花ぞさかりに
(十一)

 露の宮。
 それは、まるで朝露のように潤んだ艶かしいその雰囲気、お姿から、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた、親王の一人で、今上帝の末の弟君の愛称でございます。
 そして、この方もまた、東宮、そして帝になれるだけのお血筋の宮様でございます。
 今東宮がお生まれになられなければ、もしかすると、今頃はこの親王さまが東宮になられていたかもしれないというほどの、お血筋のよい宮様でございます。
 しかし、この宮様。葵瑛さま同様、その少し変わった、出世欲などないというご性質から、まったく帝位など望んでおられないようで、今は閑職につき、気ままにお暮らしになられているということでございます。
 また、閑職とは申しましても、葵瑛さまと争うほどの、月影の中将と並ぶほどの、都きっての婿がねでございますので、女性からのラブコールも、それはそれは怒濤のように押し寄せる毎日でございます。
 しかし、ここが少し、葵瑛さまと違うところ。
 こちらの露の宮は、葵瑛さまのように、あっちの姫こっちの姫と、ふらふら渡り歩き浮名を流すのではなく、いまだに一人の人も決めず、真面目に生活されておられます。
 ですから、露の宮に入れ込んでしまった女性たちは、もうめろめろのへろへろでございます。
 ――と申しましても、やはり片恋。露の宮には、浮いた話がまったくないのでございます。
 そのような露の宮から、お声をかけ、さらには口説いたりされるなど、今まで一度もなかったことでございましょう。
 そのような宮様が、香姫さまにあのような言葉をささやくとは……これはもしかして、またしても嵐の予感!?
 しかも、今までのような緊迫したものではなく、淡い桃色の嵐の予感!?
 それにしても、いくらよい噂が飛びかっていたにしても、どうして香姫さまなのでしょうか?
 露の宮のような器量をお持ちの方なら、別に香姫さまでなくても、もっと素晴らしい姫君、よりどりみどりなのではございませんでしょうか?
 まあ、そのようなことを申しましては、無粋というものでございましょう。


 どたどたどたと、慌しく簀子を駆ける足音が、東宮御所中に響き渡りました。
 御所に仕える者たちは、一体何事か!?と、皆慌てて簀子に顔をのぞかせます。
 その顔の前を、疾風が通りすぎていきました。
 そして、その疾風が通り過ぎた後、皆一様に「え……?」とつぶやき、お口のはしをひくひくとふるえさえ、額からは冷や汗を流しました。
 何しろ、その疾風の正体は、この東宮御所の主、東宮だったのでございますから。
「香子!!」
 乱暴に御簾があげられ、香姫さまと棗、そして女房三人衆が絵巻物などを楽しんでおられる庇へ、陽楊さまが乱入されてきました。
「……陽楊さま?」
 そのあまりものいつもとは違う陽楊さまの取り乱しように、香姫さまはきょとんと陽楊さまを見上げられます。
 すると陽楊さまは、すたすたと香姫さまのところまでやってこられると、すとんと腰を下ろされます。
 そして、ぎゅっと香姫さまの両手を握り締められました。
 真剣な熱いまなざしで、香姫さまを見つめられます。
「文……文には、何と書かれていたのだい?」
「文?」
 香姫さまは、何をいきなり……とばかりに、怪訝そうに陽楊さまを見つめられます。
 たしかに、いきなり血相を変えて飛び込んできて文と言われても、香姫さまでなくても、一体何のことか訳がわかりません。
「文といえば、文だよ。香子、もらっただろう? 露の宮から文を……」
 切羽詰った眼差しで香姫さまを見つめられます。
 陽楊さまのそのお言葉を聞き、香姫さまはようやく何のことだかおわかりになったらしく、「ああ」とつぶやかれると、棗に目配せし、その文とやらを持ってこさせました。
「……東宮さま。こちらです」
 棗は戻ってくると、そう言って、文を陽楊さまに差し出しました。
 すると陽楊さまは、訴えるように香姫さまを見つめます。
「いいわよ。読んでも」
 陽楊さまのその視線に気づき、香姫さまは眉をひそめられました。
 香姫さまのお言葉を聞くと、陽楊さまは待っていましたとばかりに棗から文を奪い取り、ばっと開いて読まれます。
 そして次の瞬間、陽楊さまの手の内から、ぽろりとその文が落ちました。
「と、東宮さま……!」
 棗は慌てて文を拾い、陽楊さまのお顔を凝視します。
 なんと陽楊さまのお顔は真っ青で、しまいにはがたがたとお体をふるわされている始末でございます。
 香姫さまはそのような陽楊さまと棗を見られて、ぱらりと扇を開き、くすくすと笑われます。
「香子! これは笑い事ではなだろう! 何だ、この文!! これでは、まるで恋文ではないか!!」
 陽楊さまは、おもしろがる香姫さまの両肩をがばっと抱き、今にも食らいつきそうな勢いで叫ばれます。
「まあ、陽楊さま。まるでではなくて、それは恋文そのものよ」
 そして、そのようなことを言ってのけ、また楽しそうにころころ笑われてしまいました。
 陽楊さまは、そのような香姫さまの態度に落胆されたのか、すっと両手をお放しになり、くるりと香姫さまに背を向けてしまわれました。
 それから、膝を三角に立て、背を丸め、両手の指をいじいじといじり、いじけてしまわれました。
 陽楊さまのまわりには、どんよりとした空気が漂っております。
 まあ、無理もありません。香姫さまにお文を送ったのは、よりにもよってあの露の宮なのでございますから。
 あるところでは、一目そのお姿を見ただけで恋に落ちてしまう、光る君も真っ青のなんとも艶やかな宮様とうたわれるあの露の宮。
 そして、露の宮が香姫さまに文を送ることを、今は誰もとがめることができません。
 今回、露の宮が文を送ったのは、東宮妃入内の決まった姫君ではなく、あくまで、東宮御所仕えの香という名の女房なのですから。
 これではもう、冗談ではなく、本気としかとりようがございません。
 香姫さまはそのような陽楊さまのお姿を見て、狐につままれたように驚いておられます。
 何しろ香姫さま、陽楊さまのやきもちをやき、すねた様は何度か目にされてこられましたが、このようにいじけたお姿は、今まで見られたことがなかったのでございますから。
 そこで、やりすぎたかしら?と、ばつが悪そうに、香姫さまは陽楊さまに擦り寄られます。
「陽楊さま。冗談よ。……まあ、たしかにわたし、露の宮から恋文をいただいたけれど、すぐにお断りの文を書いたのよ?」
 そうおっしゃり、陽楊さまのいじけ面に、両手で優しく触れられます。
 そのお言葉を聞き、陽楊さまは、まるでいじめられっこのような瞳で、香姫さまを訴えるように見つめられます。
 香姫さまは、陽楊さまのその視線に、優しい微笑みで返されます。
「わたしが好きなのは、陽楊さまだけだもの」
 香姫さまはとうとう、陽楊さまにとどめをさされてしまいました。
 陽楊さま、陥落でございます。
 陽楊さまならいざ知らず、香姫さまがそのような甘い言葉をささやかれるなど、そうそうあることではございません。いえ、今までにもなかったかもしれません。
 香姫さまのお言葉を聞いた瞬間、陽楊さまの思考は停止し、至上の楽園へと飛び立ってしまいました。
 陽楊さまは、がばっと香姫さまを抱き寄せ、力いっぱい抱きしめられます。
 香姫さまは、くすりと困ったように微笑み、陽楊さまを抱き返されました。
 そのようなやめてくれというほどのらぶっぷりをあてつけられ、それにもかかわらず、棗と女房三人衆は、微笑ましそうにその場を退出していきました。
 後に残された香姫さまと陽楊さまは、飽きることなく、次に葵瑛さまが闖入してこられるまで、思う存分いちゃついておられたそうでございます。


