花ぞさかりに
(二十六)

 消え入る笹舟の君の姿をじっとみつめ、そして消えてからも視線をそらそうとされなかった香姫さまが、ようやく目を閉じられたかと思うと、そのままくずおれてしまわれました。
 香姫さまは、気づいておられたのです。
 におい袋の中には、伽羅の数珠玉が一粒。
 そして、そのにおい袋があるため、笹舟の君は香姫さまに触れることができませんでした。
 伽羅の数珠玉は、明水さまが魔よけにとくださったものです。
 笹舟の君の存在が何であるかわかった後も、香姫さまがにおい袋を手放されなかったのは、それは……。
 ふっきれたとはいえ、また笹舟の君に触れては、あの感情が怒濤のように押し寄せてくるのではないかと、不安だったから……。
 だから、手放すことができなかったのです。
 ぎゅっと握り締め、もう迷わぬと誓うために。
 そして、その思いは、陽楊さまへの思いは、最後には、確信となっていたのです。
 香姫さまに、陽楊さまが歩み寄り、そっと抱きしめられました。
 すると香姫さまは、陽楊さまの胸へとすがりつかれます。
 陽楊さまの胸の内で、声を殺し、泣いておられます。
 そのような香姫さまを、陽楊さまは辛そうに、ただ抱きしめて差し上げることしかできませんでした。
 この……今はこのように頼りなげで、はかなげな、小さな体を震わす、愛しい姫君を。
 そのような香姫さまと陽楊さまのもとへ、葵瑛さまと明水さまもすっと歩みよられました。
 女四の宮だけが、棗を支えたまま、少しはなれたところでその様子を見守っておられます。
「あれ≠ゥらも、そして姫君からも、清らかな気しか感じられません。もう大丈夫です。あのまがまがしい気は、どこにもありません」
 陽楊さまの胸の内で泣く香姫さまに、明水さまが優しい声でおっしゃられました。
「恐らく……姫君に襲い来る災いに気づき、いてもたってもいられなくなり、ああして守っていたのでしょう。あれ≠ヘ……」
 そのお言葉に、香姫さまは、救われたように、すがるように、じっと明水さまを見つめられます。
 もっと、もっと……言って。
 もっと、わたしを安心させる、落ち着かせる言葉を、もっと……。
 そして、わたしは間違っていなかったと……もっと言って。お願い……。
 そのように、香姫さまの目はおっしゃっていました。
「――なるほど。生身の肉体を持たぬ者だからこそ、時なく、どのようなところにも自由に現れ、出入りできたのだろうね。――そして、恐らくあれは……自分の存在を知らせ、そして危険を伝えていたのだろう……」
「あれ……?」
 葵瑛さまのそのお言葉に、ようやく香姫さまが口を開かれました。
 しかしまだ、目から流れるものは一向にとまろうとはいたしません。
 もう先ほどからずっと……。
 このままでは枯れてしまうのではないかというほど、香姫さまの目から流れ続けております。
「ええ。……あなたには黙っておりましたが……毒が盛られた時、投げ込まれた文は、実は、笹の葉に結ばれていたのです。――あの時に気づくべきでした……」
「――そう……」
 香姫さまは、全てを悟ったように、静かに答えられます。
 普段の香姫さまならば、このようなことを聞かされては、「どうして、そのような大切なことを黙っていたの!?」と、まくしたてられるところですが、今の香姫さまにはそのような余裕すら、気力すら残されておりません。
 今はただ……この悲しみに、この苦しみに耐え、打ち勝つことだけ……。
