花ぞさかりに
(十八)

 日は西の山すそに隠れ、薄暗くなっておりました。
 山の中では、日が暮れるのも早いようです。
 辺りでは、秋の虫の声やら、風に揺られた木の葉の音が、不気味に響いております。
 香姫さまは肩を抱き、ぶるっと身震いされました。
 あのようなめにあったというのに、果敢にも、涙一つこぼしておられません。
 普通の姫君なら、涙以前に、そのままそこではかなく気を失われているところでございますが、そこは香姫さま、そのようなことは天地がひっくり返ってもありません。
 そのような香姫さまとて、さすがに涙の一つも流そうものだろうと思っておりましたが、見事、期待は裏切られてしまったようでございます。
 しかしやはり、不安は隠しきれないようです。
 今にも泣き出してしまいそうな、心もとないお姿でございます。
 一歩一歩、危なげな足取りで、でこぼこの山道を下っていかれます。
 後から追いかけてくるはずの陽楊さま方のお姿もなく、そして次第に道はなくなっていきます。
 どうやら、道に迷われてしまったようです。
「う……」
 そして、とうとう、そのような辛そうな、苦しそうなお声をもらされてしまいました。
 ばっとしゃがみこみ、お顔を両手で覆われてしまいました。
 そして、体を震わせられます。
 今までこらえていたものが、一気にこみ上げてこられたようです。
 さすがに、もう限界にきていたのでしょう。
 不安で不安で仕方なくても、必死にそれをこらえておられたのです。
 香姫さまとて、やはり普通の姫君。誰もいない山の中で、ましてや先ほど、あのような恐ろしいことがあったばかりで、道に迷われてしまっては……。
 絶望を感じずにはいられません。
 このままこの山の中で、誰にもみとられず、逝ってしまうのでしょうか……?
 声を殺し泣き、ふるふる震える香姫さまの肩に、ふいに、そっと何か柔らかいものが触れました。
「もう大丈夫。安心して」
 そして、そのような優しい声が聞こえてきます。
 香姫さまは、その声がかかると同時に、ばっとお顔を上げられました。
 期待に満ちた、嬉しそうなお顔です。
 やっと……やっと、陽楊さまが追いかけてきてくれて、そして見つけてくれたのね!と、とても嬉しそうなお顔でしたが、瞬時にそれは消えてなくなりました。
「笹……舟の……君?」
 表情のないそのお顔で、香姫さまの目の前にあるお顔を見つめられます。
 香姫さまのその言葉通り、香姫さまの目の前にあったのは、待ち望んでいた陽楊さまのお顔ではなく、優しく微笑む笹舟の君のお顔でした。
 それでも、今の香姫さまには、十分だったのです。
 誰か、人が……しかも知っている人が、理由などどうでもいい、今目の前に現れたのですから。
 それで十分、気持ちを落ち着ける方向へと向かっていけます。
「そうだよ。もう大丈夫。わたしが、ちゃんと都まで連れて行ってあげる。――ひとまずは、日が完全に暮れる前に里へおりよう」
 笹舟の君はそう言ったかと思うと、ひょいっと香姫さまを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめました。
 その瞬間、香姫さまの心の内で張り詰めていた緊張がぷつりと切れたのか、ぼろぼろと泣きだしてしまわれました。
 そして、すがるように、笹舟の君に抱きつかれます。
 ようやく、ようやく、不安な中、手に入れた人のぬくもりでした。
 笹舟の君は、そのような香姫さまをあやすように、ぽんぽんと背を軽くなでながら、そのまま茂みの中へと入っていきます。
 どうして、このように時機よく、この時この場所に笹舟の君が現れたのかなど、香姫さまには考える余裕などございませんでした。
 今は、頼れるのは、笹舟の君、ただお一人でございます。


 茂みの中を行き、そしてその茂みからよやく抜け出たと思った時には、もうすっかり日が沈んでおりました。
 空には月もなく、ただ星々が輝いているだけでございます。
 南の空に、一等赤く輝く星が、嘲るかのように香姫さまと笹舟の君の姿を照らしておりました。
 茂みから抜け出たそこには、里の明かりがともっておりました。
 どうやら、ちょうどよい具合に、里へ下りてこられたようでございます。
 今もって香姫さまは、笹舟の君に抱えられたままでございます。
 香姫さまも悪いと思われ、自分の足で歩くとおっしゃられましたが、笹舟の君は頑としてそれを認めませんでした。
 そして、しばらく歩くと、ようやく人の住む場所へとやってきました。
「……これ以上は、無理だね……」
 ぽつりと、笹舟の君はつぶやきました。
「無理……?」
 香姫さまは、笹舟の君のつぶやきに、首をかしげられます。
 一体、何が無理というのかしら?と、不思議そうにしておられます。
「ああ。もう日もすっかり暮れ、このまま都まで歩いて帰るのは……。たしか、この辺りに、今はもう使われていない庵があったはず。ひとまずはそこへ行き、夜を明かそう」
 笹舟の君は、優しく香姫さまに提案されます。
 しかし香姫さまは、その目でそれを拒否しておられます。
 決してお口には出しておられませんが、香姫さまは、早く、少しでも早く都へ帰りたかったのでございます。
 都へ帰り、陽楊さまのご無事を確認したかったのでございます。
 陽楊さまだけでなく、もちろん、葵瑛さまと棗の無事も……。
 しかし、笹舟の君のおっしゃることにも一理あると、すぐに諦めてしまわれました。
「わかったわ……」
 力なくつぶやかれます。
「大丈夫。朝が来ればすぐにここを立ち、東宮御所へ送りとどけるよ」
 まるで、香姫さまのお気持ち全てを見透かしたかのように、笹舟の君は優しく、だけどどこかはかなげに微笑みます。
 それが、香姫さまにはとても頼りなく見えておりました。
 このまま消えてなくなってしまいそうなほど、はかなく、頼りなげに……。
 そして、香姫さまは気づかれました。もしかして、笹舟の君は、香姫さまのお気持ちだけでなく、香姫さまが今置かれている状況を知っているのではないかと。
 あのような山中に、時機よく現れるわけもなく、そして、何の迷いもなく、香姫さまを東宮御所へ送り届けると言ったこと、それに疑問を持ちはじめておられました。
 しかし、そのような疑問も、この笹舟の君の前では塵に同じです。無意味なものにすぎません。
 香姫さまのお心にずっととどまっている、幼い頃の記憶、笹舟の君を思えば……。

