花ぞさかりに
(二十)

 そろそろ、しらじらと夜が明けてくる頃でございます。
 左大臣と月影の中将もかけつけておられました。
 あの後すぐ、葵瑛さまから左大臣邸へ使いが行き、この緊急事態をお知らせしたのでございます。
 もちろん、内裏へも連絡が行き、帝も清涼殿で胸を痛めておられました。
 まさか、ご自分が勧められたもみじ狩りによって、このような事態になろうとはと、とても後悔されておられます。
「もう……そろそろ、夜明けですね。――では、わたしは山狩りへでも行って参ります」
 葵瑛さまはそうおっしゃり、鈍い動作で立ち上がられました。
 その動作は、いつも機敏な葵瑛さまの動作にしては、いささか疑問のあるものでございます。
 やはり、葵瑛さまも、心沈んでおられるようで、いつものような動作はできないのでございましょう。
 そのお振る舞いが、葵瑛さまのお心を物語っております。
 すると、葵瑛さまの直衣の裾をぎゅっと握り、月影の中将が訴えるように見上げられます。
「……一緒に、来ますか?」
 そのような月影の中将をじっと見つめられたかと思うと、葵瑛さまはそうつぶやかれました。
 すると月影の中将は、すぐさまこくんとうなずき、立ち上がられます。
 どうやら、月影の中将の無言の訴えが、葵瑛さまに伝わったようです。
 月影の中将も、香姫さまを探しに行きたいと……。ここでじっとなどしておられないと……。
「父上。わたしも行って参ります」
 そして、そう言い残し、葵瑛さまを急かすように、月影の中将は庇を出て行かれました。
 冷たい風が、陽楊さまと左大臣の頬をかすめました。
 その風の冷たさは、まるでこの場の凍てついた空気のようです。
 後に残された陽楊さまと左大臣の間には、重苦しい空気がたちこめております。
 陽楊さまのお苦しみように、左大臣はどうお声をおかけすればよいのかわかりませんでした。
 ちらちらと、何度もうつむく陽楊さまのお顔を盗み見されても、何度か口を開きかけられても、それ以上先へは進めませんでした。
「……左大臣。もしも……もしもだよ。香子にもしものことがあれば、わたしはもう生きてはいけまいよ……」
 まるで独り言をおっしゃられるかのように、陽楊さまが力なくつぶやかれました。
 相変わらず、力なくうつむいておられます。
 今にも消えてしまいそうな、はかなげなお姿でございます。
 陽楊さまのつぶやきを耳にされた瞬間、左大臣は大きな衝撃を受けてしまわれました。
 まさか、香姫さまが、陽楊さまにとってこれほどまでに大きな存在になっていようとは、左大臣には思いもよらなかったのでございます。
 たしかに、陽楊さまが香姫さまをお気に召していらっしゃることは、誰が見ても一目瞭然でございますが、そののろけっぷりも見事でございますが、まさかそれほどまで香姫さまを愛していらっしゃるとは、思っておられなかったようです。
 次の帝となられるそのような尊い方が、まさか一臣下にすぎない左大臣の姫に、これほどまで心をくだいてくださっているとは、左大臣は思ってもおられなかったようです。
 今の陽楊さまのお姿を見ると……それはまるで、片翼を失った小鳥のよう……。自分の一部を失ったよう……。
 左大臣ももちろん、ご自分の姫君でございますから、香姫さまのことを心配されていないわけがございません。
 それでも、葵瑛さまも、月影の中将も左大臣も、気丈に振舞っておられるのに、陽楊さまのこの腑抜けぶりときたら……。
 腑抜けにならずにはいられないそのお気持ちもわからないことはございませんが、仮にも東宮、もっとしっかりしていただかねば困ります。
 しかし、そのようなことも、左大臣には言えませんでした。
 陽楊さまの落ち込まれようは、本当に、もう手のほどこしようがないほどでございましたから。
 そのような陽楊さまと左大臣のお耳に、きょとんとした、緊迫感のかけらもない声が聞こえてまいりました。
「あれ……? 馬鹿宮はどこへ行ったの?」
 陽楊さまも左大臣も、ばっとその声の方へ振り向かれます。
 振り向かれたそこには、そのあまりの勢いに驚き、ぎょっと目をむいた梅若が立っておりました。
「な、何なのだよ。――言っておくけれど、ぼく、まだ何もしていないからね!」
 梅若は、ぎっと陽楊さまと左大臣をにらみつけます。だけど、動揺の色は隠せません。
 それにしても、まだ何もしていない……ということはすなわち、また何かよからぬことを企んでいたということでございましょうか。
「……いや。すまない」
