花ぞさかりに
(二十一)

 月影の中将の知らせを受け、兵部卿宮邸でも、内裏でも、ほっと胸をなでおろされた方が、一体どれだけいらしたことでございましょう。
 香姫さまの無事を受け、皆一様に、安堵の色を浮かべておられました。
 そして、時もところも移り、こちらは東宮御所、二日後のことでございます。
 さすがに、香姫さまも今回ばかりはこたえられたのか、葵瑛さまとの再会を果たした朝より、こちら東宮御所におとなしくおさまっておられます。
 それは本当にもう、天変地異の前触れではないかというほどのおとなしさでございます。
 香姫さまのお付女房の棗ですら唖然とせずにはいられないほどの、しおらしさ、しとやかぶりでございます。
 そのような香姫さまのもとへ、陽楊さまがご機嫌うかがいにいらっしゃいました。
「香子。どうだい? 気分はどう?」
 御簾を上げ、当たり前のように簾中へ入ってこられた陽楊さまが、几帳の陰におとなしく座られている香姫さまへと歩み寄られます。
 几帳に手をかけ、向こうに座っておられる香姫さまをのぞき込まれます。
 すると香姫さまは、扇でお顔を隠し、ゆっくりと振り返られました。
「陽楊……さま……」
 とても辛そうに陽楊さまを見上げられます。
 そのお顔を見た瞬間、陽楊さまは、胸が締めつけられる、つぶれる思いにかられました。
 このような辛そうな香姫さまのお顔を、今までご覧になられたことがなかったのでございます。
 いつも憎らしいくらい自信たっぷりに、誇り高い微笑みを浮かべておられる香姫さまが、このようなたおやかではかなげな姫君に見えるとは……。
 思わず守ってあげたくなる、小さな姫君に見えるとは……。
 陽楊さまは思わずしゃがみこみ、香姫さまを抱きしめたくなられてしまいました。
 抱きとめておかないとそのまま消えてなくなりそうな、そのような雰囲気を香姫さまは漂わせておられます。
 明らかに、普段の香姫さまとは異なっておられます。
「……香子。このような時に、果たして言ってよいのかわからないが……落ち着いて聞いて欲しい。――どうやら、我々に刺客を放った人物がわかったようなのだ」
 陽楊さまのそのお言葉を聞かれた瞬間、香姫さまのお顔が険しくゆがみました。
「まだ、恐らく……の段階なのだが、例の刺客の一人が、ある人物の邸へ入って行った」
「それは、つまり……」
 香姫さまは扇を投げ出され、陽楊さまにつかみかかられます。
 じっと、陽楊さまを見つめられます。
「ああ。だから、もう少し……もう少し待っていて欲しい。もう少しここでおとなしくしていて欲しい。――わたしも、そして葵瑛も、皆、あなたのことだけを思っている。だから……」
 陽楊さまは、香姫さまをぎゅっと抱きしめられます。
「――うん。わかった……」
 意外にも、素直なお言葉が返ってきました。
 さすがに今回は、香姫さまも相当滅入ってしまわれたのでしょう。
 香姫さまのお命だけでなく、大好きで大切な陽楊さま、そして腹立たしいけれどどうしても嫌いになれない葵瑛さま、幼い頃よりそばにつき従ってきた気がおけない女房、棗、その三人までも巻き込み、さらには彼らの命まで危険にさらしてしまったことを、とても後悔されておられたのです。
 ご自分の身の危険だけならば……平然と香姫さまは駆けまわられるでしょうが、今回はそうではなかったのです。
 まわりにいる人たちも危険にさらしてしまわれた。
 それをあらためて確認された香姫さまは、もう自分勝手なお振る舞いでまわりの人を傷つけたくないと、そう思われたのです。
 香姫さまにとってはいい薬になったと言えば言えなくもないのですが、そのような言葉で片づけられるほど、香姫さまのお心の内では簡単なものではなかったのです。
 そして、まだ安心することはできません。
 たとえ犯人の目星がついたとはいえ、まだ確実に捕らえていないのですから。
「そうか。そう言ってもらえるとありがたい」
