花ぞさかりに
(二十四)

 もう駄目だと思われたその時、ふっと、香姫さまと露の宮に間にあった太刀が消えました。
「え……?」
 香姫さまは驚き、太刀があったはずのところへよくよく目をやられます。
 しかし、やはり太刀はありません。
 そこではっとなり、露の宮へと視線を送ると、なんとそこには、胸元が切れ、ぱらりとはだけた露の宮のお姿がございました。
 そして、香姫さまの頭の上から、聞き覚えのある優しい、だけどどこか厳しいお声が降ってきました。
「香子に、人を切らせるわけにいかないからね」
「陽楊さま!?」
 香姫さまはそのお声に、瞬時に反応しておられました。
 ばっと上を向かれます。
 そこには、陽楊さまの柔らかなお顔がございました。
 左手で香姫さまを抱き寄せ、そして右手に太刀を持ち、露の宮へ向けてかまえておられます。
 陽楊さまは、香姫さまに向けたものとは別のとても厳しく険しいお顔で、露の宮をにらみつけておられます。
 そのような陽楊さまのお姿が、香姫さまの目には、どこか誇らしく映っておりました。
 香姫さまは、何かもの言いたげに、そして辛そうに、申し訳なさそうに、陽楊さまを見つめておられます。
 その表情は、それでいてどこか、何か……すっきりしたようでもありました。
 どうやら香姫さまは、陽楊さまのこの行動から、気づく、悟るものがあったのでしょう。
 そして、これまで抱いていた感情に、決着をつけてしまわれました。
 どこかさっぱりとした、清々しささえうかがえます。
「わかっているだろうね。このようなことをして、どうなるかということくらい」
 陽楊さまは、露の宮へ向かい、冷たく言い捨てられました。
 その言葉を聞き、露の宮は絶望したような表情をのぞかせ、ずるずるとその場に座り込んでしまわれました。
 もう露の宮には、これ以上抵抗する気力は残っておられないようです。
 今回の凶行に至った理由をぶちまけ、そしてもう実行不可能となった今では、それは当然かもしれません。
 そのような露の宮を、さらに険しいお顔で陽楊さまは見下ろされます。
 香姫さまは、とても辛そうに、露の宮を視線のはしでとらえておられました。
 そして、きゅっと陽楊さまの胸元を握られます。
 香姫さまにはもう、露の宮を直視することができませんでした。
 あまりにも粗末で、気の毒な理由に……。
 香姫さまは、すがるように、陽楊さまにお体を預けられます。
 香姫さまの中で、ようやく答えが出たのです。


 ごめんなさい。陽楊さま。わたし、ようやく気づいたような気がするわ。
 そして、ごめんなさい。笹舟の君……。
 あなたはずっと、ずっとわたしを思っていてくれたと言ったわ。
 もちろん、わたしもあなたを忘れたことはなかったわ。
 だけど、その思いは、どこか違ったもののようだったの。
 かつてあなたを好きになったその思いは、十年という年月にはかなわなかったの。
 次第に薄れていき、ただそこに残ったものは、あなたへの感謝の気持ちだけ。
 愛は……なくなってしまったの。
 いいえ。はじめから、そのようなものはなかったかもしれない。
 そして、出会ってしまったの。陽楊さまに……。
 気づいてしまったの。陽楊さまのその思いに。
 わたしがどれほど陽楊さまを裏切るようなことをしても、陽楊さまはわたしのもとへかけつけ、そしてわたしを守ってくれるの。
 このように愚かで誠実な人、きっと他にはいないわ。
 わたしだけの人……。
 わたしが、いつどのような時でも、どきどきできるのは陽楊さまだけ……。
 今わたしが好きなのは、陽楊さまだけ……。
 やはり、わたしには、陽楊さまでなければ駄目なの。
 ただ一人の妃だけを愛するとおっしゃった、そのような陽楊さまを好きになり、そして惹かれていったの。
 もう、わたしには陽楊さまだけ。陽楊さましか、愛せない。
 あなたへの思いは、もう過去のもの。
 だから、ごめんなさい。笹舟の君――