 梅若の憎まれ口にもまともに怒ることもできない陽楊さまに、梅若は怪訝そうな視線を送ります。
「……どうかしたわけ? あんたが何も言い返してこないなんて、気味悪いよ。――まあねえ、師匠が行方不明じゃ、仕方ないだろうけれど?」
 そう言って、梅若は、すとんと陽楊さまの前に腰をおろします。
 そして、困ったように眉を下げ、陽楊さまの両手をとりました。
 梅若にしては珍しく、優しく手をとります。
「師匠のことだから、心配ないよ。それに今、くされ宮が探しに行ったし……。――でね、ぼく。そのボケ宮からの伝言を、あんたに伝えにきたのだよ」
 そう言った梅若は、さすがに今の状況を理解しているのか、どこか優しげでした。
 そして、先ほどの葵瑛さまを探しているような口ぶりは、恐らく……あの場にたちこめていた重苦しい空気を少しでもやわらげようという、梅若なりの心遣いだったようでございます。
 葵瑛さまからの伝言を伝えにきた……その言葉が、暗にそれを語っているでしょう。
「……伝言……?」
 陽楊さまはお顔を上げ、疑わしそうに梅若の顔を見られます。
 それに、梅若は少したじろいでしまいましたが、またすぐにいつもの小憎らしい人を馬鹿にしたような表情に戻ります。
「うん。エロ宮からの伝言。――『例の犬は……朝露の美しい庭の邸へ入って行きました』だって」
 梅若がそう言った瞬間、陽楊さまのお顔は激しくゆがみました。
 そして、ぎりりと梅若の手を握り返します。
「ちょっ……痛いって!! もう!!」
 梅若はばっと陽楊さまの手を振りほどき、手をさすりながら、憎らしそうに陽楊さまをにらみつけます。
 しかし、陽楊さまはそのような梅若など相手にしている暇はないとばかりに、ばっと立ち上がり、左大臣を見つめられました。
 左大臣もまた、険しいお顔で陽楊さまを見ておられます。
 どうやら、お二人の間では、言葉なく、互いに意思の疎通をされておられるようです。
 そして、このうろたえられぶりから……どうやらお二人には、葵瑛さまのそのお言葉だけで、例の犬……刺客を放った人物がわかってしまわれたようです。
「まさか……あの方が……!?」
 意外だと言いたげな、苦々しいお顔を左大臣はされておられます。陽楊さまも同様でございます。
 しかし、梅若だけは、そのようなお二人を険しい顔で見つめ、さらっと言い捨てました。
「別に、意外でも何でもないでしょう? あんな奴」
 そして、ふんと鼻で笑い、すたすたとその場を去って行きました。
 どうやら梅若も、刺客を放った人物を知っていて、さらには、日頃からよくは思っていないようでございます。
 また、梅若も知る……ということは、よほど近しい関係の人物……ということになるのでございましょうか。
 刺客を放った人物とは、陽楊さまにとっても左大臣にとっても、とても意外な人物だったようでございます。
 予想もしていなかった人物なのでございましょう。


 さて、ところはかわり、こちらは北山のふもとにあるとある里でございます。
 昨夜、今にも崩れてしまいそうな庵で、香姫さまと笹舟の君が一夜を明かした里でございます。
 葵瑛さまと月影の中将は、侍たちを引き連れ、そこまでやって来ておられました。
 しかし、そのようなことを、香姫さまがご存知のはずはありません。
 庵ではまだ、香姫さまが眠っておられます。
 朝日が、破れた壁から幾筋も差し込んできているというのに、まだ目を覚まそうとはされません。
 やはり、よほど疲れておられたようでございます。
 昨日、あのようなことがあったので、それは無理からぬことでございますけれど……。
 そのような眠る香姫さまのお耳に、何やらざわざわという騒がしい音が聞こえてまいりました。
 どうやら、この庵の前を、大勢の男たちが通って行っているようでございます。
 そのざわめきに、香姫さまの眠りは邪魔され、ようやく目覚めようとされておられます。
 うっすらと、つむった目に、光が入ってまいります。
「ん……」
 まぶしそうに、ようやく目を開けられました。
 朝のまどろみも堪能することなく気だるそうにお体を起こすと、ゆっくりとまわりを見まわされます。
 そして、何やら、いつもの目覚めとは雰囲気の違う目覚めに、この状況を理解されておられないようで、あれ?と首をかしげておられます。
 次の瞬間、はっと気づかれました。
「そうか……。わたし、昨夜はこの庵で……」
 そうつぶやかれると、今度はきょろきょろと辺りを見まわされます。
 たしかに昨夜、笹舟の君とこの庵に入ったはずですのに、そこに笹舟の君の姿がなかったからでございます。
