花ぞさかりに
(二十五)

 清涼殿、昼御座。
 香姫さまが、笹舟の君を再びその目にされる少し前。
 こちらで、葵瑛さまは、明水さまとともに待機されていました。
 本日、東宮御所で歌合わせがあり、そしてそこで、露の宮を罠にかけようとされていました。
 ……いえ。罠というよりはむしろ、機会を与えてやったのかもしれません。
 露の宮も、度重なる失敗でそろそろあせってくる頃だろうと、そして葵瑛さまも、もうこれ以上は長引かせたくないと思っておられ、それでこのような無謀ともいえる作戦に出られたのです。歌合わせという名目の作戦に。
 そこへ、血相を変えた梅若が飛び込んできました。
「宮様〜!! 大変だよ、大変なことになったよ!!」
 そのような梅若とはうってかわり、葵瑛さまはどこか落ち着き払ったご様子です。
「少し落ち着きなさい。……それで? 大変なこととは?」
 勢いあまって葵瑛さまの胸倉を両手でつかみ迫る梅若の背をぽんぽんとなで、まるで馬でもあやすように、「どうどう」とまで口につく始末でございます。
 まったくもって、葵瑛さまは、いつ何時でも、腹立たしいお振る舞いしかされません。
 しかし、そのような嫌がらせも、今の梅若には通じませんでした。
「落ち着いている場合じゃないってば! あいつが、あいつがとうとう切れちゃったのだよ! 太刀を抜いて、師匠をきりつけようとしているのだよ!!」
「え……?」
 さすがに梅若のこの言葉には、葵瑛さまもお顔をゆがめずにはいられませんでした。
「……どうやら、しくじったようですね。陽楊と中将は……」
 そして、苦々しく、そうつぶやかれます。
「まったく……。常々思ってはいたが、やはりしでかしてくれましたね。露の宮……」
「そうですね……」
 葵瑛さまの苦々しげなつぶやきに、声を殺し、明水さまが相槌をうたれます。
 葵瑛さまと明水さまのこのお言葉は、どうも腑に落ちません。
 露の宮といえば、誰もが口をそろえて言う、万事ひかえめで素晴らしいお方のはずでございます。そのような露の宮を、どうしてそのように……。
 どうやらお二人は……と梅若は、露の宮の本性に気づいておられたようです。
 それは、表の顔だと。裏では……誰よりも腹黒く、そして葵瑛さまよりもたちの悪いお方だと……。
 語られた露の宮の動機は、まるでいとこの姫君を思ってのことのようでございましたが、葵瑛さまの調べによると、実はそうではなく、自らの野望のためだったのでございます。
 いとこの姫君をまずは養女にし、その後東宮妃にして、生まれた皇子の後見をし、その皇子を東宮にまつり上げ、末は外戚として権力を欲しいままにと……。
 もしくは、東宮その方を暗殺し、東宮の位を自らのものにしようと……。
 しかし、そうはいっても、まさかとは思っておられたのです。
 そのような馬鹿馬鹿しいことが実現するはずもなく、もちろん、そのような簡単なことに気づかないほど露の宮も馬鹿ではないと思っておられたから……。
 しかし、実行されてしまったのです。そのような馬鹿馬鹿しいことが。
 葵瑛さまはきっと宙をにらみ、ぽんと梅若の肩を叩き引きはなされました。
「梅若。よくやりました。あとは……我々に任せなさい」
「え……? でも……」
 梅若は、ここで自分の役目が終わり切りはなされてしまうと思い、納得がいかないとばかりに食い下がります。
 梅若とて、まだまだ香姫さまのために動きたかったのでございます。
 大切な大切な梅若の師匠、香姫さまのために。
「あなたには、まだ大事な仕事がありますよ。検非違使別当(けびいしべっとう)に伝えなさい。手はず通り行いなさいと」
 いつもどこかふざけたふうな葵瑛さまですが、今の葵瑛さまにはそのようなものはみじんもございませんでした。
 お顔は険しく、そして体中で怒っておられることが、梅若にもひしひしと伝わってきます。
 そこで、梅若はごくりとつばをのみ、こくんとうなずくと、まただだだっと駆けていきました。
 そのような梅若を見送っていると、梅若が退出することを待っていたかのように、侍が一人、すっと葵瑛さまの前に現れ、跪きました。
 そして、葵瑛さまの許可も得ず、口を開きます。
「宮様……。かねてよりお申しつけいただいていたこと、ようやくわかりました……」
 そう言って、すっと文を差し出します。
 葵瑛さまは、その文を険しい顔で受け取られました。
 すると、侍は何も言わず、そのまま去っていきました。
「宮様。それは?」
 明水さまは、侍が去ったことを確認すると、葵瑛さまにたずねられました。
 軽く首をかしげられます。
「……笹舟の君について、調べさせていたのだよ」
 明水さまを見ずに、文に視線を落としたまま、葵瑛さまはおっしゃいました。
 ぱらりと文を開き、読みはじめられます。
 そしてすぐに、葵瑛さまの顔色は変わってしまいました。
 葵瑛さまにしてはあり得ないほどの変わりぶりでございました。
 さあっと、そのお顔から色が引いていたのです。
 さすがに、そのような葵瑛さまを見ては、明水さまも不思議に思い、文をのぞき込まれます。
 すると、明水さまのお顔もまた、険しくゆがみます。
「これは……」
 お二人は青ざめたお顔で見つめ合うと、同時に駆け出しておられました。
「明水……!!」
「ええ、宮様!!」
 そう叫ばれ、乱暴に清涼殿をかけていかれます。
 葵瑛さまの手にはまだ、かたくぎゅっと握り締められた、先ほどの文がございました。


