花ぞさかりに
(十二)

 時は、さかのぼること、今より十年前。ところは宇治。
 宇治の川辺で、香姫さまは、お一人で水遊びを楽しんでおられました。
 ぱしゃっぱしゃっとはね、陽の光を浴び、きらきらと光る水を体中に受け、満悦のご様子です。
 どうやら香姫さま、このような幼少の頃からすでに、現在のおてんばぶりが備わっておられたようで、この時もまたお邸を抜け出し、一人で遊びに出てこられていたようでございます。
 お邸の者たちが、邸内に香姫さまのお姿がないことに気づき、慌てふためいて探しまわっているとも知らずに。
「それ以上、身をのりだしては危ないよ」
 ばしゃばしゃっと、衣が濡れるのも気にせず、川の水をかきあげ遊ぶ香姫さまに、後ろからそのような声がかかりました。
 香姫さまは、きょとんと、目を真丸く大きく開き、振り向かれます。
 するとそこには、香姫さまより二つか三つ年上の年頃の童が立っておりました。
 どうやら、どこか貴族の若君のようでございます。
「それにほら、びしょ濡れですよ。それでは風邪をひいてしまう……」
 童……若君は、香姫さまの頬にかかった水滴を、自らの袖ですっとふき取りました。
 香姫さまは、その振る舞いをいまいち理解しておられないのか、首をかしげられます。
 しかし、やわらかく微笑まれました。
「ありがとう」
 香姫さまがそうおっしゃると、若君もにこりと微笑みます。
 そして、おもむろに香姫さまの手を引き、川上の方へと引っ張っていきます。
「行こう。もっと楽しい遊びをしよう」
「うん!!」
 若君のその言葉に、嬉しそうに元気に返事をされます。
 そして、お二人一緒に、川原を川上へとかけていかれます。
 もっと楽しい遊びをしよう。
 たったそれだけの言葉で、香姫さまと若君は、もうすっかり友達になってしまっておられました。
 幼い童と女童にとっては、男女の差など関係なく、友情が芽生えてしまうのでしょう。
 しばらくかけたかと思うと、若君は立ち止まり、香姫さまの手を放し、そこにあった笹から一枚、葉をちぎりました。
 そして、器用に、その葉を舟の形へと変えていきます。
「笹舟!!」
 舟の形になった笹の葉を見て、香姫さまは目を輝かせ叫ばれました。
 若君は優しく微笑みます。
「見ていて……。これをこうしてね、川へ流すと……」
 すっとしゃがみ、そっと川面にその笹舟を浮かべました。
 すると笹舟は、そのまま川の流れにのって、優雅に川を下っていきます。
 それを、きらきらと目を輝かせ、香姫さまは見つめておられました。
 そして、がばっと若君へ振り返ると、ぎゅっと若君の両手を握り締められます。
「行こう! あのお舟を追いかけるの!」
 そうおっしゃられたかと思うと、香姫さまは若君の手をひき、駆け出しておられました。
 笹舟を追いかけ、走って走って走りつかれた頃、ついにはその笹舟を見失ってしまわれました。
 すると、香姫さまは残念そうに立ち止まり、今にも泣き出してしまいそうなお顔で若君を見つめます。
「大丈夫。きっとあの舟は、ずっとずっとこの川をくだっていき、海へと出るでしょう。そして、大海原を航海するのです」
 香姫さまを抱き寄せ、若君は優しく微笑みました。
 すると香姫さまは、ぐっと涙をこらえ、にこりと微笑まれます。
「うん!」
 そしてお二人、川下を見つめられます。
 もうその頃には、お空はすっかり赤く染まり、夕暮れ間近となっておりました。
 その後、お邸へお帰りになった香姫さまが、こってりしぼられたことは言うまでもないでしょう。

 翌日から、毎日のように、香姫さまはお邸を抜け出し、若君と出会った川原へ行き、同じように笹舟を作ってはそれを流し、追いかけて遊んでおられました。
 もちろんそこには、若君もいました。
 若君と二人、同じことを何度も何度も繰り返し、あきることなく遊んでおられたのです。
 翌日にはもう、それぞれのお邸の者にも知るところとなっており、お二人の邪魔をしないようにと、お邸の者たちは陰からそっと見守っておりました。
 そのようなことなど知らずに、香姫さまも若君も、笹舟を追いかけて遊んでおられたのです。
 そして、香姫さまが宇治での休暇を終え、二日後には都へ帰ろうかという頃でございました。
 もうそろそろお別れであると、香姫さまも若君もわかっておられたのでございましょう。
 笹舟を作ることも、それを流して追いかけることもされず、川原に寄り添うそうにすわり、語り合っておられました。
 そのような様子を見ていたお邸の者たちは、このままいくと、将来、あのお二人はそのまま夫婦になってしまわれるのでは?や、小さな恋人同士と言って、微笑ましそうに見守っておりました。
「ねえ、笹舟の君。わたしね、もうすぐ都へ帰らなければならないのですって」
