花ぞさかりに
(十)

 香姫さまは回復されると、日をおかず、さっさと東宮御所へ押し込められてしまいました。
 またしても、香という名の女房として、でございます。
 今回は前回と少し違い、棗も一緒でございます。
 常に香姫さまのおそばにつき、香姫さまをお守りするという大事な役目が棗にはありました。
 香姫さまが、どうして香という名で、また女房のふりをすることになったかと申しますと、少しでも危険を回避できるよう、香姫さまが東宮御所におられることを隠すためでございます。
 表向きは、葵瑛さまのお取り計らいで、香姫さまが葵瑛さまのお義母上、女四の宮のところへ遊びに行き、そこで何故だか香姫さまが女四の宮にいたく気に入られ、そのまま滞在することになってしまった……ということにしております。
 そしてそのまま、女四の宮に、入内に向けて、宮中についてご指南を仰ぐ……というかたちで、世間には触れまわっております。
 これで、香姫さまが左大臣邸にいらっしゃらないことを、誰も不思議には思わないでしょう。
 しかし、実際はと申しますと、香姫さまはもちろん、ここ東宮御所におられまして、それを誤魔化すために、女四の宮にも協力を仰いだというところでございます。
 葵瑛さまのお邸でもよかったのですが、それでは不自然になるので、女四の宮が好都合だったのでございます。
 女四の宮も、愛しい葵瑛さまの頼みとあらばと、喜んでそれを引きうけられました。
 もちろん、女四の宮……そして、内大臣の邸ともなると、そこに仕える女房たちもよくしつけが行き届いておりますので、余計なことは口にしたりなどいたしません。
 まさか、そこに姫君のお姿などないなどとは、口がさけても申しません。
 このような絶好の隠れ蓑は、他にはないのでございます。
 そして、香姫さまが東宮御所へやってこられたと知り、いてもたってもいられないのが、この女房三人衆でございます。
 香姫さまがお姿を現されると同時に、三人そろって、香姫さまにとびついてきました。
「香さ〜ん! お久しぶりですわ! 待っていましたのよ!」
 雅が目をうるませ、香姫さまに抱きついてきます。
 その後ろから、雅を押しのけ、志木も香姫さまに迫るように抱きつきます。
「また見せてくださいね。香さんの殿方より男前なお姿」
 そして、うっとりと、香姫さまを見つめます。
 香姫さまは、このあまりにも予想に反した二人の熱烈歓迎ぶりに、あきれたように愛想笑いを浮かべておられます。
 香姫さまご本人を目の前にして、殿方よりも男前とは……。
 あまりの言いようでございます。当たらずとも遠からず……ですので。
 そのような香姫さまの後ろで、棗が頭痛でもするのか、頭をかかえ、よろりとよろけました。
 それを、とっさに栞が支えました。
「大丈夫です?」
 そして、棗に確認いたします。
 どうやら、この栞だけは、どうにか理性をたもてているようでございます。大好きな女房の香を目の前にしても。
「ええ……。ありがとうございます。――嗚呼。それにしても、本当、頭が痛い……。先が思いやられますわ。ひ……香さまの、はちゃめちゃっぷりを増長させる方が、こちらにいらっしゃるなんて……」
 恨めしそうに、雅と志木を見つめます。
「あの二人は特別ですわ」
 栞はにこりと微笑み、さらっとそのようなことを言ってのけました。
 棗は困ったように微笑みます。
 もちろん、栞にも雅にも志木にも、この棗が香姫さまのお付女房だとわかっております。
 三人に限らず、この東宮御所中の女房がそうかもしれません。
 かつて香姫さまが東宮御所で大暴れして、そして葵瑛さまが愉快そうに香の正体をばらしたことは、まだ記憶に新しいのですから。
 そして、他の女房たちももちろん、また香姫さまがやってこられたことを嬉しく思っております。
 こちら東宮御所の女房たちには、今回、香姫さまの御身を守るために、香姫さまがやってこられた……などとは、伝えておりません。
 女房たちには、入内前に、少しでも香姫さまに宮中のことに慣れてもらうため……と伝えているのです。
 普通ならば、そのようなはちゃめちゃな理由など通用しないでしょうけれど、それが香姫さまとなれば、別です。
 何しろ、香姫さまは、常識から逸脱した姫君の上に、後にも先にもただお一人の、東宮御自ら望まれた、東宮妃、寵妃なのでございますから。
 ただお一人……。それが、まかり通れば……の話でございますが……。
 ――いえ。まかり通ってしまいますね。あの方、葵瑛さまが、陽楊さまの味方についておられる限り。


 それから数日。
 葵瑛さまではございませんが、おもしろくないことに、何の騒動もなく、つれづれに日は過ぎておりました。
 あの香姫さまが、お邸の中にこもること一日ともたない香姫さまが、このように長い間おとなしくしておられるなど、かつて東宮御所に密偵(スパイ)としてもぐりこまれた時以来でございます。
