花ぞさかりに
(十四)

「ねえ、先ほどのお話だけれど、昼頃といえば、わたし、ちょうどその頃、露の宮さまとお話ししていたわ」
 におい袋をしまわれながら、ふと思い出したように香姫さまがおっしゃいました。
 すると、陽楊さま、葵瑛さま、月影の中将の険しい視線が香姫さまに注がれます。
「な、なによ!?」
 それがあまりにも険しく、まるで非難するようであったので、香姫さまは少しむっとしてしまわれました。
 ばつが悪そうに、陽楊さまだけをにらみつけられます。
「香子……。あなたはまた……。――たしか、露の宮は断ったといったよね!?」
 身を乗り出し、責めるように、陽楊さまが香姫さまをにらみつけられます。
「も、もちろんよ! お話しをした……といっても、少しよ。それに、それは笹舟の君のお話を……」
 香姫さまはそこまで言いかけると、黙ってしまわれました。
 同時に、ぽつりと、目から一滴の涙が零れ落ちました。
「こ、香子!?」
 香姫さまのその涙を見て、陽楊さまも葵瑛さまも、月影の中将も、明水さまもぎょっとされてしまいました。
 何しろ、あの都に名をとどろかせる気が強い左大臣家の香姫が、よりにもよって涙を流されているのでございますから。
 しかし……陽楊さまには、それだけではございませんでした。
 陽楊さまの心の内では、何かひっかかるもやのような……そのような感情がうごめいておりました。
 香姫さまのお口から、またあの名、笹舟の君の名が……。
「あのね……。これは違うの。思わず……。だって……だって、今日、笹舟の君にやっと会えたのですもの!」
 涙をぬぐいながら、嬉しそうに叫ばれます。
 その瞬間、その場の空気が、どしんと重みを帯びました。
 その場にいらした誰もが、それを感じておられました。
 ただ香姫さまだけがそれには気づかれず、一人でうかれているご様子です。
 特に、陽楊さまに至っては、今にも気を失いそうなほど衝撃を受けられているようでございます。
 目は、どこかうつろで、焦点の合っていない、鈍い光を発しております。
「笹舟の君と……再会できたのかい?」
 険しい顔で、葵瑛さまが香姫さまにたずねられます。
「ええ。昼間……。露の宮さまに迫られ――」
 香姫さまはそこまで言うと、慌てて両手でお口をがばっとふさがれました。
 しかし、その時にはすでに遅かったのでございます。
 簀子に置いた杯や銚子を蹴散らし、陽楊さまが香姫さまに詰め寄っておられました。
「迫られ……どうしたのだ!?」
 ぎりりと、香姫さまの腕を握られる陽楊さまの手に力がこめられます。
 香姫さまは、いたっ……と小さくつぶやかれましたが、陽楊さまの手をふりはらわれる素振りはございません。そして、陽楊さまも力をゆるめようとはされません。
 香姫さまにも、わかってしまったのでしょう。今の陽楊さまのお気持ちが。そして、言ってはならないことを口にしてしまわれたことを。
「……迫られた……のだけれど、すぐに笹舟の君が来て助けてくれたの。もちろん、事なきを得たわ。そして、露の宮さまはそのまま去っていったわ……」
 もごもごと口ごもるように、香姫さまは陽楊さまから目線をそらし、つぶやかれました。
 そのお言葉を聞き、陽楊さまはひとまずは安心したのか、香姫さまの腕から手をすっと放されます。
 香姫さまは、陽楊さまに握られていたところを、すりすりとさすられます。
 陽楊さまはまた、ご自分の場所に戻り、どかっと腰をおろされました。
 そして、おもしろくなさそうにふてくされ、じっと月をにらみつけられます。
 その横で、葵瑛さまは気にしていないとでもいうかのように、さらりと香姫さまに話かけられました。
「それで、香姫殿。もちろん聞いたのだよね? その笹舟の君とやらの本名なり、役職なり……」
「え……?」
 香姫さまは、たら〜りと冷や汗を流しながら、あちゃあ〜と言わんばかりのお顔で、哀願するように葵瑛さまを見つめられます。
 すると葵瑛さまは、頭を抱え、ふらりとよろけられてしまいました。
「どうしてあなたは、肝心なことを……。普段のあなたからは、想像もできない失態ですね!?」
 香姫さまを責めるように、じろりと横目でにらまれます。
 香姫さまは、慌てて、葵瑛さまの束帯の袖を握り締め、詰め寄られます。
「だ、だって!! あの時は、再会できたことが嬉しくて、それどころではなかったのですもの!!」
 そして、そうきっぱりと叫ばれました。
 その瞬間、ばたんと、陽楊さまが簀子に突っ伏されてしまいました。
 あ〜あ。香姫さま、知らないですよ。陽楊さまに、再起不能なほどの衝撃をお与えになられて……。
 いつもどちらかといえば冷静な香姫さまから冷静さを奪ってしまうほど、香姫さまの心を乱す大切な方が陽楊さまの他にいらっしゃるなどと、そのような事実を陽楊さまにつきつけられては……。
 この後、陽楊さまが完全にすねてしまわれ、月を肴に御酒……どころではなくなってしまったことは、申し上げるまでもないでしょう。