 香姫さまは、そのような思いを抱かれながら、これまでのゆらいだ思いに決着をつけ、じっと陽楊さまを見つめておられます。
 ようやく、ご自分の思いに整理がついたようです。
 笹舟の君へ残った思いは、会えないと思っていた筒井筒に会えた嬉しさと、感謝だけ――
 悟られた香姫さまには、もう怖いものはございません。
 そして、その思いも、ゆるぎないものへとかわっていきます。
 全ての迷いをふっきられました。
 陽楊さまのこのようなたった一つの行動だけで。たった一つのお言葉だけで。
 あふれ出る香姫さまへの陽楊さまの思いに、ようやく気づきかけておられます。
 世界中どこを探しても、陽楊さまほど、香姫さまを愛し、大切に思われている方はいらっしゃらないでしょう。
 それに、香姫さまも気づきかけておられたのでございます。
 しかし、陽楊さまは、香姫さまのそのような視線に気づいておられないのか、変わらず露の宮をにらみつけておられました。
 それがしばらく続いたかと思うと、陽楊さまはほうっと小さなため息をもらし、露の宮からすっと太刀をひいてしまわれました。
 香姫さまを連れ、月影の中将のもとへと歩み寄られます。
 そして、すいっと月影の中将に太刀を返されました。
 月影の中将は、陽楊さまの袖をつかみばつが悪そうに月影の中将を見る香姫さまを、きっとにらみつけられます。
「まったく……。このおてんばが」
 そして、あてつけがましく大きなため息をもらされました。
 香姫さまは、あははと愛想笑いをして誤魔化されます。
 そのような香姫さまを見て、陽楊さまも月影の中将も、このおてんば姫には何を言っても無駄だと眉をひそめられます。
 ですが、その表情は、とても優しいものでございました。
 全てが……終わったような瞬間でした。
「東宮……覚悟!!」
 しかし、まだ終わってはいなかったのです。
 胸の内に隠し持っていた短刀をすっと取り出し、露の宮が陽楊さまめがけて駆け寄ってきたのです。
 どうやら、露の宮はまだ諦めていなかったようです。
 今度は、あろうことか、東宮である陽楊さまのお命を狙ってきたのです。
 何故、香姫さまから陽楊さまに狙いを変えたのか……それは、露の宮の心の内にだけ答えは存在するのでしょう。
 それに気づかれた香姫さまは、露の宮に背を向けたままになっていた陽楊さまの前にとっさに躍りで、かばうように陽楊さまの背に抱きつかれます。
 それに気づかれた陽楊さまが、香姫さまを抱き、ぐるりと体をまわし、香姫さまを後ろへ隠されようとしましたが、間に合いませんでした。
 もう目の前に、露の宮の凶刃が迫っていたのです。
 そこにいた誰もが、目を覆わずにはいられませんでした。
 棗に至っては、そのままふっと気を失ってしまいました。
 それを女四の宮がとっさにかばい、支えます。
 今度こそ、今度こそ、香姫さまは……。
 ――しかし、やはり香姫さま。そう簡単に死ぬわけがございませんでした。
「う……っ」
 そのようなうめき声はしたものの、香姫さまはお体のどこにも痛みを感じておられなかったのです。
 不思議に思われ、思わずそむけていた目をまた露の宮へ戻されます。
 するとそこには、床に短刀を落とし、苦痛に顔をゆがめる露の宮の姿がございました。
 そして、その後ろには――
「笹舟の君!!」
 露の宮の後ろで、露の宮の右手をねじ上げるその公達へ向かって、香姫さまは思わず叫ばれておりました。
 香姫さまのそのお言葉通り、なんとそこには笹舟の君がいて、露の宮をおさえつけていたのです。
 すると笹舟の君は、ふっと柔らかく微笑みました。
「よかった……。無事で」
 その瞬間、露の宮はばっと笹舟の君を振り払い、そのまま脱兎のごとく逃げ去っていきました。
 その寸前、ちらりと、香姫さまを盗み見たことは、果たして、ここにいた何人の方が気づいておられたことでございましょう。
 露の宮の後を、我に返えられた月影の中将が、慌てて追って行かれます。
 それを、香姫さまも、陽楊さまも、女四の宮も、そして笹舟の君も見送っておられました。
 そして、香姫さまは、月影の中将のお姿が見えなくなると、笹舟の君へ視線を戻し、陽楊さまからすっとはなれられます。
 笹舟の君へと手をのばし、歩いていかれます。
 そのような香姫さまのお姿を、陽楊さまは苦しそうに見つめておられました。
 香姫さまのこの行動を、陽楊さまにはとめることができなかったのです。
 そして、笹舟の君へと次第に惹かれていく香姫さまのお心もまた……。
 香姫さまのお体は縛ることはできても、そのお心は捕らえることができないと、陽楊さまはわかっておられました。
 香姫さまのことをよくご存知なだけに、香姫さまのその自由なお心は、誰にも手に入れることができないと。
 頼りない足どりでゆっくりと笹舟の君へ近づき、手をのばされる香姫さま。
 そのお姿を、とても辛そうに陽楊さまは見つめられておりました。
 やはりもう、香姫さまのお心は……。
 香姫さまのお心を、もうつなぎとめておくことはできないのだと……陽楊さまは思わず、ふいっと目線をそらしてしまわれました。
 香姫さまののばす手の指先が触れようとした時、笹舟の君はすっと一歩下がり、それを避けてしまいました。
「……笹舟の君……?」
 衝撃を受けたような、悲しそうな、そして不思議そうな目で、香姫さまは笹舟の君を見つめられます。
 どうして……?と、香姫さまの目は訴えておりました。
 すると、笹舟の君は辛そうに微笑み、はかなげに香姫さまを見つめます。
「すまない……。わたしは、これ以上はあなたに近づけない。これ以上は無理なのだよ。その……袖の内にあるものが、あなたを守っている限り……」
 笹舟の君は、抱きしめたいけれど、だけどそれはかなわないのだよ、邪魔されて……と、切なそうに香姫さまを見つめます。
「袖の内……?」
 香姫さまは何のことかわからず、怪訝な表情を浮かべられます。
 そして、気づかれました。
 袖の内にあるものといえば、たった一つ。――におい袋。
 陽楊さまの香りを漂わせる、におい袋だけ……。
 そのにおい袋には、魔よけにと明水さまがくださった、伽羅の数珠玉が一粒……。
「これ……?」
 香姫さまは、袖の内よりにおい袋をすっと取り出され、てのひらの上に置き、笹舟の君に示されました。
 すると笹舟の君は、悲しそうに微笑みます。
 それで、香姫さまは全てを悟ってしまったような気がされました。
「笹……舟の君……? あなたが助けてくれたのね? あなたは、ずっと、わたしを守ってくれていたのね? ずっと……ずっと……」
 におい袋を胸の前でぎゅっと両手で握りしめ、笹舟の君を切なそうに見つめたまま、そのまま泣き崩れてしまわれました。
 香姫さまには、この笹舟の君の、はかなく、悲しげな微笑だけで、全てがわかってしまわれたのです。


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update:03/10/26