夢の浮橋
(一)

 ここ最近、同じ夢を見る。
 必ずといってよいほど、夢に現れるかの人――
 金色(こんじき)の川に浮かぶ真っ白い橋の上で、その下の黄金色(こがねいろ)の流れを、もの言いたげに見下ろすその姿。
 かの人が夢に現れる度、心が弾み、この夢が覚めなければ……。
 そのようなことすら思うようになっていた。
 一体、いつ頃からだろう? この夢をみるようになったのは。
 そして、この夢に出てくるかの人を、これほど愛しく感じるようになったのは――
 ――ああ……そうか。あの時……あの時、かの人を垣間見たその時から……。

 さきほどのまどろみの中にも、かの人はいた。


 朱雀大路から少し東へ入った辺りに、そのお邸はございました。
 そこのお邸の釣り殿に、お二人の殿方がいらっしゃいます。
 お一人は、このお邸の主人らしく、狩衣姿でくつろいでおられます。
 釣り殿で涼をとるには少し季節はずれではありますが、池に浮かぶ紅葉を見るそのお二人のお姿には、人目を惹きつけるものがございました。
「陽楊。また新しい武勇伝を入手しましたよ」
「新しい武勇伝?」
 このお邸の主であろう狩衣姿の殿方が、池の紅葉から、公達……陽楊殿にすいっと視線を移し、にこりと胡散臭そうな笑みを浮かべ、話しかけられます。
「ええ、かの姫君は、まこと噂の絶えぬ姫君で楽しいですよ」
「……葵瑛。お前、本当に好きだな。例の姫君の噂」
 陽楊殿は、あきれ顔で葵瑛殿を見られます。
 口ではこのようにおっしゃっておられますが、実は陽楊殿もまた、この姫君の噂が結構お好きだったのでございます。
 あまりにも常識から逸脱し、破天荒で、聞いているだけで楽しくなる、その姫君の噂……。
「そうはいっても、楽しいではないですか。かの姫君は……今度は、家の者を集め、蹴鞠(けまり)大会を開き、男顔負けのその蹴りっぷりで、見事優勝してしまったというのですから」
 葵瑛殿はくすくすと笑い、また池へと視線を移されます。
 視線を移したその後も、口元へ扇をやり、くくくっと、懸命に笑いをこらえておられるようでございます。
「はあ……!?」
 葵瑛殿の言葉を聞き、陽楊殿はすっとんきょうな声を上げ、お口をぽか〜んと開いてしまわれました。
 しかし、すぐにそのお口は閉じられ、何やらまじめな顔つきになられます。
 そして、今度はにこりと、葵瑛殿のそれに似た意味ありげな笑みを浮かべられます。
「葵瑛。わたしは、よいことを思いついてしまったよ」
「……陽楊……?」
 陽楊殿とは思えぬその笑み、その言葉に、葵瑛殿は、陽楊殿を怪訝そうに見つめられます。
 どうやら陽楊殿は、何かよからぬことでも考えついてしまったようでございます。


