夢の浮橋
(二)

 宴の席を抜け出された陽楊殿と葵瑛殿は、左大臣邸の東のお庭まで足をのばされておりました。
 この月夜に合う、紅づいたもみじの木に惹かれるように――
 こちら左大臣邸の東のお庭は、別名秋の庭と申しまして、秋の木々、草花を基調としたつくりになっております。
 西は夏、北は冬……。春は、寝殿前のお庭……。
 お庭によって、四季をあらわしております。
 こちらのお庭、都でも有名な四季を彩ったお庭でございます。
 月明かりのもと、それに照らされぽっかりと浮かぶ、東の対のお庭に面した簀子から少しばかりはなれたところに、ぽつんと一本のもみじの木がたたずんでおりました。
 このお庭にはたくさんのもみじの木がありますが、何故かこの木だけは、一人淋しく一本でいたのです。
 そのもみじの木に妙に惹かれるものを感じてしまわれた陽楊殿と葵瑛殿は、そこまでやってこられると、そっと触れられました。
 陽楊殿はあちら側から、葵瑛殿はこちら側から向かい合うように。
「ここで、しばらく休んでいましょうか?」
 葵瑛殿が陽楊殿の顔色をうかがい、確認されます。
 すると陽楊殿は、無言のままこくんとうなずかれました。
 その時でございます。
「姫さま〜! お戻りくださいよ〜!」
 そのような、耳をつんざく叫び声が、東の対一帯に響き渡りました。
 と同時に、ばたばたとかける足音が一つ……。
 その後を追ようにして、しずしずとした品のある歩みの音が聞こえてきます。
 そして、その二つの足音は、同時にぴたりと止まり、また叫び声が……。
「捕まえた!! もう逃がしませんよ! さきほどは、まんまとしてやられましたが!」
 その声が聞こえると、そのやりとりに思わず興味を持ってしまわれた陽楊殿と葵瑛殿は、東の対へと視線を移されました。
 今までせっかく悦に入っていたこの月夜ともみじの興も、このような場面に出くわしてしまってはさめてしまいます。
 お二人が視線を移したその先では、簀子の上で腕をつかまれている女性と、そして腕をつかんでいる女性の二人がいました。
 どうやら、つかまれている方が姫さま≠ナ、つかんでいる方が叫び声を上げた女性……女房のようです。
「ねえ、お願い、(なつめ)。見逃して?」
 腕をつかまれたまま、上目遣いにおねだりをしてみせる姫さまとやら。
 しかし、棗と呼ばれた女房はあくまで毅然とした態度を貫き、姫さまをにらみつけます。
「いいえ、見逃しません。姫さまは、目をはなすと、すぐにとんでもないことをしでかすのですから! 大臣からもきつく言いつかっているのですよ。姫さまを野放しにするなと――」
 恐らく、この左大臣邸の姫君であらせられるのでしょう……。
 ――しかし、それにしても、仮にも姫君であろうに、この言われよう。
 一体、普段、どのような生活をされているのでしょう?