「どうやら、わたしの文はお気にめしていただけなかったようですね?」
 簀子で、高欄に伏すようにもたれかかり、退屈そうにお庭を眺めておられる香姫さまの目の前に、気配なく、いきなり露の宮が現れました。
 露の宮は、簀子下から香姫さまを見上げておられます。
 香姫さまは驚き、とっさに後ずさってしまわれました。
「そう逃げないで。何もしませんから」
 少し困ったように、悲しそうに露の宮は微笑まれます。
 その顔を見て、香姫さまはばつが悪そうに、また高欄へと近寄られました。
 そして、高欄に手をかけ、少し下にある露の宮のお顔を辛そうに見られます。
「その……ごめんなさい。露の宮さま。わたくしには……お文にも書きましたが、結婚の約束をかわした方がおりまして……」
 香姫さまは目線をそらし、気まずそうにおっしゃいました。
 すると露の宮は、切なそうにふっと微笑まれます。
「……ええ。それは仕方のないことですね。ですが、わたしはまだあきらめませんよ? 恋したばかりで失恋など、あまりにも間抜けですからね。もう少しねばってみます。それくらいはいいでしょう?」
 そのような突拍子もないことを、にこりと微笑み、平然と言ってのけられました。
 香姫さまは、唖然とされておられます。
 そして、眉をひそめられました。
「ねばっても、無駄だと思いますよ?」
「それは残念」
 露の宮は、優しく微笑まれます。
 もうそのお顔には、先ほどまでの哀愁はございませんでした。
 恐らく、もうこれ以上言っては香姫さまを困らせるだけだと、無理に何ともないふりをされているのでございましょう。
 その袖の内に隠された手が、微かに震えているようですから。
 どうやら露の宮、本気で香姫さまのことが……?
「ところで、さきほどぼんやりとされていたようですが、何か気になることでも……?」
 そして、急に話題を変えられます。
 どうやら、もうこのことに関しては、あまりお話をしたくないようでございます。
 まあ、無理もございませんけれど。何せ、露の宮は、二度、香姫さまにふられてしまったのですから。あの葵瑛さまと人気を二分する、宮中の華である露の宮が。
 これを世の女性が耳にすれば、どれほど悔しがることでございましょう。
 実際、東宮御所では、露の宮が香姫さまへ恋文を送ったということがあっという間に広がり、そして陽楊さまのお耳に簡単に入ってしまうほどの人気ぶりでございますから。
「……気になる……というよりは、その……思い出していたの。筒井筒の君を……」
「筒井筒の君?」
 露の宮は首をかしげられます。
「ええ。ずっと幼い頃、一緒に遊んだ初恋の君なの」
 香姫さまはそうおっしゃると、悲しげに微笑まれました。
 露の宮は、何もおっしゃらず、何か考え深げに、じっと香姫さまのお顔を見つめておられます。
 香姫さまは高欄に手を置き、すっと秋の空を見つめられました。
 空には秋雲(しゅううん)が漂っています。
「筒井筒の笹舟の君はね、わたしの命の恩人なの」
 香姫さまはぽつりとささやかれると、また露の宮に視線を移し、今にも泣き出してしまいそうな潤んだ瞳で、苦しそうに微笑まれます。
 露の宮は何も言えず、切なそうに香姫さまを見つめられます。


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update:03/10/11