われます。
 香姫さまはかたく握りこぶしをつくり、それをふるふると震わされはじめました。
「ねえ……陽楊さま。わたし、あれを簀巻きにして重しをつけて、深泥ヶ池(みどろがいけ)にでも沈めたいのだけれど、よいかしら?」
「う〜ん。反対はしないけれど、今はやめておいた方がいいかもしれないね。体力が回復してからの方がいいよ?」
 香姫さまの問いかけに、陽楊さまは少し困ったようにそう提案されました。
 すると香姫さまは、「それもそうね」とあっさり引き下がり、ぎろりと葵瑛さまをにらみつけるにとどまられます。
 それにしても、深泥ヶ池とは、まさしく葵瑛さまにぴったりの池でございます。
 この深泥ヶ池は、貴船(きふね)への『丑の刻参り(うしのこくまいり)』の通り道にあたり、怪異の起こる場所として有名でございますから。
 そのような気味の悪い場所に、葵瑛さまをお沈めになる……。
 あれ? それですと、ぴったりではなく、危険ではないでしょうか?
 危ない場所に、危ない人を沈めるなど……危ないが倍増してしまいます。
 ところで、実はこの若い僧、蚕ノ社にいたあの僧、明水さまは、陽楊さまと葵瑛さまの弟宮だったようでございますね。
 しかし、葵瑛さまは宮様で、陽楊さまは兄上さまとお呼びになるとは、明水さまも、その扱いに差をつけている辺り、ちゃっかりしておられるのでございましょう。
 この辺りは、立派にご兄弟だということを物語っておられるようです。
 そして、あの葵瑛さまの狂言にのっておられたということは……。
 嗚呼、もう考えたくもございません。恐らく、この明水さまも、一見穏やかそうに見えても、葵瑛さまと同じような人種なのでございましょう。
「それで、犯人は見つかったの?」
 香姫さまは、ふざけるのはこれくらいにしてと、急に真剣なお顔に戻り、じっと葵瑛さまを見られます。
 すると、葵瑛さまにも香姫さまの真剣さが伝わったのか、いつものようなふざけたお顔ではなく、きりりと引き締めた、険しいお顔をされました。
「いや……。――しかし、今頃は恐らく、どこかでのたれ死んでいることでしょう。そのうちきっと、どこからともなく、呪詛返しにあった死体が転がり出てきますよ」
 そうおっしゃられた葵瑛さまの目は、妙に冷たく、氷のような光を発しておられました。
 どうやら葵瑛さまは、ふざけたそぶりはその場の雰囲気を和ませるためで、実は、ものすご〜くお怒りになっておられたようでございます。
 このような葵瑛さまの、鋭い刃のような、そして絶対零度の眼光は、これまで見たことがございません。
 まあ、無理もないのかもしれません。葵瑛さまの大事なおもちゃにちょっかいを出されたのですから。
 ――いいえ。葵瑛さまの大切な姫君を、殺そうとしたのですから。
 お口では何やかやとおっしゃられておりますが、実はまだ……。
 今もまだ、萌葱姫の影を追い、そして、それを香姫さまに重ねておられるのかもしれません。
 時折、葵瑛さまが見せる、香姫さまへの切ない熱い視線。それが、全てを物語っているのでしょう。
 ところで、このようなふざけたことをしたのは、一体、どこの輩でございましょう?
 この方を本気で怒らせたら……陽楊さま曰く、死んだ方がましと思うようなおしおきをされてしまうのですよ?
「……そこで提案なのですが……香姫殿。あなた、また東宮御所で女房をする気はありませんか?」
 少し考えるようにちらりと香姫さまへ視線を送り、葵瑛さまがおっしゃいました。
「東宮御所で女房……?」
 香姫さまは、葵瑛さまの言葉の意図するところがわかっておられないようで、きょとんとされております。
 もちろん、陽楊さまも、左大臣も、明水さまも、またこいつは、ややこしい時に、おかしなことを言い出して……と、葵瑛さまの発言を奇妙に思われているご様子です。
「ここでは、どうも心もとないのですよ。そして、狙われたのは、香姫殿と明らか。ですから……今は香姫殿の身を守るため、安全のため、東宮御所に身を隠していただきたいのです。――その方が、何かと都合がよいので……」
 葵瑛さまにはふざけたような様子はなく、いたって真剣でございました。
 真剣に香姫さまの目を見つめ、香姫さまのお返事を待たれます。
「……わたしに……逃げろと……?」
 香姫さまも負けじと、真剣な眼差しで葵瑛さまを見つめ返されます。
「いいえ。逃げるのではありません。今は何よりも、あなたの御身が大切なのです」
 普段の葵瑛さまならば、そろそろこの辺りで、「冗談ですよっ」などと腹立たしい台詞をはかれるはずでございますが、今回はどうもその様子はございません。いまだに真剣そのものでございます。
 それに、香姫さまも気づいておられました。ふうとため息をもらされます。
「……わかったわ。だけど、わたしがおとなしく東宮御所におさまっていると思わないでちょうだいね?」
 香姫さまは諦めたようにそうおっしゃると、ふいに上目遣いで葵瑛さまを見つめ、くすりと微笑まれました。
 そのような香姫さまをご覧になって、葵瑛さまは少し驚いたように、そして少し困ったように微笑まれます。
「ええ、心得ております。それでこそ、香姫殿ですよ」
 そして、いつもの葵瑛さまらしい、香姫さまの暴走を容認するような発言をされました。
 陽楊さまも左大臣も、そして明水さまも、このお二人はとめても無駄だとばかりに、眉をひそめられます。
「ところで、明水。よく……呪詛のことがわかったね? あなたは御室にいたのでしょう? そのような遠くはなれたところで……」
 葵瑛さまは、くるりと明水さまに振り返られました。
 すると、明水さまはにこりと微笑まれます。
「ええ。……御室ではなく、蚕ノ社なのですが……。そこで嫌な予感がしましたので……」
「そうですか。助かりました。今後も、我々に力を貸してください」
 葵瑛さまのそのお言葉に、明水さまは、もちろんとおっしゃり、柔らかく微笑まれました。
 そして、すっと立ち上がり、
「では、わたくしはこれで失礼いたします」
そうおっしゃり、簀子へと歩いていかれます。
 そして、御簾に手をかけられた時、ふっと思い出したかのように、振り返られました。
「――姫君。お気をつけくださいませ。姫君のまわりには、微かではございますが、今もってよからぬ気がまとわりついております。わたくしは、それを感じ、こちらへおうかがいしたのです。――どうか、東宮妃となられる御身、大切にしてくださいませ。兄上さまのためにも……」
 じっと香姫さまを見つめそうおっしゃると、そのまますっと簀子へと姿を消していかれました。
 そして、ぎしぎしという小さな音を立て、去っていかれます。
 香姫さまはもちろんでございますが、陽楊さまも葵瑛さまも左大臣も、何やら難しいお顔で考え込んでしまわれました。
 ただ棗だけが、明水さまがおっしゃられた言葉におろおろとしています。
 香姫さまのまわりに、よからぬ気を感じるとは、一体……?
「そ、そうでした。姫さま。お腹がすかれたでしょう? わたし、何か食べやすいものを頼んで参りますね」
 陽楊さまの後ろでずっと控えていた棗は、そう言って慌てて立ち上がり、退出しようとします。
 それに気づいた左大臣が、「では、わたしもこれで失礼するよ……」とつぶやかれ、すっと立ち上がり、棗の後に続かれます。
「陽楊。しばらく、思う存分、香姫殿といちゃついていなさい。嬉しいでしょう?」
 そして、この非常時に、そのようなふざけた非常識なことをおっしゃり、葵瑛さまも庇を出ていかれます。
 後に残された香姫さまと陽楊さまは、もちろん、お顔を真っ赤にされ、うつむいておられました。
 ただ、やはり陽楊さまは、いつものようにどのようなことがあっても、その腕の内から香姫さまを放そうとはしておられませんけれど……。