 そのようなお辛い香姫さまのお気持ちを察せられたのか、陽楊さまが話題をかえられます。
 きゅっと、香姫さまを抱きしめ。
「ところで、露の宮はどうした?」
 陽楊さまのその思惑を察したのか、葵瑛さまは平然と答えられました。
「こちらへ来る途中、逃げてくる露の宮とばったりと会いましてね。そして、後から追いかけてくる中将とも。それで、あとはもう、検非違使も連れてきていたことですし、そのまま中将と別当殿にあずけてきましたよ。――ええ。もちろん、きつ〜くお仕置きをした後でね?」
 にやりと不敵な笑みを浮かべ、そして、くくくくくっと不気味な笑いをもらされます。
 その横で、どこか遠くを見るように、思い出すのもはばかられるとばかり、明水さまが心をこめてつぶやかれました。
「ええ、それはもう……。とてつもなく恐ろしい光景でした……」
 そのお言葉を聞き、陽楊さまも、そして香姫さまも、絶句してしまわれました。
 ただ女四の宮だけが、やれやれとばかりにため息をもらされております。
 どうやら女四の宮は、さすが葵瑛さまのお義母上というだけあり、この程度ではびくともされないのでしょう。
「彼の言うことにはね、呪詛も刺客も香姫殿には通じなかった。だから、もう自分がでるしかないと思い、今回の暴挙に出たそうだよ? 怪しまれないように、ずいぶん前から、周到に、香姫殿に近寄って……」
 きっと、一瞬にして、陽楊さまのお顔が険しくなりました。
 香姫殿に近寄って……という、その葵瑛さまのお言葉に反応されたようです。
「それなのに、どうして彼は、香姫殿を殺すことをためらったのでしょうね? ねえ? 香姫殿?」
 そして、そのような思わせぶりなことをおっしゃられます。
 葵瑛さまってば、もちろん、お仕置きの時に、たっぷりとこれまでのいきさつを、露の宮から聞きだしておられるはずですのに、このようなことをおっしゃられるということは……。
 ――もう、考えるのはよしておきましょう。
 そして、これ以上は、深く追求してはいけません。
 また、陽楊さまの逆鱗にふれ、そして腑抜けにしてしまいますから。
「それで、どうなるのかしら、露の宮は。これから……」
 そろそろ涙がとまりかけていた香姫さまが、ふっと思い出したかのようにつぶやかれました。
 すると、すかさず葵瑛さまがお答えになられます。
「それはもちろん、隠岐へ、る・け・いっ」
 くすくすと、実に楽しそうに笑われます。
「え? もう決まっているの?」
 香姫さまは、怪訝そうに、じっと葵瑛さまを見つめられます。
 そのような香姫さまを抱く陽楊さまは、もう次に葵瑛さまのお口から出てくる言葉がわかっておられるのか、頭痛を覚えはじめておられました。
 明水さまもまた、遠くを見るような目で、ふうっとため息をもらされます。
「当たり前ですよ。わたしが流刑と言えば、流刑なのです」
 葵瑛さまはきっぱりとそうおっしゃり、またにこりと微笑まれます。
 その微笑が、香姫さまにはやけに憎らしく思え、そして恐ろしく感じてしまわれました。
 香姫さま方には、今目の前に、たしかに鬼がいて……いいえ、遠い異国の地でいうところの悪魔がいて、微笑みをたたえているような気がしてなりませんでした。
 そして、もちろん、例外なく、香姫さま方の背筋に悪寒が走ります。
 この宮様は、もう誰にもとめられません。
 それが、たとえ、帝であろうと。神仏であろうと……。