 陽楊さまが、香姫さまの発言ですねてしまわれ、御酒の席はついにはお開きになりました。
 ひとまずは、今宵の本題……触れるべきところには触れたので、それでも別にかまわないとばかりに、葵瑛さまと月影の中将はその場を後にされます。
 月影の中将はもといた所へ戻り宿直を、葵瑛さまはご自分のお邸へと帰っていこうとされます。
「では、わたしはこれで……」
 そのようにおっしゃり、立ち上がった葵瑛さまの束帯の裾を、きゅっと香姫さまが握られました。
 それに気づいた葵瑛さまは、無表情で香姫さまをじっと見下ろされます。
 葵瑛さまが見下ろされたそこでは、香姫さまが真剣な眼差しで見つめておられました。
 そこで葵瑛さまも、これは冗談で返してはいけないと思われたらしく、香姫さまの手をすっととられます。
「陽楊。少し、香姫殿をお借りするよ。……そうだね〜、心配だろうから、ついでに中将も借りていくよ」
 葵瑛さまはそうおっしゃると、香姫さまを立たせ、月影の中将に目配せをされます。
 陽楊さまは相変わらずふてくされておられるようで、高欄にもたれかかり、むすっと月を眺めておられます。
「ああ。もう、腑抜けは放っておきましょう」
 そのような暴言をはき、葵瑛さまは香姫さまの手を引き、すたすたと簀子を歩いていかれます。
 その後を、慌てて月影の中将が追いかけました。
 そして、もう陽楊さまのお姿が見えなくなった頃、ようやく葵瑛さまは足をとめられました。
 香姫さまの手を放されます。
「それで……? 香姫殿。わたしに、何か言いたいことがあるのでしょう?」
 とんと柱に背をもたれさせ、伏目がちに、流すような視線を香姫さまへ向けられます。
 そのようないつもとは違う、どちらかというと真面目で、さらには香姫さまを非難するような葵瑛さまの態度に、香姫さまは一瞬ひるんでしまわれました。
 葵瑛さまには、全て……見透かされている。
 香姫さまの頭にそのような思いがよぎり、ずきんと胸が痛みました。
 これから葵瑛さまにおっしゃろうとしていることは、それは――
「ええ……」
 香姫さまは、ついには覚悟を決められたようで、冷ややかな視線をむける葵瑛さまをきっと見つめられました。
 そして、葵瑛さまの束帯の袖をきゅっと握られます。
 それと同時に体を寄せ、真下から葵瑛さまを見上げられます。
「お願い……。笹舟の君……笹舟の君を探して欲しいの。――わたしには、笹舟の君は、貴族の若君で、かえでの若君と呼ばれていたことくらいしかわからないの……」
 切羽詰ったような声色と表情で、香姫さまは葵瑛さまを見つめておられます。
 そのような香姫さまのお姿を、葵瑛さまは視界のすみでとらえ、顔をしかめられました。
 もちろん、香姫さまも葵瑛さまの表情に気づいておられましたが、そのようなものに今はいちいち反応などしていられないと、さらに険しいお顔で見つめられます。
 そのような香姫さまのお姿を見て、葵瑛さまはとうとうおれてしまわれました。
 ふうっと、細く小さなため息をもらされます。
「……いいでしょう」
 渋々、葵瑛さまが承諾すると、香姫さまは葵瑛さまの束帯の袖を握ったまま、その場にずるずるとくずおれてしまわれました。
 そして、腰が抜けたように座り込まれます。
「あはっ……。よかった……。ありがとう、葵瑛さま……」
 呆けたような表情でそうおっしゃったかと思うと、またぼろぼろと目から涙を流し、そのまま両手でお顔を覆い泣き崩れてしまわれました。
 そのようないつもとは違うどこか弱々しい香姫さまのお姿に、葵瑛さまは不安を感じ、とても切なそうに、苦しそうに、ご自分の足元ですがるように泣く香姫さまを見ておられました。
 その場にいた月影の中将も、どうすることもできず、香姫さまからふっと視線をそらされてしまいました。
 月影の中将もまた、とてもお辛そうにそこに立っておられます。
 ぎゅっと、両手を握り締め。
 そのような、普通でないお姿で懇願される香姫さまを、もちろん、ふてくされた陽楊さまが知るよしもございません。
 今もって、哀愁漂うそのお姿で、ぼんやりと月を眺めておられます。
 その横では、明水さまが、陽楊さまにお声をかけることもできず、静かに瞑想されておりました。


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update:03/10/14