「棗殿、待ちなさい」
 庇を退出した棗に、追いつかれた葵瑛さまがお声をかけられました。
 棗は、慌てて振り向きます。
「兵部卿宮さま……?」
 そして、何故呼び止められたのかわからず、首をかしげます。
 棗を呼び止めた葵瑛さまも、その少し後ろにおられる左大臣も、どこか険しいお顔をしておられました。
「棗殿。いいね、香姫殿には、決してあのことは言ってはいけないよ? ――例の投げ文が、笹に結ばれていたことは……」
 葵瑛さまは、棗をにらみつけるように見て、有無を言わせぬとばかりに、威圧的におっしゃいました。
 すると、棗の額から、一筋の冷や汗が流れおち、ごくりとつばを飲みます。
「――はい……」
 棗はそう答えると、そのまま静かに去って行きました。
 例の投げ文が笹に結ばれていた……。
 どうして、そのことを香姫さまに言ってはならないのでしょう?
 どうして、香姫さまに秘密にしなければならないのでしょう?
 それにしても、笹とはこれはまた……。
 香姫さまを助けたのが、笹のお文……。
 これは、何か、因縁を感じずにはいられません。
 かつて笹舟の君が香姫さまをお助けしたように、今回もまた、笹という言葉に関するものが、香姫さまのお命を救ったのでございますから。
 ――葵瑛さまのことですから、またよからぬことでも企まれて……?
 そのわりには、今回は妙に、葵瑛さまは険しいお顔をされております。


 その日の夕刻。
 空には、ところ狭しとうろこ雲がひしめき合い、朱色に染まっております。
 秋の夕暮れ時の空は、まこと美しい有様でございます。
 陽楊さまは、すでに東宮御所へ戻ってしまわれていたので、香姫さまは暇を持て余され、左大臣邸ご自慢の秋のお庭を散歩しておられました。
 おもむろに、香姫さまと陽楊さま、葵瑛さまがはじめて出会った時、陽楊さまと葵瑛さまが立っておられたあのもみじの木へとやって来られました。
 そして、懐かしむように、そっと幹に触れられます。
 その時、ふっと足元に何かおかしな感触を覚えられました。
 目線を下へやると、そこには、笹で作った小さな舟が、無造作に置かれておりました。
 それをみとめると、ばっとしゃがみこみ、その笹舟を拾い上げられます。
 そして、しばらくそれを見つめておられたかと思うと、ぽつりとつぶやかれました。
「笹……舟……?」
 何かを思い出したように、お顔をすっとお空へ上げられ、そして真っ赤に染まったうろこ雲たちを仰ぐように見つめられます。
 香姫さまは、何を思っておられるというのでしょう……。
 いえ。そのようなことは、おっしゃられなくてもわかっております。
 香姫さまは恐らく……この笹舟を見て、あの方のことを、かつて宇治で出会った笹舟の君のことを、思い出してしまわれたのでございましょう。
 香姫さまの初恋の君。筒井筒の、かえでの若君。


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update:03/10/08