花ぞさかりに
(十三)

 夕月夜。
 御簾の上げられた邸内には、月明かりが程よく差し込んでおります。
 しかし、それだけでは少し明るさが足りないので、すぐ横に燈台を置き、月影の中将は何やら書き物をされているようでございます。
 月明かりと燈台の明かりに照らされた月影の中将のお姿は、それはもう清らかそのものでございます。
 月影の中将。
 かつて帝よりその名を賜ったのは、恐らく……今宵のような月夜だったことでしょう。
 新古今和歌集で藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)が詠む――

 秋風に たなびく雲の 絶え間より 濡れ出づる月の 影のさやけさ

 ふと口ずさんだその歌で、月影の中将は、風流を解する公達として、名をはせることになったのでございます。
 そのような名に負けず、自らも風流な御仁である月影の中将が、かすかな頼りない明かりのもと書き物をされているとは、なんとも絵になる様でございます。
 そのような月影の中将の視界が、ふいに真っ黒に、漆黒に支配されてしまいました。
「……!?」
 驚き、思わず持っていた筆を落としそうになりましたが、すうっと小さく深呼吸し、すずりの上にことんと置かれました。
 そして、そっとご自分の両の目に両手をもっていかれます。
「……驚かせるのじゃない。香子」
 静かにそうおっしゃいました。
 すると、月影の中将の視界は、また、ほのかな明かりに包まれる、ほの暗いものへと変わりました。
「ええ〜!? どうしてわかっちゃうの? わたしだと」
 月影の中将の耳に、そのような弾むような声が聞こえてきました。
「わかって当たり前! ここでこのようなことをするのは、お前くらいだろう」
 月影の中将はそう怒鳴りながら、ぐるりと振り返られました。
 するとそこには、むすっとふくれ、恨めしそうに月影の中将をにらみつける香姫さまのお姿がございました。
「今夜、兄様が宿直だと聞いたから、せっかくむかえにきてあげたのに」
 そうおっしゃると、香姫さまはにやりと微笑み、月影の中将の背にがばっと抱きつかれます。
 月影の中将は、眉尻を下げ、少し困ったように微笑まれます。
「むかえに?」
 そして、肩から胸へとかけられた香姫さまの両腕に触れ、顔をひょいと後ろへやり、香姫さまをのぞき見るようにおっしゃいました。
「ええ。今ね、葵瑛さまと明水さまがいらしているのよ。それで、兄様も呼んできて、一緒に月を肴に御酒でも飲もうと。陽楊さまが」
 香姫さまのそのお言葉を聞き、月影の中将は少し驚いたような表情を見せます。
 皇族方がいらっしゃるところへご一緒してよいものかと、月影の中将は懸念されたのでございます。
 腕を振り解き、香姫さまへと向き直られます。
「東宮が? わたしもご一緒してもよいと?」
「うん。さあ、行きましょう、兄様」
 香姫さまはくったくなくにこりと微笑まれると、月影の中将の手を引き、陽楊さま方のもとへと歩いていかれます。
 その後を、苦笑いを浮かべつつ、月影の中将が素直に引かれて歩いていかれます。