「笹……舟の君……?」
 とても不安そうに、ぽつりとつぶやかれました。
 しかし、笹舟の君の返事はありません。
 ただ、淋しげに、ぱたぱたと、庵の扉が風に揺られ、小さく、開いたり閉まったりしているだけでございます。
 そして、もうそこに笹舟の君の姿もぬくもりもないことをようやく理解され、淋しそうに、両腕でご自分のお体をぎゅっと抱きしめられます。
「嘘つき……。朝になったら、つれていってくれると言ったじゃない……」
 切なそうに、そうつぶやかれました。
 たしかに昨夜、笹舟の君は、朝になったら香姫さまを東宮御所まで送り届けると約束をしていました。
 しかし、その約束をした笹舟の君の姿がどこにもないのです。
「ばか〜!! どうして、何も言わず消えちゃうのよ!!」
 急に怒りがこみ上げてこられたのか、叫ばれておられました。
 そして、三角に折った足を抱え込み、ぎゅっとそこにお顔を押しつけられます。
 ふるふると、辛そうに、お体は震えております。
 このようなところに一人残されたことも不安ですが、それよりも何よりも、また笹舟の君においていかれた、嘘をつかれたと、そう思うと、辛くて、苦しくて、切なくて仕方がなかったようでございます。
 何とも言いようのない、喪失感、絶望を感じておられました。
 そのような時でございます。きいと、崩れかけた庵の扉が開きました。
 そして、自信はないけれど優しい声が、香姫さまに響いてきました。
「……香姫……殿?」
 ご自分の御名を呼ぶ声を聞かれ、香姫さまはばっとお顔を上げ、扉を凝視されます。
 次の瞬間、香姫さまのお顔は、世界中の幸せを手に入れたようにぱあっとはなやいでおりました。
 とても安心したような、ほっとしたような、今にもその香姫さまの御名を呼んだ人物に飛びついてしまいそうな勢いでございます。
「葵瑛さま!!」
「やはり、香姫殿でしたか。さきほどの雄たけび、そうではないかと……!」
 葵瑛さまは嬉しそうにそうおっしゃりながら、座り込み、安堵の顔で見つめられる香姫さまへ駆け寄られます。
 そして、駆け寄った瞬間、力強く抱きしめられました。
 まるで、香姫さまの存在を確かめるように、嘘ではないというように、このまままた消えてなくならないように。
 もう二度と、この手を放すまいと、力強く抱きしめられます。
 それはさながら……恋人を抱きしめるような――
「よかった……。ご無事で……」
 そして、そうつぶやかれました。
「葵瑛さま……」
 香姫さまは、いつもと違う、どこか取り乱したふうでもある葵瑛さまのそのお姿に、何やら複雑なお気持ちになってしまわれました。
 まさか、香姫さまのために、葵瑛さまがここまでしてくださるとは……取り乱して下さるとはと、申し訳ないような、嬉しいようなお気持ちになられたようです。
 そっと、葵瑛さまの背に両腕をまわされます。
「……ありがとう。探しにきてくれたのね」
 葵瑛さまの耳元で、香姫さまが優しくささやかれました。
 不思議に、この時ばかりは、自然に、葵瑛さまに対しても、優しいお気持ちになれたようでございます。
 葵瑛さまは、複雑そうな笑みを浮かべ、くるりと首だけを後ろへまわされました。
 そして、きりりとした顔つきで命令されます。
「中将。今すぐわたしの邸へ連絡を。あと、内裏にも」
 葵瑛さまが振り返られたそこには、扉で、険しいお顔で香姫さま方を見ておられる月影の中将が立っておられました。
「はい……」
 葵瑛さまの命令に、月影の中将は静かに答えると、そのまますっと姿を朝日の中へとかしていかれます。
 月影の中将ももちろん、今すぐにでも香姫さまへ駆け寄られたい心境でございましたが、香姫さまを抱く葵瑛さまに、何やら近づけぬ雰囲気があったので、駆け寄ることをためらわれていたようです。
 香姫さまが愛していらっしゃるのも、香姫さまがお仕えするのも陽楊さまであるのに、まるでそのようなことなど関係ないと、まるでさもそれがご自分であると、葵瑛さまは香姫さまを抱きしめておられたのです。
 他の者の目など関係ないと、体全部でおっしゃられておりました。
 それが、月影の中将には、とてもいたたまれなかったようです。
 葵瑛さまご本人にもまだ気づいておられない、微妙なお気持ちに気づかれてしまったのかもしれません。
 葵瑛さまは、あるいは――


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update:03/10/23