 香姫さまは、淋しそうに若君……笹舟の君を見つめます。
 すると、笹舟の君は香姫さまの手をとり、ぎゅっと握り締めました。
 そして、香姫さまを見つめます。
「大丈夫。わたしももうすぐ都へ帰ります。都へ帰っても、こうしてまた一緒に遊びましょう」
「うん!」
 香姫さまはそうおっしゃると、嬉しそうに立ち上がり、ばしゃばしゃと川の中へ入っていかれます。
「う、宇治の姫君! 危ないですよ。川の中でそのようにはしゃいでは……!!」
 笹舟の君も、香姫さまを連れ戻そうと、川の中へ入っていかれます。
「大丈夫だよ!」
 香姫さまが振り返り、そうおっしゃられた時でございます。
 ぐらりとお体がゆらぎ、そしてそのまま、ばしゃんと後ろ向きに倒れてしまわれました。
 笹舟の君は、慌てて香姫さまに駆け寄ります。
 しかし、香姫さまのお姿は見あたらず、浮かんでくる様子もございません。
 笹舟の君は蒼白な顔で、その場にたちすくんでしまいました。
 そして次の瞬間、ばしゃんと水音を立て、川の中へと飛び込みました。
 どうやら、香姫さまが倒れられたそこは、笹舟の君が飛び込んだそこは、深みになっていたらしく、とうていこどもの背丈では立つことができない深さだったようです。
 そこでようやく、陰から見守っていた者たちもその異変に気づいたらしく、慌てて茂みから出てきます。
 そして、あたりを見まわしたり、川へ入ったりいたしましたが、お二人のお姿はどこにも見あたりません。
 もう駄目か……と思った時、またばしゃんと水音がしました。
 慌ててそちらへ振り返ると、そこに、気を失った香姫さまを抱えた笹舟の君の姿がございました。
 その姿は、こどもながらにそれはもう凛々しく、その瞳からは力強い光を発しておりました。
 大人顔負けの、立派な姿でございました。
 お二人に気づいた者たちは、慌てて駆け寄り、笹舟の君の腕から香姫さまを受け取ります。そして、お二人に衣を着せかけました。
 笹舟の君は、気を失っている香姫さまの頬にかかる濡れた髪をそっとはらうと、安心したように微笑みました。
 次の瞬間、安堵からか、笹舟の君はその場にふらりと倒れてしまいました。
「若……! かえでの若君……!!」


 香姫さまの目から、一筋の涙が流れ落ちております。
 秋の空気に触れたそれは、妙に香姫さまには冷たく感じられました。
「あ、あら? どうしてわたし……」
 そうおっしゃると、慌てて涙を手でぬぐわれます。
 その手を、露の宮がつかんでいました。
 そして、切なそうに香姫さまを見つめられます。
 しかし、何も言おうとはされません。
 ただじっと、香姫さまを見つめられるだけでございます。
 そこで、香姫さまは困ってしまわれ、ふいっと顔をそむけられます。
 そうして、ぽつりとつぶやかれました。
「それから都へ帰ってきて知ったのだけれど……笹舟の君、どうやらお体が弱かったらしいの……。なのに、無理してわたしを助けたりしたから、その夜から高熱を出し、すごく苦しんだそうなの……」
 露の宮に背を向けた香姫さまの肩が、微かに震えているような気がいたしました。
 相変わらず、露の宮は、香姫さまの手をつかんだままでございます。
「それで……今は、その笹舟の君は……?」
 露の宮は、そのような香姫さまがいたたまれなくなり、なぐさめようと言葉を探されます。
 しかし、ようやく見つけた言葉は、余計に香姫さまを困らせて、悲しませてしまうような言葉でございました。
 それに気づかれた露の宮のお顔から、さあっと色が失せてしまいます。
 ですが、香姫さまの反応はやけにおだやかで、ゆっくりと露の宮へと振り返り、切なそうに微笑まれました。
 一筋とは言わず、その目からはもう涙が溢れ出しておりました。
 その香姫さまのお姿が、さらに露の宮を困惑させてしまいます。
 香姫さまは、今もその笹舟の君が――
 次の瞬間、露の宮は、高欄に手をかけ、がばっと高欄をよじ登られておりました。
 そして、すとんと簀子に降り立ち、香姫さまを抱き寄せられます。
「つ、露の宮さま……?」
 香姫さまは露の宮のいきなりのその行動に驚き、どう対応すればよいのかわからず、おどおどとされています。
「やはり……やはり、わたしはあなたが……!」
 そうおっしゃると、強引に香姫さまのお顔をご自分の方へと向けさせ、じっと見つめられます。
 露の宮の腕にはさらに力が加わり、香姫さまのお顔へと、次第に露の宮のお顔が近づいてきました。
 そこでようやく、香姫さまもはっと気づかれ、慌てて露の宮を振りほどこうとされます。
 しかし、強く抱きしめた露の宮の腕はびくともいたしません。
 香姫さまはぼろぼろと涙をこぼし、もう言葉も出すことができないのか、真っ青なお顔で、ぶるぶると震えだしてしまわれました。