 五日ほど後のこと。
 左大臣邸。
 それは、内裏から南東へ少し下ったところに位置しております。
 いつもは静かな左大臣邸ですが、なにやら今宵は、人や牛車などが出入りし、にぎわっているようでございます。
 寝殿前のお庭には、いかにも突貫工事で今できあがったばかりかと思われる、小さくも大きくもない舞台が造られております。
 舞台を前にした寝殿の庇と簀子の間の御簾や几帳は取り払われ、酒宴の用意がなされてあります。
 どうやら、今宵、この左大臣邸では、宴が催されるようでございます。
 また、舞台には、ちらほらと、笛やら琵琶(びわ)やらの楽器を持った男もやってきはじめています。
 今宵の月は、美しい満月。
 宴に興を添えております。
 ……まあ、今宵の宴、月見の宴という名目で催されるのですから、月が美しくなくては意味がありませんけれど。
 その宴の席へと向かうこの家の主の後ろには、公達らしき殿方お二人がいらっしゃいます。
 左大臣は、宴の会場のすぐそばまでいらっしゃると、ふいに立ち止まり、くるりと彼らの方へ振り向かれました。
 二十歳そこそこであろう公達お二人を前に、もうよい年の頃の左大臣が、うやうやしく口を開かれます。
「此度は、ようこそお越しくださいました。と――」
 そのようにおっしゃる左大臣、藤原行成(ふじわらのゆきなり)さま。
 左大臣がそこまでおっしゃると、ついとそのお口の前へ、白く細く、長くて美しい人差し指が現れ、左右に首を振りました。
 その指の持ち主は、公達お二人のうちのお一人でございます。
「それ以上は言ってはなりませんよ、左大臣。――この方の御名は、陽楊。そしてわたしは、葵瑛。決して名前を間違えてはいけませんよ?」
 にこりと微笑む葵瑛殿。
 そうです。このお二人の公達、陽楊殿と葵瑛殿だったのでございます。
 葵瑛殿の微笑みには、何か底知れぬ恐ろしさが秘めておりました。
 じっと見つめられるだけで、凍えてしまいそうなそのような瞳……。
 もちろん、左大臣も次のお言葉を出すことができず、かたまっておられます。
 都随一の有力者、左大臣にこのような思いをさせてしまう葵瑛殿。
 どうやら、ただものではないようでございます。
 葵瑛殿に微笑みを向けられかたまっている左大臣に、そろそろ助け船を出すか……とでもいうように、陽楊殿がふうとため息をもらされました。
 左大臣の前でにこにこと楽しそうに微笑む葵瑛殿を、当たり前のように押しのけ前へ出て、左大臣と向き合われます。
「今日は、すまなかったね。わたしのわがままで……」
 葵瑛殿とは違う、優しげな微笑。
 そこには、みじんも怪しさなどは感じられません。
 そしてその微笑は、気品さえ感じさせております。
「滅相もございません。わがままなどとは……。このようにお姿をお隠しになられてまで、わざわざお越しくださり、光栄の至りにございます」
 左大臣は慌ててそう答えられます。
 そして、誤魔化すかのようにおっしゃいます。
「ところで……そちらのお胸元のお花は……?」
 瞬間、葵瑛殿がまたにこりと微笑み、嬉しそうな顔をされます。
 そして、ずずいと左大臣の前へ身を乗り出されます。
 それに気づかれた陽楊殿は、大きくため息をもらしながら、頭を抱えてしまわれました。
 そのご様子を、左大臣は、どうされたのだろうか?と不思議に見ておられます。
 葵瑛殿は、ご自分の胸元にある薄い紫色をした花を、やわらかく手でいじられます。
「これはね、こちらへの途中、道で見つけたのだよ。そして、遊び心でついつい手折ってしまってね」
 そう言い終わると、また楽しそうにくすくすと笑い出されます。
 憎らしく笑う葵瑛さまの胸には葵が、それを呆れながら見ておられる陽楊さまの胸元には月見草が咲いておりました。
 まこと、今宵の満月にぴったりのお花。宴に興を添えるお花。
 月見草……。本来はこのお花、夏のお花ではありますが、何処かの土地では紫苑を月見草と呼ぶそうでございます。
 ですから、この月見草。月見草ではございますが、普段は紫苑と呼ばれておりますお花でございます。
 今宵の宴の余興のために摘んできたのかとさえ思えてしまうほど、見事に調和のとれたお花の選択――
 また、葵瑛さまの胸元を飾る葵。こちらも、ちゃっかり葵瑛さまの御名にかけられた、遊び心を感じさせる選択でございます。
 遊び心……と申しましても、これほどまでに趣深い遊び心も、珍しいものでございましょう。
 そして、そのようなお花が、まこと、道端に咲いているものなのでしょうか……?


「おや? 陽楊、どうしました? 酔いましたか?」
 宴もたけなわ。
 そろそろ宴も、ほろ酔い加減で盛り上がってくる頃でございます。
 月見という名目で今宵の宴が開かれたというのに、まともに月を見る者などおりません。
 皆、それぞれに御酒を召し上がっておられます。
 これでは、せっかくの月も泣いてしまうというものです。
 そのような中、御酒を一滴も召し上がらずにいらっしゃる忍耐強いお方が四人。
 お一人はもちろん、今宵の宴の主催者であられる左大臣。
 そして、その補佐を務める左大臣の息子、月影の中将(つきかげのちゅうじょう)
 陽楊殿と葵瑛殿もまた、御酒は召し上がっておられないようでございます。
 ――月影の中将。
 その風流な呼び名は、帝より賜ったお名前でございます。
 かつて、宿直(とのい)の際、ふと見上げた夜空の月を見て、ぽつりとこぼしたのが新古今和歌集のお歌。
 そして、それを、帝がたまたまお耳にされたのでございます。
 そのお歌があまりにもその時の情景にあっていたもので、帝はいたく感動し、それから、中将を月影の中将と呼ばれるようになりました。
 それが、今では広く一般に知れ渡っているのでございます。
 月影の中将といえば、この方しかおられません。
 月影の中将。まこと、若いながらに風流を極める御仁のようでございます。
「ああ……。少しな。このにおいにやられた」
 陽楊殿は、少し青ざめ、むりやりに微笑をつくったお顔を葵瑛殿へ向けられます。
 すると葵瑛殿は、今まで見せていたようなふざけた表情ではなく、真面目な表情で陽楊殿を見られました。
 どうやら、他人をからかって遊ぶことが何よりの楽しみ、そのような方でも、さすがに親しい仲の方がご気分を悪くされていては、心配になってしまうのでしょう。
 ――まあ、それがまこと、心からかどうかは、はなはだ疑わしいところではありますが……。
「では、少し風にあたりましょう。ここは空気がよくありませんからね?」
 そうおっしゃられるなり葵瑛殿はすっと立ち上がり、元気のない陽楊殿の手を取り、宴の席を後にされます。
 陽楊殿と葵瑛殿の消えるお姿は、望月の光があたり、薄白い光を放っておりました。
 宴の席にいた者たち誰一人として、このお二人が姿を消されたことに気づく者はおりませんでした。


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update:03/07/06