 ふっと安心したような柔らかな笑顔を、陽楊さまは香姫さまに向けられます。
 そして、ちらりと棗へ視線を送り、うなずかれます。何かを促すように。
「姫さま……。そのような姫さまに、ご褒美ということです。三日後……内々ではございますが、歌合せなどしようと、ひ……東宮さまと兵部卿宮さまの思し召しでございますわ」
 陽楊さまが抱く香姫さまにすっと近寄り、棗が笑いかけました。
 すると、香姫さまは驚いたように、まじまじと陽楊さまのお顔を見られます。
「……本当……?」
 その言葉が信じられないとばかりに、疑わしそうな眼差しを陽楊さまに向けておられます。
「本当だよ。さすがの香子も、そろそろ我慢の限界だろう? 香子は、おとなしくしていること、一日ともたないはずだからね。本来は」
 くすくすと、香姫さまを試すように陽楊さまは笑われます。
「もう。意地悪ね!」
 香姫さまは、そのような陽楊さまからぷいっとお顔をそむけられました。
 しかし、そのそむけられたお顔は、たしかに微笑をたたえておりました。
 少し照れたふうに。恥ずかしそうに。嬉しそうに……。
 陽楊さまのお心遣いが、とても嬉しかったようでございます。


 その夜。
 今の香姫さまのお心を物語っているかのような、烟月(えんげつ)夜でございます。
 せっかくの月に、ぼやのようなものがかかり、月が(おぼろ)に輝いております。
 まるで、春でいうところの、朧月(おぼろづき)の如く……。
 そのような月を、香姫さまは、簀子でぼんやりと見つめておられました。
 そこへ、しゅすっと衣擦れの音をさせ、棗が近づいてきました。
 そして、香姫さまの肩へそっと衣を着せかけます。
 香姫さまは、衣が肩に触れると、一瞬、びくっと肩を震わされましたが、すぐにそれは棗がかけてくれたものだとわかると、ふっと淋しげな笑みをもらし、また烟月へと視線を移されます。
 やはり、香姫さまは、まだあの日のこと、あの夜のことを、ふっきれておられないようでございます。
 無理もございません。何しろ、あれから、まだ二日しかたっていないのですから。
「ねえ、棗……。わたし……罪を犯してしまいそうなの……」
 烟月を見上げたまま、後ろに控える棗にぽそりとつぶやかれました。
 棗は、香姫さまが何をおっしゃろうとしているのかわからず、それだから何も答えず、ただじっと次のお言葉を待ちます。
 棗もまた、このような弱々しいお姿の香姫さまは、今までに見たことがございません。
 それほどまでに、今回のできごとは、香姫さまのお心に大きな傷をつくってしまったということでございましょう。
 何も答えずじっと座す棗に、香姫さまは急に振り返り、すがりつかれます。
 棗の衣の胸元がはだけてしまいそうなほどの勢いで、必死にすがりつかれます。
「どうしよう、棗! わたし……わたし、駄目だわ。笹舟の君が……笹舟の君が、やっぱり好きなの!!」
「え……?」
 香姫さまのお言葉を聞き、瞬時に棗の顔が曇ります。
 険しい表情で、香姫さまを見つめます。
「実はね、これは誰にも話していないことなのだけれど……。棗だから言うのだけれど……。あの日、あの夜、刺客に襲われ、棗と別れた後、わたし、笹舟の君と会ったの。会って、笹舟の君に助けてもらったの。……だから、あれほど都合よく、わたしはあの庵にいたというわけ……」
「姫さま……?」
 棗は、すがりつく香姫さまの腕をつかみ、じっと見つめます。
 棗にはまだ、香姫さまのお言葉に答えるだけの情報が不足していたのです。
 まだまだ、香姫さまにお話ししていただき、情報を仕入れなければならなかったのです。
 笹舟の君が好き……。そうおっしゃられた香姫さまのお心を理解するには、情報が足りなかったのです。
「そのまま、笹舟の君は震えるわたしを抱き、一夜を明かしてくれたの。朝がやってきたら、東宮御所に送ってくれると……。だけど、朝を迎えたら……もうどこにも笹舟の君の姿はなかったの。笹舟の君を探していたら、そこに現れたのは笹舟の君ではなく、葵瑛さまと兄様だったの……」
