花ぞさかりに
(二十三)

「あり……がとう……」
 香姫さまはそうつぶやかれ、棗の手からにおい袋を受け取られます。
 ぎゅっと握り締め、お袖の中に入れられます。
 ここではじめて、香姫さまは、歌合わせに気を向けられ、辺りを見まわされました。
 そして、見つけてしまわれたのです。物陰に隠れ、こちらの様子をうかがう月影の中将のお姿を。
「……兄様……?」
 ぽつりとつぶやかれると同時に、悟ってしまわれました。
 月影の中将が見守っておられるということは……恐らく、この席で何かよからぬことが起こるのではないだろうかと。
 そこで、よくもそのような大切なことを、このわたしに黙っていてくれたわねと言わんばかりに、月影の中将をにらみつけられます。
 すると月影の中将も、こちらをよく見ていただけに、すぐに香姫さまの視線に気づかれ、見るな見るなと慌てられます。
 そのような月影の中将の少し慌てたようなお姿がおかしかったのか、香姫さまは思わずくすりと笑ってしまわれました。
 それに気づいた露の宮が、
「香殿……?」
と首をかしげられます。
 何しろ、今詠まれているお歌は、思わずくすりと笑ってしまえるようなお歌ではなかったのですから。
 まさか、失恋のお歌で、くすりと笑う人などいらっしゃらないでしょう。
 名を呼ばれ、はっとなった香姫さまは、恥ずかしそうに顔を赤らめ、慌てて姿勢を正されます。
 そのような香姫さまを見て、棗はどこかほっとしたような気がいたしました。
 だって、この香姫さま……。いつもの元気いっぱいな香姫さまに戻られつつあるようですから……。
 そのような香姫さまのお姿を見て、思わず微笑まずにはいられなかった方が、御簾の内にいらっしゃいました。陽楊さまでございます。
 やはり、いくら陽楊さまから笹舟の君へと思いがゆらいでいる香姫さまといっても、苦しんでおられることはご存知なので、見ているのが辛かったのです。
 それが、理由はわからないけれど、笑われたのです。
 北山の一件以来、ずっと辛そうにしていらした、笑顔など見せられなかった香姫さまが、ようやく……。
 そのような香姫さまをご覧になっては、陽楊さまとて、微笑まずにはいられなかったのでございます。
 その時でした。
 何かに気づかれたのか、険しい顔をして、急に露の宮がばっと立ち上がられました。
 そして、先ほど、香姫さまが視線を送られていた先、月影の中将のいる方をにらみつけられます。
 それに気づいた月影の中将は、腰のものにばっと手をやり、かまえられます。
 それを見て、露の宮は、全てが馬鹿らしくなったとでも言わんばかりに、表情を変えられます。
「もうこのこような茶番はやめましょう。全てわかっているのですよ」
 そして、はんと鼻で笑うように、そのような露の宮らしくない陰湿な笑みを浮かべられます。
「露の宮さま……?」
 香姫さまは、怪訝な顔で露の宮を見られました。
 そして、気づかれました。露の宮がそうおっしゃった瞬間、陽楊さまが片膝をつき、険しいお顔で露の宮をにらみつけられていることに。そして、こちらへと駆け寄ってこられる月影の中将に。
「まったく、馬鹿馬鹿しい。もうわかっているのでしょう? わたしだと。――あの馬鹿が……失敗して、さらにはおめおめと逃げ帰ってきやがったからね」
 はき捨てるようにそうおっしゃると、ぎろりと香姫さまをにらみつけられました。
 これまで香姫さまへ向けていた視線とは、まったく異なるものでした。
 それは、卑下したような、憎しみのこもったような、恐ろしいものでした。
 それでようやく、香姫さまもこの場の状況を理解されます。
 そして、露の宮の言葉から、何を言おうとしているのかも悟られました。
 恐らく……あの北山での一件のことでしょう。
 朝露の美しい庭の邸……。
 それはすなわち、露の宮の邸をあらわしていたのです。
 朝露の如き艶やかな宮様……。
 そこから、露の宮は、露の宮≠ニ呼ばれるようになったのです。
 露の宮が、これまでの全ての首謀者だと悟った香姫さまは、ぎろりとにらみつけられます。
「どうして……このようなことをしたの!?」
 露の宮は答えず、にやりと微笑むと、ばっと駆け、ぐいっと香姫さまを抱き寄せました。
 そして、香姫さまの首に太刀を押しつけます。
 その瞬間、女房たちの恐怖に満ちた悲鳴がとどろきました。