 もう目の前には、露の宮のお顔が――
 香姫さま、危機一髪でございます。
 その時、ふうっと香姫さまと露の宮のお顔の間に、なまぬるい風がかすめました。
 その生ぬるい風からは、微かに笹の匂いが香ってまいります。
 同時に、香姫さまのお体はふわっと宙を舞い、露の宮の腕の中からするりとすり抜けておりました。
「……!?」
 露の宮は驚き、慌てて香姫さまが舞う方へと視線をやられます。
 するとそこでは、香姫さまを抱いた公達の姿がございました。
 香姫さまは、いきなりのそのできごとに、ぽか〜んとされておられます。
 そして、はっと気づかれ、公達のお顔を確かめられました。
 その瞬間、香姫さまは、さらに驚くことになります。
 その公達は、なんと、過日、宇治からの帰京途中、もみじを手折るために登った木から落ちた香姫さまを助けた、あの公達だったのです。
 ぱくぱくと、まるで金魚鉢の金魚のようにお口をぱくぱくさせる香姫さまに、公達はにこりと微笑みます。
 そして、視線を露の宮へと送り、きっとにらみつけました。
「そなた、何者!? ここは、お前のような者が入れるところでは……」
「――失礼。しかし、わたしの恋人にちょっかいを出されたとあっては、いくら相手が宮様といえど……」
 露の宮の言葉をさえぎるように、公達はそう言いました。
 香姫さまは、もう何が何だか訳がわからず、ぽか〜んとその場の成り行きを見守っておられます。
 当然、香姫さまのことですから、そのような恋人だなどと嘘をつかれては、大暴れしそうなものですが、この公達が助けようとしてくれていることがわかるので、ひとまずは黙っていようと思われたようでございます。
 ぶすっと不機嫌なお顔で、押し黙っておられます。
「お前は、香殿の恋人と!?」
 もちろん、そのようなとんでもない言葉を聞いては、露の宮も黙ってはおられません。
 恋人ということは、香姫さまが露の宮をふるきっかけとなった、例の結婚を誓った者なのですから。
「はい。わたしたちは、もうずっと昔から……。筒井筒の頃から……」
 公達はそう言うと、切なそうに香姫さまを見つめました。
 その瞬間、香姫さまの中で、何かがつながったような気がしました。
 そして、何かがはじけたように、ぱちんと音を立てます。
「笹舟の君……」
 香姫さまは、ご自分でも気づかぬうちに、そうつぶやいておられました。
 そのつぶやきは、疑問ではなく、確信でございました。
 もう確かめる必要はないのです。この公達が笹舟の君だと、それ以外はないのだと思われておられます。
 そして、公達に抱かれたまま、きゅっと束帯の袖を握られます。
 切なそうに、ずっとずっと待っていた恋人がようやく目の前に現れたように、すがるように公達を見つめられます。
 そのような香姫さまの普通でない様子に気づかれた露の宮は、愕然とされます。
「では……お前が……香殿がずっと思っていた……」
 そうつぶやくと、露の宮は全ての希望を失ったように、力なくすごすごと歩いて去っていかれました。
 例の筒井筒の君とはその後も仲良くしていて、そしてついには結婚を約束してしまうまでの仲になっていた……。そのように思われたのでございましょう。
 そして、結婚を約束するほどの仲になった今でも、香姫さまは初恋の頃と同じように、この公達を愛していると、そう感じてしまわれたのでしょう。
 それを確認すると、公達はすっと香姫さまを簀子の上におろし、そのまま去っていこうといたします。
 そのような公達に、香姫さまは叫ばれました。
「待って! やっぱり、やっぱりあなたは、笹舟の君なのね!? ずっと探していたの! あの時からずっと……! あなたの行方がわからなくなり、ずっと……!!」
 そして、ばっと公達へ駆け寄り、背にすがるように抱きつかれます。
 そのような香姫さまの手にそっと触れ、公達は香姫さまを少し放すと、すっと振り返りました。
 そして、力強く香姫さまを抱きしめます。
「わたしも、ずっとお会いしたかった。ずっと……。――やっと、お会いできましたね。宇治の姫君……」
 そう言った公達の目からは、今にも涙があふれ出そうでした。
 もちろん、公達の胸に押しつけられた香姫さまのお顔は、涙にぬれ、もうぐしゃぐしゃでございます。
 すがるように抱きついておられます。
 もう、その手をはなしたくないとばかりに……。
 やっと再会できた、愛しい殿方。
 ――宇治の姫君。
 それはまさしく、笹舟の君だけが知る、香姫さまの宇治での思い出の名――


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update:03/10/11