 その夜、全てが解決したにもかかわらず、香姫さまはまだ東宮御所にとどまっておられました。
 今夜は、東宮御所仕え最後の夜でございます。
 全てが解決した今、もう香姫さまが東宮御所におられる理由などなくなってしまいました。
 ぼんやりと、簀子で月を眺める香姫さまと、その横に、おだやかな表情を浮かべた陽楊さまがいらっしゃいます。
 どうやら陽楊さまは、まだ笹舟の君にはひっかかるところがございますが、ですが今はもうふっきれたようでございます。
 何しろ、香姫さまから、あの香姫さまから、とても大切なお言葉をいただいたのですから。
 香姫さまのお心を占めていた命の恩人、筒井筒の君を前に、香姫さまはきっぱりとこうおっしゃられたのです。

 この人……この人が好きなの。東宮でも何でもない、この人自身が……。この香をまとう人が……。――この人でなければ、もうだめなの……。

 それはすなわち、陽楊さま。それは誰にも否定できない事実。
 香姫さまは、心を見つめ、ようやく気づかれたのです。
 そして、香姫さまもまた、陽楊さま同様、陽楊さまなくしてはもうその心の淋しさを癒せないと、埋められないと……。
 陽楊さまが、全てであると――
 陽楊さまは、愛しそうに、横で月を眺める香姫さまを見つめておられました。飽きることなく。
 そしてそのまま、すっと香姫さまを抱き寄せられます。
「香子……」
 香姫さまも嫌がる様子も抵抗する様子もなく、そのままお体を陽楊さまへとゆだねられます。
 そして、安心したように、すっと目を閉じられました。
 目を閉じ、香姫さまは、一体何を思われているのか……。
 そのような、物悲しいけれど、だけど柔らかな空気をまとうお二人のもとへ、また頭痛の種が舞い込んでまいりました。
「おや? これは失礼。お邪魔でしたか?」
 にやにやと意味ありげに微笑みながら、葵瑛さまがやってこられたのです。
 葵瑛さまが姿をあらわされると、陽楊さまは恨めしげににらみつけられ、無言で、「わざとだろう、わざとやって来ただろう、お前!」と、訴えておられました。
 もちろん、陽楊さまのおっしゃるとおり、この宮様がわざとでないわけがございません。
 時機をはかって現れられたのです。
「そうそう、香姫殿。あなたに頼まれていたこと、ようやくわかりました。――今となっては、詮無いことですが……」
 陽楊さまに抱かれた香姫さまの前に、葵瑛さまはすっと腰を下ろされました。
「……いいわ。教えて……」
 香姫さまはゆっくりと目を開き、じっと葵瑛さまを見つめられます。
「……はい」
 葵瑛さまは、少し困ったように微笑まれました。
 もうその微笑からは、これまでの意地悪なものはなくなっておりました。
「――かつて……宇治で療養していた若君。かえでの若君と呼ばれていた人物。それは……大納言家の長男、源輔清(みなもとのすけきよ)でした」
 そして、ぱらりと扇を開き、葵瑛さまもまた、月へと視線を送られます。
 そのような葵瑛さまを、香姫さまは淋しげに見つめておられます。
「お庭に立派なかえでの木があり、若君もその木のような立派な殿上人(てんじょうびと)となるようにと、かえでの若君と呼んでいたようです。――今さらですが、思えば……そのかえでの木は、都でも有名なかえでの木だったのですよね。……どうして、すぐに気づかなかったのでしょう……」
「そうね……。わたしもそうだったわ……。どうして……」
 香姫さまは、陽楊さまに抱かれ、陽楊さまの衣をきゅっと握られました。
 陽楊さまは、そのような香姫さまをただ優しく抱かれるだけです。
「それで……笹舟の君は……源輔清さまは、いつ……?」
 香姫さまはきっとお顔を上げ、訴えるように葵瑛さまを見つめられます。
 すると、葵瑛さまも月から再び香姫さまに視線を戻され、少し困ったように微笑まれました。
「……ちょうど、半年前……。あなたの入内が決まった日です」
「え……?」
 香姫さまの表情も、陽楊さまの表情も、一瞬にして曇りました。
 それは……一体、どういう……?
「宇治より戻ってからも、ずっと臥していたようです。ですから、出仕もしておりませんでした。入内が決まったその日、その瞬間、静かに息をひきとっていったそうです。筒井筒の姫君がどなたかご存知だったようで、ずっと『かの姫に……宇治の姫君に、もう一度会いたい……』そう言い残し、静かに……」
 香姫さまは、陽楊さまの腕の中で、月をあおぐように見上げ、またその瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしはじめられました。
 なんと皮肉な運命なのでしょう。
 香姫さまの入内が決まったその時、それを確認するかのように息をひきとった笹舟の君……。
 それはまるで、香姫さまの幸せを確信し、この世を去っていったような、そのような隠れ方……。
 そして、恐らく、はかなくなってもなお、香姫さまを強く思うその思いから、願いから、亡霊となって、もう一度香姫さまに会いにきたのでしょう。香姫さまの前に姿を現したのでしょう。
 恐らくは、宇治からの帰京の途中でのあの出来事は、純粋にそれだけだったのでしょう。
 しかしその後、香姫さまの身の危険を知り、なおもこの世にとどまり、陰からそっと、香姫さまを守っていた。見守っていた……。
 恐らく、香姫さまのお心から、はかなくなられるまでずっと、この筒井筒の君、笹舟の君は消えることはないでしょう。
 ずっと、香姫さまのお心をとらえ続けるでしょう。
 涙をぬぐいながら、香姫さまが葵瑛さまにつぶやかれました。
「ねえ、葵瑛さま。もう一つ……お願いがあるの……」
「はい。何でしょう?」
 優しく、葵瑛さまは香姫さまに答えられます。
 まるで香姫さまのお願いが何であるか、もうすでに分っておられるかのように。
 陽楊さまもまた、そのお願いをわかっておられるようでございます。
 しかし、それをとめようとはされません。
「笹舟の君の……源輔清さまのお墓の場所を調べて欲しいの……」
「かしこまりました……」
 葵瑛さまは、香姫さまのお願いを静かに承諾されました。
 陽楊さまは、少し複雑な、困ったような表情をのぞかせておられました。
 ふっきれたとはいえ、笹舟の君は、香姫さまにとって特別な存在だと、理解された陽楊さまですから……。