「……こういうことだよ。左大臣の姫」
 それを見とがめた陽楊さまと月影の中将が、しまった……と、慌てて、露の宮につかまってしまった香姫さまへと駆け寄られます。
「それ以上、近づくな!」
 露の宮はそう叫ぶと、じりじりと後退し、簀子まで歩み出られます。
 陽楊さまも月影の中将も、香姫さまを人質にとられてしまったものですから、渋々、露の宮の言うことをきかねばなりません。
 とても悔しそうに、立ち止まられます。
 そのような露の宮を、もの言いたげに、香姫さまはじっとにらみつけられます。
「今となっては、少々おしい気もしますが……あなたに生きていられては、迷惑なのですよ」
 露の宮はふっと切なそうな微笑を一瞬見せ、さらに香姫さまの首へと太刀を押しつけます。
 その時にはもう、すさんだ表情に戻っておられました。
 陽楊さまと月影の中将は、ただその場に立ちすくみ、露の宮をにらみつけられることしかできませんでした。
 そして、気を利かせた女四の宮と棗は、その場にいた、ふるえおびえる女房たちを急かし、皆下がらせました。
 これ以上騒ぎ立てられては面倒ですし、怪我人も出したくなかったので。
 その場には、露の宮。露の宮に太刀を突きつけられている香姫さま。それに手も足も出せない陽楊さまと月影の中将。そして、女房たちを下がらせた女四の宮と棗の六人だけが残りました。
「……しなさいよ」
 太刀を押しつけたものの、それ以上進もうとしない露の宮に、ぼそりと香姫さまがつぶやかれました。
 そのつぶやきを聞き、露の宮は驚いたように香姫さまを見つめられます。
「すればいいじゃない。……何となく、狙いはわかるわ。どうせ、わたしの入内が気に入らないのでしょう?」
 露の宮は答えず、ふいっと香姫さまから視線をそらしました。
 どうやら、図星のようです。
「それに……わたし、今、何だかとっても死にたい気分なのよ。――この苦しみを抱いて生きるくらいなら、いっそのこと……」
 そうおっしゃり、はかなげに微笑まれます。
 それはすなわち、陽楊さまと笹舟の君との間で揺れ動く、そのお心のことをさしていらっしゃるのでしょう。
 陽楊さまに不実なご自分を、香姫さまは許せないのでしょう。
「……香……」
 そのような、手をかけなくても、目をはなせばこのまますぐにはかなくなってしまいそうな弱々しい香姫さまに、露の宮は一瞬ひるんでしまいました。
 露の宮は、女房の香が、香姫さまその人であるとご存知だったようです。
 一度、東宮御所で、女房の香を、陽楊さまが香子と呼ばれたことを聞いておられたようです。そして、それでぴんとこられたようです。
 香姫さまご自身から聞き、笹舟の君のことも知っている……。
 となると、自然、導き出される答えは……。
 くしくも、香姫さまと過ごした少しの時間は、露の宮にとって、それほど嫌なものではなかったのです。
 むしろ、はかなげに筒井筒の君のことを語る香姫さまは、露の宮の心を打ってしまっていたのです――
 露の宮がひるんだ一瞬を、香姫さまは見逃されませんでした。
 どんと露の宮にそのまま体を当てつけ、よろめいた隙に、太刀をするりとかわし、陽楊さま方の待つ庇まで駆け寄られました。
「香子!!」
 そして、駆け寄る香姫さまを陽楊さまが抱きとめられます。
 これにて、事態は好転しました。
 人質を失ってしまった露の宮は、体勢を立て直し、悔しそうにぎりりと太刀を握り締めます。
 そして、ちっと舌打ちをされました。
「もう一度聞くわ。どうしてこのようなことをしたの?」
 香姫さまは、香姫さまを抱く陽楊さまの腕をすっと放し、責めるように露の宮をにらみつけられます。
 すると露の宮は、苦しそうに切なそうに叫びます。
「――たった一人の妃だと!? ふざけるのじゃない! その東宮のたわけた発言のおかげで、わたしのいとこは……いとこは、自害しかけたのだぞ!! 入内の希望を失った、わたしのいとこは……!!」
「……!!」
 香姫さまは、言葉に詰まってしまわれました。
 たしかに、陽楊さまは、たった一人の妃しかもたないと、そして、その妃は香姫さま以外にあり得ないと、それまで群がっていた東宮妃候補の姫君たちをあっさり切り捨ててしまわれました。
 もとより、陽楊さまにはその気がおありではなかったので、それは当たり前のことなのですが。