 棗の胸にもたれかかるように頭を置かれ、目から絶えることなく一筋の水の道を作っておられます。
 ぽろぽろなどとそのようなけちなことは言わず、絶え間なく香姫さまの目からは涙が流れ落ちております。
「あの時は、とても辛かったわ。苦しかったわ。また……笹舟の君は、わたしに何も言わず去っていったのだと思い……。――だけどね、今思えば、笹舟の君は……きっと、葵瑛さまと兄様がやってきたことに気づき、そのまま姿を隠してしまったのだと思うの。笹舟の君は……そういう方だから……。命を救ったのに、それをみじんも表に出さず、これまでのように自然に振る舞っている……。とても素敵な人だわ……」
 そしてまた、香姫さまは棗の胸へお顔を押し当てられました。
 ふるふると肩をふるわせ、泣かれます。
 棗にももう、何と答えればよいのかわからなくなってしまいました。
 揺れる香姫さまのお気持ちが、いたいほど伝わってきてしまったのです。
 かつて、宇治の川原で一緒に遊んでいた若君を知っているだけに、棗は香姫さまのお気持ちがわかってしまうのです。
 あの気丈な、気高く、意地っ張りな香姫さまが、これほどにも心ゆれ、苦しまれているのが、とてもいたたまれなかったのです。
 いつか葵瑛さまがおっしゃられていた、「女性というものは、初恋に弱い」、その言葉が、やけに棗の脳裏にこびりつき、はなれようとしてくれません。
 香姫さまもまた、そのような女性なのでしょう……。
「姫さまは……笹舟の君を、まだ忘れられないのですね。そのお気持ちはよくわかります。ですが……」
 棗はそこまで言いかけ、言葉に詰まってしまいました。
 香姫さまをお慰めしようと発したその言葉ですが、それはさらに香姫さまを苦しめてしまうと悟ってしまったから。それ以上は、香姫さまを追い込んでしまうと悟ってしまったから。
 香姫さまは、昔の恋と今の恋、二つの恋の間で、揺れ動いておられるのでしょう。
 ひょっこりと現れた初恋の君。
 もう忘れたはずであるその思いが、笹舟の君の予想もしていなかった出現、行動で、またあの頃のその思いがよみがえってきてしまったのでしょう。
 たしかに陽楊さまのことが好きなはずであるのに、その気持ちの片隅で、笹舟の君はその存在を主張していたのです。
 香姫さまはもう、どちらが好きなのかわからなくなってきてしまわれました。
 棗は、泣きじゃくる香姫さまをぎゅっと抱きしめ、一晩中、烟月に身を照らさせておりました。


 一方、こちらも、烟月の差し込む東宮御所の一角。
 柱の陰にたたずみ、月の光を浴びておられる陽楊さまがいらっしゃいます。
 愕然と、呆然としたように、右手で口元を押さえ、柱にもたれかかり、がたがたと震えておられます。
 真っ青な、今にも泣き出してしまいそうなそのようなお顔で。
 また、絶望したようでもありました。
 どうやら、これまでの香姫さまと棗のお話を、立ち聞きしてしまっておられたようです。
 昼間の香姫さまのご様子がどうも気にかかった陽楊さまは、香姫さまをお慰めしようとやってこられたのですが、香姫さまにお声をかけようとした瞬間、棗が現れ、香姫さまに衣をかけたものですから、話かける時機を逸してしまったようです。
 諦め、そのまままた引き返そうとされましたが、香姫さまが、ぽつりぽつりと語りはじめてしまわれたので、もうそこから動くことができなくなってしまわれたようです。
 まるで床に足が張りついたかのように、そこにたたずんでしまわれていました。
 陽楊さまの今のご様子をみれば、その受けた衝撃はいかばかりか、容易に想像のつくことでございます。
 とりとめのない不安が、今、はっきりとしたものとなってしまいました。
 香姫さまは、今もまだ――


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update:03/10/23