「……ねえ、それではまるで、わたし、動物のようじゃない……」
「そのものですね」
 棗はあっさりと姫さまを切り捨ててしまいました。
 すると姫さまは、何も言わずじっと棗を見つめられます。
 そして、ふと……悲しげな表情を浮かべられました。
「だって……今宵の宴、本当はわたしに婿をとらせるのが目的なのでしょう……?」
「え……?」
 ぎくっとして、思わず棗は姫さまから手をはなしてしまいました。
 棗がぎくっとしたのは、姫さまのその表情にではありません。
 これは明らかに演技であると、棗もわかっています。
 棗がまずいと思ったのは、姫さまのそのお言葉でございます。
 ご本人には秘密にしていたはずであるのに、どうやらばれてしまっているその企み……。
「姫さま……」
 動揺する棗。
 そのような棗を見て、姫さまはにこりと意地悪げな表情をのぞかされました。
「だから、棗は好きよ?」
 姫さまのそのお言葉に、棗はすっかりあきれ返ってしまったようです。
 これもまた、いつものことです。
 何かしら姫さまの発言によって素直に動揺してしまう棗を見るのが、姫さまはお好きのようです。
 それは、どのような意味で……ということは、あえて語らずにおきますが……。
 姫さまは棗を促し、すっとその場に座り、物憂げに高欄に手をかけ、その上にもたれるように顔をおかれました。
 そして、悲しげに、はかなげに、棗を見つめられます。
 棗も姫さまにつられ、その横にすっと腰を下ろしました。
 これは、姫さまの演技ではございません。
 ですから、棗も思わず姫さまにつられてしまったのでしょう。
 物心ついた頃から、女童として姫さまに仕えてきた棗でありますから、姫さまの仕草、言葉一つでも、それが嘘か真か……棗にはすぐにわかってしまうのです。
「……ねえ、いちばん仲のよい棗には言ったわよね? わたしが、結婚しようとしない理由……」
 姫さまに見つめられ、そしてそのように言われ、棗はうかない顔で気まずそうに姫さまから視線をはずしました。
「……ええ。存じております。――そしてそれは……わたくしも同感でございます」
「でしょう? ねえ、だから、もう少し見逃して? ……わたしがもうよいと思うまで、それまで……。もう少しだけだから……」
 姫さまは困ったように微笑まれます。
 それは、はかなげで、今にも壊れてしまいそうな微笑でございました。
 棗もまた、悲しげな表情をし、姫さまを見つめ返します。
 そうしてお二人は、しばらく見つめ合っておられます。
 そのような憂いを帯びた姫さまのお姿は、妙に妖しげな色気を放っておりました。
 先ほどからずっと、このお二人のやりとりを、もみじの木の下で見ておられる陽楊殿と葵瑛殿は、そのような姫さまを目の当たりにし、思わず息をのんでおられました。
 松虫、鈴虫、こおろぎ等のそれぞれ思い思いに鳴くその音色は、遠くで聴こえる管弦の音楽よりも、耳に心地よい音を奏でています。
「わたしはね……わたしのたった一人の殿方の、たった一人の人になりたいの。……いちばんでは嫌なの。一人の人になりたいの……。――そのような方、いらっしゃらないとわかってはいるけれど……もう少し、夢をみたいじゃない?」
 姫さまは棗から視線をはずし、切なそうに、庭の一本でたたずむもみじの木へと視線を移されました。
 そして、気づきかれました。そこに二人の殿方が立っていることに。
 しかし、茂るもみじの葉に邪魔され、月の明かりがそこまでとどかず、殿方お二人の顔には影がかかり、そのお顔は見ることができません。
 ただそこに、二人、殿方が立っているということだけ……。