 その後すぐに、葵瑛さまによって、笹舟の君のお墓の場所が調べられ、陽楊さま、葵瑛さま、棗をともなって、香姫さまはお墓を訪ねられたようでございます。
 そして、そこで見つけられたのです。
 笹舟の君のお墓の脇に、芽を出したばかりの一本のかえでの若木が生えていることを。
 また、陽楊さまは目にされました。
 それを見つけた時、香姫さまの目からあふれでるものを。
 いつも気高く気丈なあの香姫さまが、笹舟の君を思うと涙せずにはいられないと、陽楊さまの胸にもまた、深く刻み込まれたのです。


 ところは移り、ここは左大臣邸。
 もうすっかり秋色も薄れ、辺りは枯れ草色に染まっております。
 空からは、白いふわふわとした冷たいものが、ちらちらと舞ってくる季節でございましょうか。
 あれから……露の宮の暴挙から、そして、香姫さまが笹舟の君と最後のお別れを遂げた日から、香姫さまが笹舟の君のお墓を尋ねられてから、ほどよい月日が流れておりました。
 左大臣邸の東の対へと続く渡殿で、棗は、今しがた東の対へと入っていかれた見慣れた殿方お二人を見つけ、歩み寄っていきます。
「陽楊さま、兵部卿宮さま。いらっしゃいまし」
 その二人の殿方は、陽楊さまと葵瑛さまでいらっしゃいました。
 歩み寄る棗に気づき、お二人は歩みをとめられました。
 そして、葵瑛さまは腰をかがめ、棗の視線まで目線を下ろされ、にこりと微笑みかけられます。
「こんにちは、棗殿。――おや? どうしたのかな? 元気がない……」
 そう尋ねられる葵瑛さまから、気まずそうにすっと視線をそらし、棗は少し考えるようにつぶやきました。
「そ、それが……。あれからずっと、姫さま、沈んでおられて……。わたくし、気が気でなくて……」
 それはまるで、香姫さまをお慰めすることができない自分の不甲斐なさを、責めているようでありました。
 棗は苦しそうにつぶやきます。
 そのような棗に、また葵瑛さまは優しく微笑みかけられます。
 ぽんと棗の肩に手を置き、すっと庇へと引き寄せられました。
 そして、何やら棗に耳打ちます。
「え……?」
 葵瑛さまの耳打ちに、棗は驚いたような、そして嬉しそうな笑みをもらしました。
 その前の簀子を、陽楊さまが、棗へ微笑を送り通っていかれます。
 そのような陽楊さまを、葵瑛さまは、にやにやと実に愉快そうに見送られました。

 いつもの香姫さまの指定席。
 はじめて陽楊さまと葵瑛さまと会われた、もみじのある木を見ることのできる簀子で、ぼんやりとお庭を眺めておられる香姫さま。
 お庭はもうすっかり衣替えし、冬の装いをしております。
 ちらちらと、ところどころ白く染まるお庭。
 香姫さまは、肩から衣をかけただけで、この寒さを凌いでおられるご様子です。
 太陽が中天にさしかかり、陽もよく注ぎ、多少は暖かいとはいえ、やはりはじまりだした都の寒さは身にこたえるものでございます。
 しかし、この寒さを我慢しても、ここにいらっしゃりたかったのでしょう。
 そのような香姫さまに、一丈ほどの間を置き、柱にもたれかかり、陽楊さまが声をかけられました。
「香子……」
 香姫さまは陽楊さまのお声にこたえるように、無言でゆっくりと振り向かれます。
 そして、にこりと微笑を向けられました。
 陽楊さまを見た瞬間、心がぽっとあたたかくなったような、そのような微笑でございました。
 すると陽楊さまは、その場に立ったまま、くすりと笑われ、試すようにおっしゃられます。
「お待たせ。ようやく、入内の日取りが決まったよ」
 その陽楊さまのお言葉に、香姫さまのお顔はぱあっとはなやぎました。
 そして、次に香姫さまがとられる行動といえば、もちろん決まっております。
 そのままばっと立ち上がり、満面の笑みで駆け出し、陽楊さまに飛びつかれるのです。
 そして、陽楊さまもまた、飛びついてこられた香姫さまをぎゅっと抱きしめられます。
 お二人、幸せそうに、いつまでもいつまでも抱き合っておられました。
 香姫さまが陽楊さまのもとへ入内される頃は、この都中が、淡紅色の花でいっぱいになった頃でございましょう。
 めぐりめぐって、入内決定より一年、桜の頃でございます。
 長い長い夜が、ようやく明けようとしております。


 むかしむかし、はるかむかし。悠久の歴史の中、雅の風に包まれていた頃。
 風変わりな左大臣の姫と、これまた風変わりな東宮がいらっしゃいました。
 これは、そのようなはちゃめちゃなお二人の、恋物語でございます。


花ぞさかりに おわり

* BACK *
* TOP * HOME *
update:03/10/29