夢の浮橋
(三)

 がっしゃーん……。
 姫さまのお姿が、陽楊殿にも葵瑛殿にも確認できなくなってすぐのことでございます。
 姫さまが消えたその光の中から、そのような音が聞こえてきました。
 まるで何かを倒したような、そのような音――
 陽楊殿も葵瑛殿も、何事か!?と互いに顔を合わされます。
 そして、何を思われたのか、こくんとうなずき合うと、寝殿の方へとかけていかれました。
 一方、こちら寝殿では、今なお宴にはなをさかせております。
 管弦の演奏と酒が入り、騒いでいる殿方たちの耳には、先ほどの音はまったく入っていない様子でございます。
 何事もなく、宴は続きます。
「ひ、姫さま、落ち着いて!!」
 顔を真っ青にして、そのように叫ぶ棗。
 その前には、火の消えた燈台を持った姫さまがいらっしゃいます。
 そして、姫さまが持つ燈台の先では、ぺたんと床にしりもちをつく殿方が一人……。
 また、その殿方の横には、月影の中将がいらっしゃいました。
「お黙り、棗! この男、許さないわ!」
 額に青筋を立てた姫さまは、ぎろりと棗をにらみつけられます。
「そうはおっしゃっても、姫さま。これはやりすぎです!」
 そう言って、棗は姫さまから燈台を奪い取ろうとしますが、あっさり払われてしまいました。
「姫さま〜! ――嗚呼、中将さま。どうか姫さまをおとめくださいませ」
 棗は姫さまからばっとはなれ、月影の中将に泣きつきます。
 月影の中将はと申しますと、姫さまに燈台を突きつけられている殿方の横で、はあ……と大きなため息をつき、我関せずといったご様子で、あらぬ方向を眺めておられます。
 この月影の中将、今、目の前でとんでもないことが起こっているというのに、この態度。
 まったく、いい性格をされているようです。
「こうなってしまった以上、もうとめられまいよ。――かわいそうだが、少将には生贄になってもらおう」
 お待ちください、中将さま。一体、何がどのようになってこのような状況になっているのかは存じませんが、本当に、本当にそれでよいのですか!?
 姫さまに燈台を突きつけられている殿方は、月影の中将にまで見放されてしまい、がたがたと震えだします。
 それを見て、姫さまは苦虫を噛み潰したかのような表情をされます。
「口ほどにもない男ね」
 そして、そのような暴言をはいてしまわれました。
 ところで、これに至るまでの経緯はと申しますと……この床にしりもちをついている殿方。実は、今宵、姫さまに引き合わされるはずの殿方でございました。
 この殿方が余計なことをしてしまったために、今のような状況になっているのでございます。
 突如姫さまがお姿を消され、そして戻ってこられるご様子もないので、兄上である月影の中将に連れられ、こちら、普段姫さまが使っておられる東の対へと案内されてくる途中、寝殿と東の対を結ぶ渡殿(わたどの)ではちあわせたのでございます。
 そして、はちあわせた姫君が、今宵の目的の姫君だとわかった殿方は、いきなり姫さまに言ってしまったのです。
 恐らくそれは……いきなり姿をお消しになった姫さまのその行いから、こけにされたと、誇りを傷つけられたと思ってしまったからでしょう。
「あなたが香姫ですね。はじめまして。わたしは、近い将来、あなたの夫となる者です」
 そこまではよかったのです。そこまでは――
「あら、そう?」
 まったく興味がないというように、あっさりとあしらわれる姫さま。
 そして無視し、そのまま横を通り寝殿へと向かおうとされた時、姫さまはこの殿方に腕をつかまれてしまいました。
「そのようにしていられるのも今のうちですよ? わたしがあなたの夫となった時には……。――それにしても、そのようなことばかりされているから、いつまでたっても独り身なのですよ? あなたを受け入れるわたしに感謝していただきたいものだ」
 そのようにふんと鼻で笑い、高飛車なことを言ってしまったので、当然、姫さまのお怒りをかってしまうのです。
 姫さまはぶんと殿方の腕を振り払い、勢いあまって、どういうわけかそこにあった燈台にその手が当たり、燈台は音を立てて倒れてしまいました。
 それが、あのがっしゃーんという音でございます。
 姫さまは、倒れた燈台に一瞬気をとられました。
 そのような姫さまに向かって、殿方は言ったのです。
「本当、このような姫、大臣の姫でなければ、わたしとて相手になどいたしませんよ」
 殿方は、苦々しく顔をゆがめました。
 それを見て、月影の中将は、あちゃあ〜というような表情を浮かべられ、それから我関せずの態度に入られたのでございます。
 いらぬ火の粉が飛んでこないように……。
 さすがに、月影の中将も、間違ってはいないとはいえ、ご自分の妹姫がここまで言われては、快くなど思うことができません。
 ですから、姫さまのやりたいようにさせようとされたのです。
 ……いいえ、それとも、下手に姫さまをとめては、今度はご自分が怪我をされる、そう思っておられたのか……。
 それは、月影の中将だけがご存知です。
 姫さまも、ここまでこけにされては、黙っておられません。
 姫さまの頭の糸はぶつんと切れてしまい、ばっと床に倒れている燈台を拾い上げ、そのまま殿方ののどもとへ突きつけられました。
 あと一寸ほどで、燈台の先は、殿方ののどへ達し、そのまま押しつぶしてしまう勢いでございます。
 いきなりのその行動に、殿方の腰は抜け、へろへろとその場に座り込んでしまいました。
 それに合わせ、姫さまの持つ燈台の先も、殿方ののどもとへと移動いたします。
 そして、棗の「姫さま、落ち着いて!」という台詞へと移っていくのです。