「あら? あなた方、どうかなさったの? 宴に来た方よね? 迷ったのかしら?」
 姫さまは先ほどとはころっと変わり、すっと立ち上がり、堂々とした気品漂う態度でそうおっしゃいました。
「寝殿は、あちらよ?」
 そうおっしゃりすっと右手をあげ、わいわいとにぎわう寝殿の方向を指差されます。
 釣燈篭(つりどうろう)のたよりなげな灯りに照らされたお姿は、まこと艶かしく、あでやかでございます。
 声をかけられた二人の殿方……陽楊殿と葵瑛殿は、まさに今、姫さま方に気づいたかのように振る舞われます。
 もうかなり前から姫さまと棗に気づいていて、そしてお二人の会話を盗み聞きされていたなどとはわからぬように。
「ありがとうございます。ですが、迷ったのではありませんよ。――そうですね。今宵のこの月に惹かれて……。そして、もみじに惹かれて――」
 くすっと笑う葵瑛殿。
 そのお振る舞いには、優雅さがありました。
 今宵の月ともみじ、そして葵瑛殿。
 まったくもって、美しい絵になっております。
 ……ああ、もちろん、陽楊殿もですが。
 葵瑛殿は姫さまのいらっしゃる簀子側のもみじの木の下に身をおかれていますが、陽楊殿はその反対側、姫さまから見るともみじの木の陰になっている場所におられます。
 そこで、姫さまと葵瑛殿の会話を静かに聞いておられます。
「まあ、そうなの? 風流な方ね」
 姫さまは、くすくすと楽しそうに笑われます。
「まこと、このお庭はすばらしいですね」
 葵瑛殿は、姫さまに負けない、にこりとした笑顔をつくられます。
「ありがとう。このお庭は、わたくしと母のお気に入りですの。そう言っていただけると嬉しいわ」
 すっとどこからか取り出した扇を顔の前へもってきて、ちらりと目だけを見せ、姫さまはおっしゃいました。
 そのお振る舞いは、優雅で、妖艶でございます。
 さきほど、どたばたと簀子を走っていた方と、同一人物などとはとうてい思えない身のこなしでございます。
「ということは、あなたはやはり、こちらの姫君で……?」
「ええ、そうよ。――さあて、わたくしは一体、何番目の姫かしらね?」
 扇の横からのぞく目が、にやりと山型に形を変えました。
 どうやらこの姫さま、葵瑛殿をからかって遊ぶおつもりでございます。
 よりにもよって、葵瑛殿をだなどと……。
 葵瑛殿もまた、人をからかって遊ぶのがお好きな方……。
 何とも、怖いもの知らずな――
 一方、葵瑛殿にしても、何やら楽しげな表情を見せておられます。
 久しぶりに骨のありそうな人物に出会い、喜んでおられるようでございます。
 左大臣家には、三人の姫君がいらっしゃいます。
 ですから、姫さまはわざと、このように意地悪なことをおっしゃったのでしょう。
「ここの姫君は、みなさまとてもすばらしい方ばかりで……。見当もつきません。――とりわけあなたは、都でも稀にみるすばらしい姫君とお見受けいたします」
 くすくすと笑う葵瑛殿。
 どうやら葵瑛殿、今お話をされている姫君がどの姫君であろうと、失礼のないように、このようにおっしゃられたようでございます。
 ――葵瑛殿には、この姫君が何番目の姫君か、すでにおわかりにもかかわらず……。
 もちろん、もみじの木の陰で、言葉も出さず姫さまと葵瑛殿の会話を聞いておられる陽楊殿も然り……でございます。
 実は葵瑛殿。葵瑛殿を知る者すべてに、百戦錬磨≠ニ言わしめてしまうほどの、無敵の恋愛の達人でございます。
 葵瑛殿に目をつけられて落ちなかった女性はいないと、まことしやかに噂されている方でございます。
 ……まあ、言ってしまえば、たんなる女好きなのでしょうけれどね?
