葵優抄
(一)

 兵部卿宮と申しますと、この方、帝の一の宮である、高良親王でございます。
 この方は、いろんな意味で、それはもう、都にその名をとどろかせる、有名な宮様でございます。
 ある時は、宮中一の困ったちゃんといわれ、ある時は、都一の婿がねとうたわれる、正反対の評価を受ける宮様でございます。
 宮様と仲の良い東宮は、「怒らせると、死んだ方がましと思うくらいの後悔を与えられる」と、それはもう、宮様を怒らせることを恐れておられます。
 そして、この東宮の唯一のお妃、香姫さまは、「まったく、この上なく癪に障る人ね」とおっしゃり、東宮ほどではございませんが、ある意味、恐れられると同時に、楽しんでおられます。
 兵部卿宮のお邸のお庭には、宮様を物語るかのように、狂い咲きの桜≠ニ呼ばれる、秋に開花をむかえる桜の木があることでも有名でございます。
 このお話は、そのような兵部卿宮こと葵瑛さまの、ある日のご様子を記したものでございます。


 こちらは、東宮御所。
 もちろんそこにいらっしゃるのは、東宮であられる陽楊さまでございます。
 時は、桜の頃より月日が流れ、そろそろ梅雨に入ろうかとしていた頃でございます。
 香姫さまが陽楊さまのもとへ入内され、数ヶ月が過ぎたある日のことでございます。
「陽楊、遊びに来ましたよっ」
 簀子と庇の間に垂れる御簾をすっと持ち上げ、葵瑛さまがひょいとお顔をのぞかされました。
 すると、陽楊さまは、この上なく嫌そうに葵瑛さまを見られます。
「遊びにって……。葵瑛、お前ね〜……」
 そして、疲れたように肩を落とされます。
「参内してきてすぐにこれなのだから。よほど、兵部省というところはお暇なところなのね?」
 うなだれる陽楊さまの陰から、ひょこっと香姫さまがお顔をのぞかされました。
 まるで葵瑛さまのその発言を楽しんでおられるような、呆れておられるような、そのようなご様子でございます。
「まったく……。お前は、それでも一応、兵部卿だろう?」
 陽楊さまは、香姫さまに、「このような奴の相手などしなくてよい」と、ぐいっとご自分の陰へと押し戻されます。
 そこで、葵瑛さまの視界からは、完全に香姫さまのお姿が消えてしまいました。
 完全に……といっては語弊があるかもしれません。そのお衣装と、長く垂れた黒髪を除いて、隠されておりましたので。
「ええ、そうですが? それが何か?」
 陽楊さまの「兵部卿だろう?」という問いかけに、けろっとしたお顔で葵瑛さまは答えられると、すっと陽楊さま方へと歩み寄られ、すとんとその場に腰を下ろされてしまいました。
 そのような葵瑛さまをご覧になり、陽楊さまは、もう完全に諦めたようにため息をつかれます。
「――もう。いい……」
 葵瑛さまには、これ以上何を言っても無駄だと、おっしゃられているようでございました。
 その陽楊さまのご様子に、葵瑛さまは実に愉快そうにくすくすと笑われます。
 扇などをぱらりと開き、ちょいとお口を隠されながら。
「それにしても……あなた方もよく飽きないものですね? 朝から晩まで、いつもそうしてご一緒で……」
 あらぬ方向を眺め、呆れたように葵瑛さまがつぶやかれました。
 香姫さまは、かつて葵瑛さまのお母上、桐壺更衣が殿舎の一角を賜っていた淑景舎(しげいしゃ)を、現在まるまる賜っておられます。