 どうやら今回は、香姫さまにも、ご自分の命が狙われているという自覚がおありのようでございます。
 ――と見直したのもつかの間。やはり香姫さまでございます。どうやら、また、何かしでかさずにはいられないようでございます。
 香姫さまと棗が東宮御所に上がってすぐに、香姫さまのお付女房ということもあり、棗は御所の女房たちに気に入られました。
 そして、今ではすっかり、栞、雅、志木の葵瑛さまお気にいりの女房三人衆と仲良くなっておりました。
 ですから本日も、御簾の内では、女房三人衆と棗で、世の噂話にはなをさかせております。
 くすくすと、風流ぶった笑い声の中、棗がふと気づきました。
「あら? 姫さまが……」
 そう言って、辺りをきょろきょろと見まわします。
 先ほどまで、すぐそばで、左大臣邸より暇つぶしにと一緒につれてきた伽路と遊んでいたはずの香姫さまのお姿が、どこにもなかったのでございます。
「そういえば……。先ほどから、お姿が見えませんわね……? どうしたのかしら?」
 栞が首をかしげ、棗同様、辺りを見まわします。
 これでは、護衛の意味がございません。
 いついかなる時も香姫さまのおそばにつき、香姫さまに御所中を徘徊させないために棗は連れてこられたにもかかわらず、このようなところでのんきに噂話に夢中になっていては、そのお役目をまったく果たせていないのと同様でございます。
 そして、この女房三人衆も同様でございます。
 香姫さまがまたやって来られると知り、「香姫さまのことは、わたくしどもにおまかせくださいませ」なんて、葵瑛さまにたんかをきっていたにもかかわらず、その三人が率先して噂話をしているのですから。
 どうやら、あまりにも噂話に夢中になりすぎて、香姫さまがこの庇を抜け出されたことに、誰一人として気づかなかったようでございます。
 これでよくもまあ、東宮御所のユウノウな女房といえたものでございます。
「どうせ、その辺りをふらふらと歩きまわられているのですわ。あのお姫さまのことですから」
 首をかしげる棗と栞に、雅がさらっと言ってのけました。
 すると、棗と栞は互いに顔を見合わせ、納得したようにこくんとうなずきます。
「それもそうね」
 同時に、そこにいた女房たち全員から、くすくすという笑い声が上がりました。
 そしてまた、噂話に戻っていきます。
 ――と、お待ちくださいませ。女房さま方。
 今、まさに香姫さまのお姿がないというのに、そのようにのんびりとしていていいのですか? そのように悠長にかまえていてよいのですか?
 葵瑛さまとお約束された、「いついかなる時でも香姫さまのおそばにつき……」というあの言葉は、嘘だったのでございますか?
 まあ、香姫さまのお守などより、噂話をしている方がよほど楽しいことはわかりますが。
 しかし、だからといって、そのように簡単にそのお役目を放棄してもよろしいのですか?
 そう申しましたところで、事態が何か変わることもなく、女房たちは、香姫さまのことなどすっかり忘れ、噂話を続けます。

 その頃の香姫さまといえば、もちろん、女房たちが言うように、その辺りをふらふらと歩きまわっておられました。
 その辺りと申しましても、東宮御所のお庭をふらふらでございます。
「もう、伽路! 勝手にお外へ出ては駄目じゃない」
 香姫さまはそうおっしゃると、ひょいと伽路を抱き上げられました。
 そして、伽路の顔を目線のところまで持ってこられると、じっとにらみつけられます。
 すると伽路は、にゃあ〜と鳴き、ぺろりと香姫さまの頬をなめました。
 まったく、この伽路という猫も、全然状況がわかっておりません。
 まあ、相手は猫なので、わかれという方が無理なのですが。
「だけど伽路、一体、ここで何し――」
 伽路を抱き上げたそこで、目線のはしで、足元に珍しいものがあることにふと気づかれました。
 その瞬間、時が止まったような気がしました。
 冷たい秋の風が、すうっと香姫さまの頬をかすめます。
 冷たいけれど、それがかえって脳に刺激を与え、頭を冴えさせます。
「これは……」
 そうつぶやかれると、すっとその場にしゃがまれてしまいました。
 嬉しそうに、柔らかく微笑まれます。
「伽路。お前は、これをわたしに見せたかったのね?」
 そして、くすくすと幸せそうに笑われます。
「おや? もみじのさし木ですね。これは風雅な……」
 一人、何やら幸せをかみしめられていた香姫さまの頭上で、そのような声がしました。
 香姫さまは驚き、ばっとお顔を上げられます。
 するとそこには、見慣れぬ、妙に身なりのいい公達が立っていました。
 いいえ。公達では足りないかもしれません。何しろその殿方は、公達よりも、はるかに雅で気品のある雰囲気を漂わせていたのですから。
 それはさながら、真面目な時の葵瑛さまや、東宮のお役目をこなされている時の陽楊さまのような……そのような皇族独特の雰囲気でございました。