「それなのに、東宮は、お忍びだか何だか知らないが、毎日のように左大臣邸へ通い、睦み合っているというではないか! 東宮のわがままで、わたしのいとこは自害しかけたというのに……!!」
 陽楊さまは、思わず露の宮からすっと視線をそらしてしまわれました。
 たしかに、露の宮の言葉を否定することはできません。
 たった一人の妃を決めたと、他の姫君をないがしろにされました。
 なかには……露の宮のいとこのように、衝動で、自害しようとする姫君もいたことでしょう。
「……大切ないとこなのだ……。まるで妹のようにかわいがっていた、そのいとこがないがしろにされては……」
 そして、ぎんと陽楊さまをにらみつけられます。
 全ては、もう一度いとこに、東宮妃の希望を与えるためのことだったというのでしょうか。
 そのために、香姫さまのお命を狙ったと……。
 陽楊さまは、今回の露の宮の凶行には、さすがにご自分にも非があると思われてしまったのでしょう。
 もう、先ほどまでの勢いはございません。
 辛そうに、そこにたたずんでおられます。
 そのような陽楊さまに気づかれ、香姫さまもまた、辛そうに陽楊さまを見つめられます。
 そして、次の瞬間、香姫さまのお顔は、きっと険しいものになっておりました。
「ふざけるのじゃないわよ。――たしかに、そのいとことやらにはお気の毒だったかもしれないけれど……だけど、入内が駄目になったくらいで自害しようなど、あてつけにもほどがあるわ。悔しいなら、にくいなら、正々堂々と真っ向から向かってきて、わたしから東宮妃の座を奪い取りなさいよ! 本当にひ……東宮のことを思っていたのなら、どうして東宮を困らせるようなことをするの!? ただ自分がかわいいだけじゃない。自分の哀れにひたって、悲劇の姫君を演じているだけだわ!」
「なっ……!!」
 さすがに、香姫さまのこの暴言ともとれるお言葉に、露の宮は、きっと表情を強張らせ、香姫さまをにらみつけられます。
「そして、何より! そのような馬鹿げた理由で、人の命を狙うのじゃないわよ! それこそ馬鹿馬鹿しい! わたしだけならまだよかったわよ。この都にいる全ての姫君から恨まれるだけの理由があるから。だけど、どうしてそこで、何の関係もない、葵瑛さまや棗の命まで危険にさらすのよ! そして何より、東宮のお命を危険にさらすの!? ふざけないでよね!!」
 どうやら、香姫さまのお怒りの在り処は、そこだったようでございます。
 陽楊さま方のお命まで、危険にさらした……。
 香姫さまにとって、それが何よりも辛い事実だったのでございましょう。
 そう叫ばれると、すぐ横にいた月影の中将をきっとにらみつけられました。
 そして、
「かりるわよ!」
そうおっしゃり、月影の中将の腰からするりと太刀を抜き取り、露の宮めがけて走っていかれます。
「香子!?」
 それを見た陽楊さまも月影の中将も驚き、真っ青なお顔をされております。
 そして、露の宮といえば、先ほどの香姫さまのお言葉に動揺し、さらには十二単なんて何のその、険しい表情で太刀を持ち、駆け寄ってこられる香姫さまに、身動きができませんでした。
 香姫さまの迫力に、圧倒されておられます。
 するともちろん、かきんという音を立て、露の宮が手にしていた太刀が振り払われてしまいました。
 そして、ついっと、露の宮ののどもとに、太刀をつきたてられます。
 先ほどの香姫さまと露の宮の関係が、逆転してしまいました。
 今度は、香姫さまが露の宮ののどに、太刀をつきつけておられます。
「……ねえ、わかるでしょう? もうやめようよ……」
 そして、悲しそうに、訴えるように、香姫さまはつぶやかれました。
 すると露の宮が、太刀を持つ香姫さまの手をつかみました。
「……!?」
 香姫さまは一瞬のできごとに、身を強張らせられます。
 このまま太刀をもっていかれては、一大事です。
 その時でした。露の宮は、香姫さまから太刀を取り上げるのではなく、そのままご自分ののどへと太刀を動かされていきます。
 さすがに、そうなれば、香姫さまもあせってしまわれます。
 何しろ、つきつけたはいいものの、香姫さまには殺す気などさらさらおありでないのですから。


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update:03/10/26