 先ほど、笹舟の君が言った通りすぐに、無人の荒れ果てた庵にたどり着きました。
 そして、中へ入ると、笹舟の君は、香姫さまを下ろし、まずは適当にほこりを払いはじめました。
「いいわ。大丈夫。一夜の雨風をしのぐことさえできれば、それくらい我慢できるわ」
 払っても払ってもほこりを払いきれるわけもないので、香姫さまは、途中で笹舟の君をとめられました。
 ほこりを払う笹舟の君の手に、そっとご自身の手をおかれます。
 すると笹舟の君は、申し訳なさそうに眉をひそめました。
「ありがとう。その気持ちだけで十分。……それになにより、あなたはわたしをここまで連れてきてくれたのですもの……」
 にこりと微笑まれます。
 そのような微笑を向けられ、笹舟の君も困った顔をしてしまいました。
 香姫さまは、思わず、先ほどの言葉のあとに、ある言葉を続けてしまいそうになりました。しかし、それはとっさに言わないことにされました。
 その言葉を言えば、さらに笹舟の君を困らせてしまうのではないかと懸念されたのです。
 その吐き出さず、心の内にとどめられたお言葉とは――

 また、命を救われたわね。

 それでございます。
 お二人の間を隔ててしまうお言葉だと、恐らく、知らぬ間に心のどこかで気づいておられたのでしょう。
 そして、念願かない、笹舟の君と再会することができたにもかかわらず、いまだに、あの時の、香姫さまのお命を救った時のお礼を言わずにいることが、何よりの証拠でしょう。
 そのような言葉を口にしては、もう笹舟の君は、香姫さまからはなれていってしまうのではないかと……。
 わがままかもしれないけれど、香姫さまは、もう少しだけ、せめて入内してしまうまで、懐かしい笹舟の君と一緒にいたかったのでございます。
 そのような言葉、香姫さまと笹舟の君の間には必要のない言葉なのです。
 そして、その言葉は、笹舟の君にとって、何よりもむごい言葉になってしまうでしょう。
 そのことに、香姫さまは、知らぬ間に気づいておられたようです。
 座れそうな場所を探し、お二人、そこへ腰を下ろされました。
 寄り添うように座られます。
 笹舟の君の左腕に、ふるふると、小刻みの振動が伝わってきます。
「どうしたの? 寒いの……?」
 心配そう香姫さまのお顔をのぞきます。
 するとそこでは、香姫さまが、申し訳なさそうな表情を浮かべておりました。
 笹舟の君は、それでわかってしまいました。香姫さまは遠慮をして、素直に寒いと言えないことを。
 それを確認すると、笹舟の君は、いじらしそうにふわっと微笑みました。
 そして、すっと香姫さまを抱き寄せます。
「では……」
 香姫さまを自分の膝の上にのせ、後ろから抱え込むように抱きしめました。
 遠慮をして、すぐにお体をはなそうとされましたが、それを笹舟の君は許そうといたしません。
 そこで、とうとう諦めてしまい、そのまま笹舟の君の胸へとお体を預けられます。
 安心したような、やすらかなお顔でした。
 とくんとくんと規則正しく打つ胸の音が、香姫さまの耳に、肌に、心地よいぬくもりを伝えてきます。
 それからまもなく、よほどお疲れでしたのでしょう、すうすうと寝息を立て、すべてを笹舟の君にゆだねるように眠ってしまわれました。
 笹舟の君の前では、香姫さまは全ての邪念から解き放たれ、生まれたばかりのような無垢な少女へと戻っていかれるようです。
 かつて、宇治の川原で笹舟の君とともに過ごした時のような、無邪気な香姫さまへと。幼い心へと。
 それは、笹舟の君と再会した時より、香姫さまご自身もどことなく気づかれていたことでございましょう。
 そのような香姫さまを、愛しそうに、笹舟の君は見つめておりました。
 ようやく、探していた愛しい姫君を、見つけ出したように。手に入れたように。
 香姫さまを腕に抱いてさえいれば、もう他には何もいらないかのように。それが全てのように。
 ずっとずっと、太陽が東の山すそからまた顔をあらわすまで、ずっと――


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update:03/10/20