 桐壺更衣が亡くなられてからは、次に香姫さまが賜るまで、誰も賜ることを許されなかった殿舎でございます。
 また、陽楊さまがおられる東宮御所、昭陽舎(しょうようしゃ)からも近く、こうして暇さえあれば、香姫さまは陽楊さまを訪ねておられます。
 香姫さまは、陽楊さまのお体をまたぐいっと押しのけ、ひょこっとお顔をのぞかされます。
「あら? もしかして、葵瑛さま、うらやましいの?」
 そうおっしゃり、けらけらと笑いはじめてしまわれました。
 葵瑛さまは、そのような香姫さまの腕をぐいっと引っ張り、引き寄せられます。
 それをご覧になった陽楊さまが、口をぱくぱくとさせ、目を白黒させて、葵瑛さまを凝視されるのは明々白々。
「くすくす。うらやましいといえば、そうかもしれませんね? 何しろ、あなたを独り占めしているのですから」
 香姫さまに熱い視線を注ぎそうおっしゃると、これみよがしに、むぎゅっと抱きしめてしまわれました。
 香姫さまときたら、慌てるでもなく、妙に落ち着いたご様子で、素直に葵瑛さまの腕の中におさまっておられます。
 しかし、尋常ではないのが陽楊さま。葵瑛さまが香姫さまを抱きしめられた瞬間、がばっと立ち上がり、真っ赤なお顔で仁王立ちをして、葵瑛さまを見下ろしておられました。
 ぎろりとした、怒りに満ちたお顔でございます。
 それでも、葵瑛さまときたら、そのような陽楊さまのお怒りもどこ吹く風、ひょうひょうとした態度で、香姫さまを抱かれたままでございます。
「ねえ、香姫殿。このようなボンクラ東宮など捨ててしまって、わたしのもとへ来ませんか? きっと、わたしの方が、今より何十倍も楽しい生活を送らせてあげられますよ?」
 にやりと、明らかに陽楊さまをからかっておっしゃいます。
 すると香姫さまも、それまで平然とされていたお顔を、不気味な微笑みを浮かべるお顔へと変えていかれます。
「そうね〜。それもいいかもしれないわね? 葵瑛さまといた方が、きっと刺激的な生活を送れそうね」
「では……!」
「ええ!!」
 香姫さまと葵瑛さまはそうおっしゃると、すっと立ち上がり、お二人そろって簀子へと歩いていかれます。
 するともちろん、陽楊さまがこのまま黙っておられるはずもなく、慌てて追いかけられます。
 そして、御簾を上げる葵瑛さまに連れられ、今まさに簀子へと踏み出そうとされている香姫さまの腕をつかまれました。
 情けなく眉尻を下げ、今にも泣き出してしまいそうな表情で、香姫さまを見つめられます。
 そのような取り乱した陽楊さまのお姿を見て、香姫さまも葵瑛さまも、にたりと微笑み、とても愉快そうに笑いはじめられてしまいました。
「きゃははっ!! 陽楊さまってば、まだこのような冗談にひっかかるの!? 進歩のない方ね〜!!」
 香姫さまにいたっては、そのような暴言をおはきになり、お腹をかかえ笑っておられます。
 葵瑛さまももちろん、上げておられた御簾をぎゅっとつかみ、くくくと肩を揺さぶり、必死に笑いをこらえておられるようでございます。
 どうやら、香姫さまが入内してなお、香姫さま、葵瑛さま組で、陽楊さまをからかって遊んでおられるようでございます。陽楊さまで暇をつぶされているようでございます。
 それにしても、葵瑛さまは、参内してすぐに東宮御所へやって来られるとは……香姫さまではございませんが、本当に暇な方でございますね?
