花ぞさかりに
(十五)

「本日は、東宮のお心とは相反し、憎らしいほどによいお天気ですね」
 脇息にもたれかかり、ぼんやりと、どこを見るでもなく視線を泳がせている陽楊さまに、葵瑛さまが見下ろすようにお声をかけられました。
 しかし、陽楊さまは一向に反応をしめそうとはされません。
 葵瑛さまのお言葉通り、本日はまことよいお天気でございます。
 ぽかぽかとよく晴れた、小春日和。
 どんよりよどんだ、今の陽楊さまのお天気とは、似ても似つきません。
 葵瑛さまは、やれやれとばかりに少しだるそうに、ぼんやりと宙を眺め、焦点を定かにしない陽楊さまの目の前に腰を下ろされました。
 そして、試すそうに、聞こえよがしに、つぶやかれます。
「そういえば……。昨夜、香姫殿が、わたしに頼みごとをしてきましたよ」
 葵瑛さまのそのお言葉に、陽楊さまはようやく、ぴくりと少し反応を見せられました。
 その反応をみとめた葵瑛さまは、にやりとお口元を少し動かされます。
 しかし、相変わらず、独り言のようにつぶやかれます。
「どうやら、香姫殿は、本気で笹舟の君とやらを探すおつもりらしいね〜」
 葵瑛さまがそうおっしゃられた瞬間、ぴりりと陽楊さまのまわりの気配がこわばったような気がいたしました。
 いえ、気がしたのではなく、明らかに陽楊さまのまわりの空気はかわっておりました。
 今にも雷が落ちそうな、そのようなぴりぴりした空気をかもしだされております。
 このような単純明快な反応をされるとは、さすがに葵瑛さまも思ってはおられなかったようで、少し驚いた様子でございます。
「……わたしは、不安なのだよ。葵瑛」
 葵瑛さまの驚きにさらに追い討ちをかけるように、陽楊さまは伏目がちにかすれた声でつぶやかれました。
 そして、ぎゅっと扇を握り締められます。
 扇は、みしみしと、奇妙な音をさせていました。
 葵瑛さまの表情が、瞬時に曇りました。
 どうやら、葵瑛さまにも、現在、陽楊さまが抱えておられる感情が伝わってきたようでございます。
 伝わってくるなという方が無理かもしれません。陽楊さまは、明らかに底知れぬ怒りをはらんでおられるのですから。
「……不安……とは?」
 しかし葵瑛さまは、あくまで平静を装い、陽楊さまに聞き返されます。
 すると、陽楊さまは、がばっと身を乗り出され、床に爪を突き立てられます。
 ぎりぎりと気味の悪い音がします。
「この不安は、香子がわたしよりも笹舟の君を愛するという不安ではない。香子はあの通り頑固だから、何がなんでも、意地でもわたしを愛し続けるだろう」
 陽楊さまがそうおっしゃられた瞬間、葵瑛さまの表情が興ざめしたものとなりました。
 結局、またのろけですか……?と、陽楊さまを非難するような表情でもありました。
 そして、もうまともにかまうのが馬鹿らしいとばかりに、片膝をつき立ち上がろうとされます。
「しかし、同時に、情にもろいところもある。笹舟の君が、よりにもよって、香子の命の恩人だとは……。そのような笹舟の君に、もし間違って思いでも告げられようものなら、いかに香子とて……。いや、間違いではないのだよ。きっとこれは……」
 続けられた陽楊さまのこのお言葉に、葵瑛さまは思いなおし、また陽楊さまの前に腰をおろされます。
 そして、迫るような、すがるような陽楊さまのそのお姿を、辛そうに見つめられます。
 葵瑛さまの膝の上に置かれた葵瑛さまの手に、そっと陽楊さまの手がふれました。
 そのままその手は葵瑛さまの手をつかみ、するりと上へ移動し、腕を力強く握られました。
 あまりにも力強く握られたものですから、葵瑛さまは一瞬、痛さに顔をゆがめられました。
 しかし、陽楊さまのその手を振り払おうとはされません。
 陽楊さまのなされるがままになっておられます。
 葵瑛さまには、今の陽楊さまのお苦しみようがわかってしまうようでございます。
 このように取り乱された陽楊さまのお姿を、葵瑛さまはこれまで見られたことがございません。
 それほどまでに、この笹舟の君の存在は、陽楊さまを追い込んでいるのでございましょう。
「わたしは、そこが怖いのだよ。恐ろしいのだよ、葵瑛! 香子は……香子は……。――そして、そうなった時、香子の苦しみはいかばかりか……」