「このまま、一気にやってしまおうかしら?」
 にやりと陰気な笑みを浮かべ、そして不気味に微笑まれる姫さま。
 背筋に悪寒が走るような、そのような異様な表情でございます。
 ええ、もちろんこの表情、姫さまの策略でございます。
 より恐ろしく演出するための……。
 こういうところには、ぬかりがございません。
 しかし、そのような、月影の中将にも棗にも容易にわかってしまう姫さまの演技も、今日はじめて会ったこの殿方には、嫌というほどに通じてしまうのです。
 情けないことに、がたがたと震えております。
「はい。そこまで。それくらいで許してさしあげなさい」
 燈台を持つ手にぎゅっと力をこめた時、ふいに薄闇の中からそのような声がかかりました。
 姫さまも月影の中将も棗も、声の聞こえた方へとばっと振り向かれます。
 殿方も、その後から、ゆっくりと震える首を動かしました。
 姫さま方が目線をやったその先では、うまい具合に明かりの消えた釣燈篭の下に、二人の殿方が立っておりました。
 その殿方お二人は、先ほど、姫さまと会話をされていた陽楊殿と葵瑛殿でございました。
「あなた方は……」
 姫さまはそうぽつりとこぼされると、ふうっとため息をつき、渋々持っていた燈台をご自分の横にことんと置かれました。
「みっともないですよ、少将。それでは、香姫どころか、他の姫からも足蹴にされてしまいますよ」
 葵瑛殿が馬鹿にするようにおっしゃられます。
「な……っ!!」
 殿方はそのように言われ、反論しようとしましたが、そこでやめました。
 そして、かわりに殿方の口から出た言葉は、このようなものでした。
「ひょ、兵部興宮!? 何故、あなたがここに……!?」
 兵部卿宮……。
 それは、葵瑛ど……さまに向けられた言葉でございました。
 明かりが消え、はっきりとその姿を見ることができないお二人ですが、その表情が不気味に笑っていることは、かもし出す雰囲気から、容易にこちらにいる姫さま方、そして殿方にもわかってしまいます。
 それに気づいた殿方は、ちっと舌打ちをし、今まで震えていた体を奮い起こし、ばっと立ち上がり、お二人がいる寝殿の方へとどすどすと歩いていきます。
 そして、お二人とのすれ違い様、ぎっと葵瑛さまをにらみつけていきました。
 殿方の精一杯の抵抗だったのでしょう。
「まったく……。最近は、品のない者が多くて困りますよ……」
 ぱらりと扇を開き、顔の前へ持ってきて、そのようにあきれたように葵瑛さまがおっしゃいました。
 そのななめ後ろで、陽楊殿も扇を顔の前へやり、ふうと大きなため息をついておられます。
 そのようなお二人に、姫さまが不服そうにおっしゃいます。
「――一応、礼を言っておくわ。……とめてくださりやがってありがとう」
 そして、ぷんとそっぽを向いてしまわれます。
 どうやら姫さま、途中でとめられたことを、相当根に持っておられるようです。
 せっかくおもしろくなってきたそのようなところでとめられ、みすみすおもちゃを手放すことになり、おもしろくなかったのでしょう。
 ところで姫さま……。先ほど、あの殿方が口にした言葉、覚えていらっしゃいますか?
 たしか……兵部卿宮とか何とか――
 そのような姫さまの暴言に、顔色一つかえず、葵瑛さまは答えられます。
 いいえ、むしろ、葵瑛さまは、そのような姫さまの反応を楽しんでおられるご様子……。
「香姫。また会う時も、今のままお変わりなく。――わたしも、こちらの男も、あなたのそのようなところ、気にいりましたよ」
 そうおっしゃられ、陽楊殿と葵瑛さまはにこりと微笑み、寝殿の方へと歩いて行かれました。
 姫さまは相変わらず、ぷんとそっぽを向かれたままでございます。
 棗はぽか〜んとして、いまいちこの状況がのみこめていないようです。
 ただ月影の中将だけは、陽楊殿と葵瑛さまがしでかされたこと、そして、葵瑛さまのそのお言葉がどれだけ重大なことかわかっているご様子で、複雑な表情をしておられました。
「まったく……。このおてんば姫を調子づかせるようなことを言い残して、さっさと退散しないでいただきたいものだ……」
 疲れたようにため息をもらされます。