「では、わたしは、この後、左大臣と約束がありますので」
 そうして笑う香姫さまと、真っ赤になったり真っ青になったりされる陽楊さまに言い残し、葵瑛さまはそのまま御簾を下ろそうとされます。
 御簾が半分ほど下ろされた時、香姫さまがようやく爆笑をやめ、だけどまだ少し笑いつつ、葵瑛さまのお顔をちらっと見られました。
「父様と?」
「ええ。大切なお話があるのですよ」
 明らかに作ったようににっこりと微笑み、葵瑛さまは完全に御簾を下ろされました。
 そして、そのまま去っていかれようとする葵瑛さまへ向かって、陽楊さまが妙に落ち着いた声色でおっしゃいました。
「待て、葵瑛。お前には、弱みというものはないのか?」
 それは、常々、陽楊さまが思っておられたことでございます。
 そしてまた、香姫さまもそのことが気になっておられました。
 香姫さまは、御簾の外でこちらに背を向ける葵瑛さまを見つめられます。陽楊さまの問いのそのお答えを待って。
「……もちろん、ありますよ?」
 向こうを向いたまま、葵瑛さまは静かに答えられました。
「何だ?」
 少しの間の後、葵瑛さまがお口を開かれます。
「ふふっ。それはですね、香姫殿ですよ」
 そうおっしゃり、葵瑛さまは、ふふふと、何やら意味ありげに笑いながら歩き出されます。
 その葵瑛さまの背に向かって、香姫さまはぱらりと扇を開き、にっこりと微笑まれました。
「それは、愉快ねっ」
 去り行く葵瑛さまの後ろ姿が、そのお言葉に同意されたことは言うまでもないでしょう。
 そして、葵瑛さまのお答えを聞き、はやまったことをした、聞かなければよかったと後悔されたのは、もちろん、陽楊さまでございました。
 葵瑛さまは、何とも意味深長なお言葉を残し、優雅に東宮御所を後にされるのでございます。


 梨壺(なしつぼ)を出て、麗景殿(れいけいでん)の簀子で、葵瑛さまはふいに呼び止められました。
 葵瑛さまが振り返られると、そこには、息を荒げた青年が立っておりました。
 その青年を見て、葵瑛さまは不思議そうに首をかしげられます。
「おや。これは少丞。どうしたのだい?」
 そのようなあっけらかんとした葵瑛さまのお振る舞いとお言葉に、少丞は爆発してしまいました。
 葵瑛さまのお耳にもしっかりと聞こえておりました。少丞の理性が切れる、ぷつっという音が。
「どうしたのだいではございません。まったく、参内するなり姿を暗ましやがってくださいまして!! 兵部卿なら、兵部卿らしくしてください!!」
「何故……? どうしてわたしが?」
 葵瑛さまは、少丞の言葉に一瞬驚いたように静止され、すぐにその言葉の意味が理解できないとばかりに、疑問符を乱舞させはじめられます。
 それはもう見事に、頭のまわりに楽しいくらいに飛びかっておりました。
 さらには、もう少丞の顔すら見ていないと、あらぬ方向を向かれる始末でございます。
 少丞は完全に、眼中からはずされてしまったようです。
 そのような葵瑛さまを見て、少丞はもう完全に諦めてしまったのか、がっくりと肩を落とし、すごすごと葵瑛さまに背を向け歩いて行ってしまいました。
 力なく歩き去るその後ろ姿には、哀愁すら漂っておりました。
 まるで、世間に疲れた、世間に負けたと……。
 いえ、実際には、世間にではなく、葵瑛さまになのですけれど。
 この宮中一の困ったちゃん、兵部卿宮には、向かうところ敵なしなのでございます。
 そのような気の毒な少丞を見ることもなく、先ほどからあらぬ方向を見ている葵瑛さまでございますが、見ておられるそこは、宣耀殿(せんようでん)から常寧殿(じょうねいでん)へと続く渡殿でございました。
 渡殿の上には、まさに今、仲睦まじく寄り添い、そして常寧殿へと渡っていかれる香姫さまと陽楊さまのお姿がございました。
 葵瑛さまは、それを物悲しそうに、切なそうに見つめておられたのでございます。
 もう、どれほど欲しても、手をのばしても、手に入らない、何か大切なものを見つめるように。
 香姫さまと陽楊さまは、この後、常寧殿で催される、中宮主催の管弦の遊びにご出席されるため、常寧殿へと渡っておられたのでございます。


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update:03/11/07