 陽楊さまは、葵瑛さまの腕をつかまれたまま、そのまま葵瑛さまの膝へとお顔をおしつけてしまわれました。
 葵瑛さまの膝へお顔を沈められた陽楊さまのお体は、明らかに震えております。
 葵瑛さまは、どうすることもできず、ただじっと、そのような陽楊さまを見下ろされております。
「陽楊……」
 そして、すっと、震える陽楊さまの肩に手を置かれました。
 普段、冗談とも思える陽楊さまのあのいちゃつきぶりは、限りなく本気だったようでございます。
 香姫さまを愛している。そして、香姫さまの愛も信じている。
 しかし、信じているからこそ、不安になってしまわれるのでございましょう。
 香姫さまのことをわかっておられるから、不安になってしまわれるのでございましょう。
 命の恩人。
 その言葉は、香姫さまにはとても大きな言葉です。
 香姫さまをとらえるには十分な言葉です。
 その言葉にとらえられた香姫さまは、あの頑固なまでの一途さで、どこまでも突き進んでしまわれるでしょう。
 香姫さまというお方は、少し目を放した隙に、一人、大空へ飛び立ってしまう鳥のようなお方なのです。
 陽楊さまは、常々、そのような不安にかられていたのでございましょう。
 だから、いつもその存在をたしかめたくて、香姫さまを抱き寄せられていた……。
 東宮というお立場の重責にも負けず、いつも堂々と振る舞われ、自身たっぷりに存在を見せつけておられる陽楊さまですが、実は、その心の内には、いつも不安を抱えておられるのでしょう。そのお心は、壊れやすくもろいものなのでしょう。
 その愛が大きければ大きいほど、それだけ心はもろくなってしまいます。
 たった一つの大切なものを見つけてしまった人は、最強になれると同時に、限りなくはかなくなってしまうのかもしれません。


 笹舟の君との再会を果たされて以来、香姫さまに近づこうとしていた露の宮は、まったく香姫さまの前に姿を現さなくなっておられました。
 よほど衝撃的だったのでしょう。
 香姫さまのお心をつかむ筒井筒の君。その君を見た時の、なんとも嬉しそうな香姫さまのお顔。
 そのようなものを目の当たりにされては、もう露の宮には、一縷の望みすら残されていないと思われることでしょう。
 露の宮は、失恋されてしまったのです。
 何事にもつつましやかで誠実な露の宮でございますから、まさか恋人のいる女性にそれ以上詰め寄ったりするなど、そのような浅ましいことはされません。
 あのようにおっしゃられておりましたけれど……。
 ですから、すっぱり身をひいてしまわれたということなのでしょう。
 それもあり、香姫さまのまわりには、刺激になるようなこともなく、あのおてんば姫がそれで満足するはずもなく、そろそろ暇を持て余しはじめていたころでございました。
 ただ一つ、気になることがありましたので、恐らく、それをも一時忘れたかったのでございましょう。
 お心を占めるもやもやとした思いから、一時開放されたかったことも重なったのでございましょう。
 小憎らしいにっこりとした微笑みを浮かべる香姫さまのお姿が、陽楊さまの目の前にございました。
 陽楊さまが、葵瑛さまにその心の内を吐露された翌日、何事もなかったようにさっぱりとしたお顔で、さらにはそのような罪深い笑顔を浮かべられる香姫さまのお姿が、陽楊さまの目の前にございます。
「ね〜え、陽楊さま。わたし、もみじ狩りへ行きたいな〜」
 体をくねらせ、上目遣いに陽楊さまを見つめられます。
「……」
 陽楊さまは目をすわらせ、香姫さまに冷ややかな視線を注がれております。
 それに気づかれた香姫さまは、少しむっとしたお顔を見せられたかと思うと、にたりと微笑み、すすすと陽楊さまに擦り寄り、ちょこんとお膝の上に座られてしまいました。
 そして、陽楊さまの直衣の襟元をきゅっとつかみ、胸に顔をすり寄せられます。
「ねえ、陽楊さま。お願い。わたし、陽楊さまと一緒にもみじ狩りへいきたいの〜」
 普段の陽楊さまなら、香姫さまにここまでされては鼻血ものでございますが、今は、香姫さまが迫れば迫るほど、陽楊さまのお顔は険しくゆがんでいきます。
 ついに、これでもかというほど大きなため息をついてしまわれました。