「陽楊さま。兄様を連れてきたわ」
 そうおっしゃり、月明かりがさす簀子へと、香姫さまがひょいっとお顔をのぞかされました。
 陽楊さまは、香姫さまのお姿を見つけると、嬉しそうに微笑み、ご自分の横に座るように促されます。
 もういちいち陽楊さまがそのようなことをされなくても、香姫さまは陽楊さまの隣へ寄り添うように座られるのは、誰が見ても明らかでございます。だけど陽楊さまは、あえて念を押すようにそうされるのです。
 香姫さまはすたすたと歩き、陽楊さまの横へちょこんと座られました。
 香姫さまと月影の中将が来られた時にはもう、御酒の用意がされていて、いつ飲みはじめてもよい状態でございました。
 葵瑛さまなどは、待ちきれなかったのか、すでに杯に御酒を注ぎ、ちびちびと飲みはじめておられました。
 まったくもう、葵瑛さまってば、辛抱ができないのですから。
 月影の中将は、そのような葵瑛さまにちょいちょいと手招きされ、葵瑛さまと明水さまの間へと座らされました。
 ――って、まったく、月影の中将が、葵瑛さまと明水さまお二人の間に挟まれ、戸惑われることを楽しみにしているのでございますね、葵瑛さまってば。
 とうとう香姫さまの兄上、月影の中将までも、葵瑛さまのおもちゃにされはじめてしまったようでございます。
「葵瑛さま。あまり兄様をいじめないでよ。兄様ってば、そう見えて、結構神経細いのだから」
 扇でずびしっと葵瑛さまを指し、香姫さまはきっぱりとそうおっしゃいました。
 もちろん、葵瑛さまは香姫さまのお言葉を聞き、またよからぬことを企んでしまわれたのか、にた〜りと微笑まれます。
 当の月影の中将は、「お前はまた、宮様に……」と言わんばかりに、ぎろりと香姫さまをにらみつけられました。
 しかし、香姫さまはそのようなことは気にもとめず、ずいっと身を乗り出し、月影の中将に杯を手渡されます。
「それと……。はい、兄様。兄様は、今日は白湯ね。もうお酒は飲んじゃだめよ」
 そして、ととととと、月影の中将の杯に白湯を注がれました。
 ――たしか香姫さまってば、一緒に御酒を飲みましょうと言って、月影の中将をお誘いになられたはずですのに、いざその時となり白湯とは……。
 これはまたむごい仕打ちをされるものです。
 しかし、月影の中将はまったく嫌がる様子もなく、平然としておられました。
 もちろん、月影の中将にもわかっておられたのでございます。
 ご自分が、御酒を飲むとよからぬことを話し出すということと、そして今は、いくら東宮に誘われたからといっても、お役目中であるということを。
 まったく、本当、どこのどなたかと違って、真面目な方でございます。
「では、香子も白湯でいいね」
 陽楊さまはそうおっしゃり、ひょいっと香姫さまを抱き寄せ、白湯を注いだ杯を持たされました。
 香姫さまは恨めしそうにじと〜りと陽楊さまを見つめ、そして大きくため息をつかれます。
「ええ、もちろんよ。――このような危ない人の前で、酔っ払うわけにいかないものね」
 そうおっしゃり、ぎろりと葵瑛さまをにらみつけられます。
 すると葵瑛さまは、おやおやとお口を動かし、また一杯、御酒をのどへと流し込まれました。
「では、わたしも白湯で……」
 そうおっしゃったのは、明水さまでございます。
「あら? 明水さまはおのみになってもよろしいのではなくて?」
 香姫さまが、不思議そうに明水さまにうかがわれます。
 すると明水さまは、少し困ったように眉をひそめられました。
「ええ……。ですが、今宵はやめておきます。――今宵、こちらへうかがったのは、不吉な予感がしたからでもありますので……」
 そして、そのようなとんでもないことをおっしゃいます。
 その瞬間、陽楊さまと葵瑛さま、そして月影の中将の気が、ぴりりと強張りました。
「……そういうことなのだよ、香子」
 そして、陽楊さまはぎゅっと香姫さまを抱きしめ、申し訳なさそうにささやかれます。
 首筋に、暖かな陽楊さまの吐息がかかり、香姫さまはどきりとされてしまいました。
 御酒など召し上がられてはいないのに、頬が上気しております。
 心臓はいつもよりはやく脈打ち、血も沸き立つようでございます。