 そのような葵瑛殿に、あのような言葉をいただいたにもかかわらず、この姫さまときたら、まったく心揺らいでおられないようでございます。
 それどころか、「ふ〜ん、そう。つまらない」とでも言いたげで、気にとめていないご様子でございます。
 あっさりと、葵瑛殿のお言葉を切り捨てられます。
「まあ、ありがとう。口がお上手なのね?」
 そのように、嫌味を言ってしまう始末でございます。
 事実、姫さまは、百戦錬磨の葵瑛殿のお言葉に、まったくゆらいではおられません。
 まるで、右の耳から入り、左の耳から言葉が抜けていった……そのようなご様子でございます。
 姫さまは、この短い葵瑛殿との会話で、葵瑛殿がどれだけ困ったちゃんなのかということを悟り、まともに相手にしないようにつとめておられるようです。
 あなどれない姫君でございます。
 ……ただ、困ったことに、姫さまと葵瑛殿、どうやら似たところがあるようなのですが……。
 ――そう、人をからかって遊ぶ。そのようなところが。
 これでは、さすがの葵瑛殿も、甲斐がないというものでございます。
 姫さまに返り討ちにあってしまった葵瑛殿は、それでも「おや、まあ……」と楽しそうな笑みを浮かべられ、その横では陽楊殿が、くくく……と必死に笑いをこらえておられます。
 どうやら、久々に骨のある姫君に出会って、葵瑛殿は嬉しく、陽楊殿はおかしく感じられたのでございましょう。
「姫さま……。そろそろ……」
 葵瑛殿との会話を楽しむ姫さまに、おずおずと棗が話しかけました。
「棗? どうかしたの?」
 姫さまは、棗をきょとんと見られます。
「そろそろお戻りにならないと、本当にまずいですよ。大臣にも兄上の月影の中将さまにも、お怒りをかってしまいます」
 困った顔を見せる棗。
 その棗を見て、姫さまはにた〜りと嫌な笑みを浮かべられます。
「あら? わたしは平気よ? 困るのはあなただけ。怒られるのも棗、あなただけよ?」
 そして、ころころと楽しそうに笑い出されました。
「姫さま〜!」
 棗はがばっと簀子へ突っ伏し、声を出して泣き出してしまいました。
「泣いても駄目よ。嘘泣きだとわかっているもの」
 そうおっしゃり、姫さまはにやにやと棗を見下ろされます。
 すると棗は、突っ伏したそのままで、ちっと舌打ちをしました。
 この主人あって、この女房あり……でございますね?
「だけどまあ、本当にそろそろ戻った方がよさそうね。そして、そのわたしと引き合わせるという公達、適当にあしらって遊んであげるとしましょう」
 からからと楽しそうに笑い、そうおっしゃりながら、姫さまを見上げる棗の前にぴんと右手の人差し指をたて、どこか憎らしい表情をのぞかされます。
 適当にあしらって遊ぶとは、これまた大きくでたものですね、姫さま……。
 しかし、この姫さまにとって、それはごく普通のことでございます。
 大きくなんてまったくありません。
 いつもいつも、誰か人を見つけては、そのようにしてからかって遊んでいらっしゃるのですから……。
 そして、それが、容易に姫さまにはできてしまうのです。
 まわりの者からしては、まったくたまったものではございません。
 ……だから、妙な噂が立つのですよ? 姫さま――
「そういうわけだから、ごめんなさい。また機会があれば、お話いたしましょう?」
 姫さまはくるりともみじの木へと体を向け、そのように多少大きめの声でおっしゃいました。
 すると、葵瑛殿はそのお言葉に隠された意味を悟り、にこりと微笑まれます。
「ええ、いつか、また……。機会があれば。楽しみにしておりますよ。姫」
 姫さまもにこりと微笑み、葵瑛殿のお言葉に答えられます。
 そして、簀子に座ったままの棗を立たせ、寝殿の方へと歩いていかれました。
 その光景を、陽楊殿も葵瑛殿も、じっと見つめておられます。
 言葉に隠された意味……。
 それは、今度会った時は、どちらが勝っているか、決着をつけましょう?
 そのような宣戦布告だったのでございます。
 それに、葵瑛殿も受けてたったということですね?
 それにしても……どちらがより破綻した性格であるかを競うなど……やはり、歪んでいる証拠なのでしょうか? 困ったちゃんの証拠なのでしょうか?
 わいわいとにぎわう音と光の世界へ姿を溶かしていく姫さま。
 それを見ていると、どこか悲しげな、そして優しげな気持ちになってしまう陽楊殿と葵瑛殿。
 お二人は、姫さまが消えていかれた寝殿の方を見つめ、同時にほうっと小さなため息をもらされます。
 それに気づいたお二人は、互いに見つめあい、困ったようにくすりと笑われました。
 どうやら、このお二人――


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update:03/07/06