「おや? どうしたのです? 陽楊……。先ほどからおかしな顔をして……」
 こっそりと一つ牛車に乗り込み、左大臣邸を後にされた陽楊殿と葵瑛さまは、帰宅の途についておられます。
「まあ、左大臣邸についてすぐの辺りから、あなたの様子はおかしかったですけれどね……? そう……左大臣が出迎えにやってくるその前から……」
 くすくすと笑われる葵瑛さま。
 その葵瑛さまを、恨めしそうに、ぎろりと陽楊殿はにらみつけられます。
 ……頬を赤らめて――
 そのような、からかうと楽しいであろう陽楊殿を、葵瑛さまが放っておくはずがございません。
「わたしが気づいていないとでも思っていました? 御簾越しに垣間見た、月明かりに照らされた、今宵の妖艶なる花を見つめるあなたに――」
 意味ありげに、ほのかな笑みを陽楊殿へ向けられます。
 その表情は、挑発的にも見えました。
 しかし、陽楊殿はあえて、それには触れようとはされませんでした。
 ごとごとと音を立て、牛車は夜の朱雀大路を北へと消えていきます。


 翌朝。朝ぼらけ。
 夜が明け、ぼんやりと辺りが明るくなりはじめたその頃。
 姫さまは目が覚め、東の対の簀子を歩いておられました。
 どうやら、珍しくまだ寝ている女房たちが起きてくるまで、暇でもつぶすおつもりのようです。
 女房たちは、昨夜の宴で疲れ切っているようです。
 姫さまつきの棗もまた、昨夜の一件で疲れがでたのでしょうか、まだ起きてきておりません。
 簀子を歩く姫さまは、ふいに足をとめられました。
 そして、高欄に手をかけ、お庭を眺められます。
 姫さまがいらっしゃるそこは、昨夜、陽楊殿と葵瑛さまと出会った、そこでございます。
 昨夜同様高欄に手をかけ、その上にけだるそうに顔をおき、ぼんやりともみじの木を眺められました。
 そうしてしばらく見ていると、もみじの木の下に、一部、まわりの色と異なる色があることに気づかれました。
 それから、ばっと立ち上がり、そのまま簀子からお庭へおり、裸足のまま、もみじの木へと駆け寄られます。
 そして、見つけられました。もみじの木の下にある、もみじ色でないものを――
 姫さまが見つけられたそれは、もみじの落ち葉の上にそっとおかれた、一輪ずつの葵と月見草。
 その二輪の花を拾い上げ、もてあそぶようにくるくるとまわされます。
 そうして、ぽそりとつぶやかれます。
「どちらが光の方で、どちらが影の方……?」
 姫さまはくすっと微笑まれ、愛しそうに、二輪の花を胸の辺りできゅっと握り締められます。
「また……会えるかしら? 葵の君と、月見草の君……」
 姫さまもまた、紫苑は時に、月見草と呼ばれることがあると、ご存知だったようでございます。


 ――そして今宵も、浮橋にたたずむ、かの人の夢をみる。


夢の浮橋 おわり

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update:03/07/06