 おやおや、香姫さまってば……。どうやら、陽楊さまに抱かれ、どっきどきのようでございますね?
「あら、そ」
 香姫さまは平静を装いそうおっしゃると、べりっと陽楊さまを引き離してしまわれました。
 そして、ばばっと手で簀子をかき、月影の中将へとすりより、その背に隠れてしまわれます。
 そのようないつもとは違う香姫さまの態度に、葵瑛さまと月影の中将は楽しそうにくすくすと笑い、明水さまは香姫さまの行動の意味がわかっておられず、疑問符を頭のまわりに飛び散らせ、そして陽楊さまに至っては、がくっと肩を落とされ、月影の中将の背に隠れる香姫さまを恨めしそうに見つめておられます。
 陽楊さまに見つめられれば見つめられるほど、香姫さまは月影の中将の背へと隠れてしまわれます。
 仕舞いには、完全に香姫さまのお姿は隠されてしまいました。
「くすくす。陽楊、それくらいにして。――今夜の本題に入ろうではないか。せっかく、中将もこうして呼んだのだからね」
 葵瑛さまは、簀子の上にことんと杯を置かれます。
 するとそれに合わせ、陽楊さまも明水さまも、月影の中将も杯を簀子の上へ置かれました。
 香姫さまもその普通ではない真剣な雰囲気に、月影の中将と葵瑛さまの間にすっと姿を現され、そこに落ち着かれました。
「実は、本日の昼頃、誦経(ずきょう)の途中、よからぬ気を感じたのです。――今までにない禍々しいものでございました。それは、今も……姫君にまとわりついております」
 険しい表情で、苦しそうに明水さまがおっしゃいました。
 それを聞いた瞬間、香姫さまの眉がぴくりと動きました。
 にらみつけるように、真剣な眼差しを明水さまへ向けられます。
「……どういうこと?」
「わかりません。急に、なのです。昼頃……急に……。ですから、心配になり、こうして参内してきたのですが……」
 明水さまは、香姫さまにどう答えてさしあげればよいのかわからず、袖の内でぎゅっと伽羅の数珠を握り締められました。
 そして、はっと気づいたようにその数珠を取り出し、結び目を解き、数珠玉一粒を香姫さまに差し出されます。
「これを……。持っていないよりかはいくらかましでしょう。多少なりとは魔よけになるでしょう」
 優しげに、にこっと微笑まれました。
 香姫さまは、明水さまのお顔と、明水さまの右手のてのひらにある一粒の数珠を交互に見比べ、すっと手をのばされました。
「ありがとう」
 数珠玉を受け取り、柔らかく微笑まれます。
「香子。では、それはなくさないように、大切に持っておかなければね?」
 月影の中将が、数珠玉を持った香姫さまの手にそっと触れられました。
「ええ」
 香姫さまはそうお答えになると、袖のうちよりにおい袋をすっと取り出し、その中に数珠一粒をしまわれました。
「おや……。そのにおい袋は……」
 葵瑛さまは感心したように、愉快そうに、まじまじと香姫さまの持つにおい袋を観察されます。
 香姫さまは、葵瑛さまのその態度に多少むかっとこられましたが、いちいち相手にしていても馬鹿みたいなので、さらりとかわしてしまわれます。
「ええ。陽楊さまの香りよ? それがどうかして?」
 そして得意げに、それが当たり前のようにふんぞり返られます。
 そのような香姫さまを見て、もちろん葵瑛さまは爆笑してしまわれました。
 陽楊さまはというと……お口元を手で覆い、真っ赤になって照れておられます。
 香姫さまってば、衣に焚き染める香は、さすがにもうご自分のものに戻されておられましたが、実は隠し持っていたのでございますね。におい袋につめて、陽楊さまの香りを。
 それに今までご一緒にいて気づかなかった陽楊さまも、実はかなり鈍いのでは……?と言いたいところでございますが、陽楊さまはあまりにも自然すぎて、そしてなれすぎていて、もうそれに気づくことができなくなっていたのでございましょう。
 香姫さまから時折香る、陽楊さまの香りに。
 そして、葵瑛さまや月影の中将方は気づいておられましたが、あえて今までそれに触れなかったのでございましょう。


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:03/10/14