「香子。いい加減にしなさい。ただ退屈しているだけだろう。もみじ狩りは口実!」
 きっぱりとそうおっしゃられると、ぐいっと香姫さまのお体を引き離してしまわれます。
 あのいつも隙をみては香姫さまを抱き寄せられている陽楊さまからは、考えられない行動でございます。
「ひどい! ……まあ、たしかに退屈しているけれど、だけど……別に口実などではないわ。宇治にいた時から考えていたことよ。陽楊さまともみじ狩りへ行きたいと……」
 香姫さまは、じわりと目に涙をためられ、責めるように陽楊さまを見つめられます。
 その香姫さまのお姿がまた、陽楊さまの目にはとてもいじらしく愛らしく映ってしまうものですから、陽楊さまのお心は嵐の時の大海の波のように揺れ動きます。
 実は陽楊さま、本当は、ものすごくものすごーく、香姫さまとご一緒にもみじ狩りなどをなさりたいのですが、そこはぐっとこらえなければならなかったのです。
 何しろ、香姫さまがこちら東宮御所に身を寄せておられるのは、香姫さまの御身に危険が迫っているから。
 そのような中、ほいほいと危険がいっぱいの外へ連れ出すなど、もってのほかでございます。
「じゃあ、いいわよ。葵瑛さまと二人きりでいっちゃうから!!」
 香姫さまはがばっと立ち上がると、びしっと陽楊さまを指差し、憎らしそうににらみつけられます。
「ちょっと待て、香子! 葵瑛と二人きりとは一体……!?」
 陽楊さまも慌てて立ち上がろうと、膝をつかれました。
 その時、くすくすくすと、あの嫌味な笑い声が陽楊さまのお耳に入ってきました。
「言葉通りですよ。先ほどね、香姫殿にお願いされましてね〜。――どうもわたしは、こと香姫殿のお願いには弱いらしくて」
 扇で口元を隠し、几帳の陰から、意地悪な目でにこりと微笑む葵瑛さまのお姿が現れました。
 そして、一歩二歩と、香姫さまと陽楊さまへと歩いてこられます。
「葵瑛!! お前はまた……!!」
 陽楊さまはばっと立ち上がり、つかつかと葵瑛さまに詰め寄られます。
 それから、葵瑛さまの胸倉をぐいっとつかみ上げ、ぎろりとにらみつけられました。
「だって仕方がないでしょう。香姫殿もそろそろ限界のご様子。このままおさえつけていては、あの香姫殿ですよ? もっと悪い事態を招くに決まっているのですから」
 相変わらず扇で口元を隠し、胸倉をつかみ上げられながらも、優雅に振る舞ってみせられます。
「決まっているとは、どういうことよ!?」
 今度は陽楊さまだけでなく、香姫さまも歩み寄られ、だんと葵瑛さまの左足を踏みつけられてしまいました。
 その瞬間、もちろん葵瑛さまのお顔は苦痛にゆがみます。
 しかし、やはりその優雅さを失われません。
 そのような葵瑛さまの態度は、また香姫さまと陽楊さまの怒りをあおるのです。
「ねえ、陽楊さま。やっちゃおうかしら? 今度こそ、深泥ヶ池へ沈めちゃいたいわ」
「ああ。そうしよう」
 そうおっしゃり、香姫さまと陽楊さまがにやりと微笑み合われた時でございました。
「もう!! 何をなさっているのですか! あなた方は!!」
 きんきんと甲高い、怒りに満ちた声がふりそぞぎました。
 その声を発したのは、棗でした。
 先ほど葵瑛さまが現れた几帳の前に、仁王立ちでおりました。
 このように怒った棗は、今まで、陽楊さまも葵瑛さまも、香姫さまでさえも見られたことがございません。
「あなた方は、今の状況がおわかりなのですか!? そのようなことをして遊んでいる場合ではないのですよ!?」
 棗は、真っ赤な顔を、今度は真っ青に染め上げてしまいました。
 そのような棗の様子を不思議に思い、香姫さまも陽楊さまも葵瑛さまも、あっさりと遊ぶのをやめてしまわれました。
 そうです。これは、このお三方の触れ合いの一つだったのでございます。
 まったく、とんだ触れ合いでございます。
「今の状況って……棗? 別にど――」
 香姫さまは、棗を馬鹿にするように見て、そうおっしゃろうとされましたが、そこで言葉をとめてしまわれました。
 そして、次の瞬間、見事な三重奏が披露されます。
「お、主上〜!?」


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update:03/10/17