 その公達の言った通り、香姫さまの足元には、以前、喧嘩の仲直りのために、香姫さまが宇治からの帰京の途中に手折って、そして陽楊さまに贈られた、もみじの枝がさし木されていました。
 恐らく、せっかくの香姫さまからの贈り物、このまま枯らしてしまうのはおしいと思われた陽楊さまが、毎年お庭で楽しめるようにさし木されたのでしょう。
 このもみじのさし木も、あと何年も何十年もすれば、恐らく、立派なもみじの木へと育つことでございましょう。
「あなた……は……?」
 香姫さまは、あまりにも常人からかけ離れたその艶やかな空気に、肩をすくめてしまわれました。
 伽路を抱く手に、少し力が加わります。
 そのような少しおびえたような香姫さまのお姿に、その公達は眉をひそめ、少し困ったように微笑みます。
「これは失礼。わたしは、露の宮(つゆのみや)と呼ばれております。東宮にお会いしに来たのですよ」
「東宮に……? でもたしか、今は東宮は、葵……兵部卿宮さまとお話中のはずよ?」
 香姫さまはすっと立ち上がり、露の宮におっしゃいました。
「ええ。どうやら、お話が長引いているようですね。ですから、こちらのお庭でも散歩して、少し時間をつぶそうかと……」
 香姫さまの無礼な物言いにもちっとも気を悪くされることなく、露の宮はにこりと微笑まれました。
 まったく、どうやらまたお忘れのようですね? 香姫さま。
 あなたは今は、こちら、東宮御所の女房なのですよ? その女房が、恐れ多くも皇族の方に、そのようなお言葉遣いはさすがにまずいでしょう。さすがに。
 しかし、そこは香姫さま。相手が誰であろうと、まったくご自分の調子は崩されません。
 先ほど、一瞬お見せになられたおびえたような様子はどこへやら、いつもの尊敬に値するほどの高慢な態度でございます。
「そうなの? それじゃあ、わたしが、兵部卿宮とのお話を早く引き上げるように言ってきましょうか? わたし、兵部卿宮とならお話できてよ?」
 くすりと微笑み、伽路をぎゅっと抱きしめられます。
 すると伽路は、香姫さまの腕の中で、嬉しそうに、またにゃあと鳴きました。
「兵部卿宮と……ということは、では、あなたがあの兵部卿宮縁の女房ですか?」
 妙に納得したように、さっぱりとした表情で、露の宮がおっしゃいました。
「あの……?」
 香姫さまは、急にお顔をくもらせ、怪訝な表情を浮かべられます。
 香姫さまは、あの≠ニいう言葉に、最近、妙に敏感になられているようです。
 何しろあの≠ニいう言葉で、ろくなことを言われたことがないのですから。
 あの≠ニいうことは、すなわち、香姫さまにとっては、世間一般でよからぬ噂をされているという証拠でございます。
 あの左大臣家の香姫。あの兵部卿宮。そして、あの東宮なのですから。
 あの≠ニいう言葉をつけられて呼ばれる名前に、ろくなものはございません。
「ええ。とても優秀な女房だそうですね? 有名ですよ。気品も教養もあり、箏の琴の腕前は天下一品。その衣から香る香りも、どこか理想郷を思わされるようにすばらしくよい香りだとか。他にもいろいろ……。あなたにまつわる武勇伝などもございますよ?」
 露の宮はにこにこと微笑み、香姫さまと出会えたことをとても喜ばれている様子でございます。
「な……っ! 一体、そのような噂、どこから!? どれもこれも全部嘘よ。噂って、どんどん大きくふくらんでいくから嫌いなのよ」
 香姫さまは恥ずかしそうにお顔を赤く染められ、きゅっと伽路の体で隠されます。
 伽路は、そのような香姫さまをきょとんと見つめています。
「ふふっ。そのように謙遜されるお姿が、またかわいらしいですね」
 露の宮はそうおっしゃると、すっと香姫さまを抱き寄せてしまわれました。
 香姫さまは一瞬の出来事に、かわすことができませんでした。
 まあ、いきなりでなくても、一部例外もございますが、皇族に、そうやすやすと無礼なことはできないと、さすがの香姫さまでもわきまえておられますので、問答無用で華麗なる平手打ちを差し上げたりはなさらないですけれど。
 そして露の宮は、真っ赤になりうろたえる香姫さまの耳元で、そっとささやかれます。
「わたしは、あなたがとても気に入りました。また、お会いいたしましょう。今度はその猫も抜きで、二人きりで……。女房殿――」
 そして、ゆでだこのように真っ赤になって、湯気すらのぼらせている香姫さまに、これまた極上の微笑みを残し、流れるようにお体から手を放し、そのまま歩いていかれました。
 香姫さまは胸をどくばくはずませ、露の宮の去り行く後ろ姿を見つめておられました。
 自慢ではございませんが、香姫さまは生まれてこのかた、お父上の左大臣、兄上の月影の中将、限りなくふざけた宮様、葵瑛さま、そして誰よりも大切な陽楊さま以外の殿方に、抱き寄せられたことなどないのでございます。
 それはもう、心の臓もばくばくの驚きと緊張でございましょう。


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update:03/10/08