 そして、時間も場所も戻り、東宮御所。
 太陽が、そろそろ西の空に沈もうとしております。
 赤い日が差し込むそこに、落胆し力なくたたずむ陽楊さまと、それを心配そうに見つめる女四の宮がいらっしゃいます。
 お二人の視線の先には、見つめ合う、香姫さまと笹舟の君。
「わたしは、ずっと……ずっと、あなただけを思っていた……」
 全てを悟りきったように、悲しげに微笑む笹舟の君。
 そのような笹舟の君を、辛そうに見つめる香姫さま。
 香姫さまの手の内には、まだにおい袋がございます。
 笹舟の君は、人一人分の間をあけ、床に座り込む香姫さまを切なそうに見下ろしています。
 香姫さまは、笹舟の君を見つめたかと思うと、小さく首を横に振られました。
 そして、意を決したようなゆるぎない光を放つ瞳を、笹舟の君へ向けられます。
「……ごめんなさい、笹舟の君。――わたしも……わたしも、あなたをずっと思っていたわ。幼い頃出会い、そしてほのかに抱いていた恋心……。――だけど、ごめんなさい。わたし、気づいてしまったの。わかってしまったの。わたしには、あなたでは駄目なの。わたしが愛する人は……あなたではないの……」
 笹舟の君は香姫さまのそのお言葉を聞いても、まったく動じた様子はありません。
 むしろ、最初から答えがわかっていたかのように、優しい微笑みを香姫さまへ向けております。
 そして、見るにたえかねて視線をそらされていた陽楊さまは、香姫さまのそのお言葉を聞き、何とも言えぬ複雑なお顔で、再び香姫さまを見つめられます。
「では……東宮を……?」
 笹舟の君は、決定打を下して欲しいとばかりに、決着をつけて欲しいとばかりに、最後の確認をするかのようにつぶやきます。
 すると香姫さまは、涙がぽろぽろとあふれ出るそのお顔を上げ、まぶしそうに笹舟の君を見つめられました。
 たしかにまぶしかったのでしょう。笹舟の君には、まるで後光のように、真っ赤な陽の光が降り注いでいたのですから。
 あまりにもまぶしすぎて、香姫さまには、笹舟の君のお顔をよく見ることができなかったかもしれません。
 まぶしすぎて、笹舟の君のお顔だけが、光って……。
 それは、目に映るものではなく、心に響くまぶしさ――
 香姫さまは、握っておられたにおい袋を両手のひらにのせ、すっと笹舟の君へと差し出されました。
 そして、にこりと微笑まれます。
「ううん。わたしは、東宮を好きなのではないわ。ただ……」
 におい袋をぎゅっと握り締められます。
「この人……この人が好きなの。東宮でも何でもない、この人自身が……。この香をまとう人が……。――この人でなければ、もうだめなの……」
 笹舟の君は、もう何も言うことがないとばかりに、ただ優しいけれど、淋しそうな微笑を香姫さまに、香姫さまだけに降り注いでおりました。
 とても愛しそうに、とても大切そうに。
 まるで壊れ物でも扱うかのように、真綿でくるむかのように、慈しみの微笑みを香姫さまに向けておりました。
 香姫さまも、そのような笹舟の君に、精一杯の笑顔を向けておられます。
 しかし、目からあふれるものは、香姫さまのお心を決して誤魔化そうとはさせてくれません。
 香姫さまのその告白を聞いた瞬間、陽楊さまのこれまでの不安も、全て払拭されたような気がいたしました。
 陽楊さまのお心を占めていた絶望が、消えた瞬間でございました。
 香姫さまのお言葉が、陽楊さまを救ったのです。
 その時です。
 乱暴に走り来るけたたましい足音が聞こえたかと思うと、これまた乱暴に、葵瑛さまと明水さまが飛び込んでこられました。
 そして、飛び込んでくるなり、叫ばれます。
「香姫殿! その者からはなれるのです! その者はもう、すでに……!!」
 色を失った顔で叫ばれる葵瑛さまの後ろで、明水さまがじゃらりと数珠をかまえられます。
 それを見て、香姫さまは非難するような視線を向けられました。
 その有無を言わせぬ視線に、葵瑛さまも明水さまも、思わずひるんでしまわれました。
 それほどの迫力が、今の香姫さまにはございました。
 そしてまた、香姫さまは、笹舟の君へと視線を戻されます。
 笹舟の君は、全てを悟ったように悲しい微笑みをたたえ、その場にたたずんでおりました。
 そして、にこりと優しい微笑みを香姫さまへ向け、すっと姿を消していきました。
 まるで、真っ赤な太陽に溶け込むように、霧のように、その姿が薄れていきます。
 やはり、笹舟の君は……。
 香姫さまがにおい袋で気づいてしまわれたように、すでに、もう――
 香姫さまに向けたその微笑が、香姫さまが見られた、笹舟の君の最後の姿でした。


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update:03/10/29