葵優抄
(二)

 清涼殿の簀子。
 そちらで、葵瑛さまのお約束の方、左大臣が待っておられました。
 帝の御座所である清涼殿を待ち合わせ場所にするなど、その神経を疑ってしまいそうになりますが、葵瑛さまにとってはとるに足らないことのようでございます。
 左大臣も、葵瑛さまのご命令ですので、渋々従うしかございませんでした。
「やあ、左大臣。待ったかい?」
「いえ。それほどでも……」
 簀子からお庭を眺めておられる左大臣に、さわやかな微笑みを向けながら、葵瑛さまが歩み寄られます。
「ところで、宮。先ほど、あなたのところの少丞が、血相をかえて探しておりましたよ? よろしいのですか?」
「ああ、あれかい。あれとは、先ほど麗景殿辺りで会ったよ。だからもういいのだよ」
 にこりと微笑む葵瑛さまを、この上なく疑わしそうにじろりと見つめられる左大臣。
 さすがは左大臣でございます。
 葵瑛さまのこの行動、発言をよく理解されております。
 そのようなことがあるはずがないのですから。もういいなどということが。
 しかし、左大臣も、葵瑛さまには何を言っても無駄だとご存知なので、それ以上は何もおっしゃろうとはされませんでした。
 ただただ、呆れたように、葵瑛さまを見られるだけでございます。
「それで、宮。このようなところに呼び出してくださり、わたしにご用とは何でしょう?」
 一応、丁寧な口調でおっしゃられているように思えて、実はさりげなく無礼なもの言いの左大臣。
 まあ、葵瑛さまと左大臣の仲。そのようなことくらい、日常茶飯事でございます。
 そう。まだ香姫さまが左大臣邸におられた頃、毎日のように葵瑛さまがやって来られ、左大臣と押し問答をされていたのでございますから。
「そうそう。そのことなのだけれどね、左大臣」
 もちろん、葵瑛さまも、左大臣の無礼なもの言いなど気にとめておられません。
「棗を、養女にする気はないかな?」
「はあ!?」
 左大臣は、いきなりの葵瑛さまのお言葉に、思わず持っておられた扇をぽろっと落としそうになられました。
 それほどまでに、左大臣を動揺させる言葉だったのでございます。
「……それはまた、何故?」
 さすがは左大臣。すぐに気を取り直し、だけどまだ少しの動揺の色を見せつつ、葵瑛さまに確認されます。
「だって、棗が欲しいからね。わたしに釣り合うだけの身分を与えてやって欲しいのだよ」
「……ということはもしかして、宮は棗と……」
 嫌〜な予感がしてきた……とばかりに、疑わしげに、左大臣は葵瑛さまをじと〜りと見られます。
「ああ。わたしの妻にするつもりだよ」
 ……。
 葵瑛さまのそのお言葉を聞いた瞬間、左大臣の脳の全機能が停止してしまいました。
 たしか今、葵瑛さまはこうおっしゃいましたよね?
 棗を妻にすると。
 それはすなわち、葵瑛さまが棗を北の方として迎え入れられるということで……。
 ええ!? そのような爆弾発言をされては、都中がひっくり返ってしまいますよ。おわかりですか!? 葵瑛さま。
 それは、女性の方々だけではございません。都の名だたる貴族の皆さまも、同様でございます。
 何しろ、葵瑛さまは、その困ったちゃんぶりと一緒に、都一の婿がねといわれているお方なのでございますから。
 頭を抱え、どっと柱にもたれかかる左大臣に向かい、葵瑛さまは、聞いてもいないのに、何故そのような発言をするに至ったかの経緯をお話されはじめました。
 扇をお口もとへやり、ふうっと深いため息をもらし、うっとりとお庭を眺められます。
 うっとりと……というよりは、今の葵瑛さまは、物悲しそうにといった方がしっくりくるかもしれません。
「香姫殿も入内し、すっかり後宮にとけこ……んではいないようだけれど、ああして毎日、東宮といちゃついているのを目にするとね〜。わたしも、ふと淋しさと同時に、うらやましさを感じてしまう時があるのだよ。わたしは、一度に、遊び相手を二人も失ってしまったことになるからね? だから、あのお二人の次に気に入っている棗をだね、是非ともわたしのものにしたいと……。あのお二人のようにね……。――わかるかな? この微妙な男心が……」
「そのようなもの、わかりたくもありませんね」
 今の今まで、たしかに思考を停止していた左大臣でありますが、葵瑛さまのこのお言葉を聞き、即座に正気に返られます。
「あなたの暇つぶしのためだけに、人一人の人生を狂わせるわけにいきません」
 そして、きっぱりとそうおっしゃいました。
 たしかにその通りでございます。葵瑛さまのふざけたお遊びのために、棗を犠牲にすることなどできません。
「それはまた、手厳しい。どうして、暇つぶしだなどと思うのだい? わたしは、本気だよ?」
「暇つぶしに決まっているではありませんか。あなたの考えることですからね」
 柱からはなれ、きっと葵瑛さまを見つめられます。
「まったく……。そのようなお戯れはほどほどにして、そろそろ本気で、身をかためる気はないのですか?」
 左大臣のお言葉に、葵瑛さまはちょっと驚いたようなお顔をされ、お庭から左大臣へと視線を移されます。
 そして、急に真剣な眼差しをされ、きっと見つめられました。
 お口元には、閉じたままの扇をやり……。
「そうは言うけれどねえ、左大臣。世の中には、まこと、美しく素晴らしい女性ばかりで、一人にしぼるなどということ、わたしにはとてもできないのだよ」
「……」
 左大臣はもの言いたげに、妙に真剣なお顔をされる葵瑛さまをじっと見られましたが、すぐにふうっとため息をもらされました。
「まったく……。一人でなくてもよいですから、とにかく早く、どなたか決まった方を決めてください。でないとそのうち、都の全ての女性が、あなたの毒牙にかかるとも知れませんからね」
「毒牙ではないよ。わたしはね、皆平等に愛しているだけ」
 ぱらりと開けた扇の向こうで、にっこりと葵瑛さまの目が微笑みました。
 左大臣は、葵瑛さまのそのお顔をご覧になり、「う……っ」と小さなお声をもらすと、一瞬、葵瑛さまを恐ろしく感じてしまわれました。
 たしかに微笑んでおられるようでございますが、その目の向こうに潜む、深い深い悲しみのようなものを感じ取ってしまわれたからでございます。
 葵瑛さまは、一見、戯れにおっしゃられているようでございますが、淋しいとうらやましいというお気持ちは、嘘ではございませんでした。
 かつてのように、なかなか香姫さまにお会いすることがかなわなくなり……。
 葵瑛さまは、まだ忘れられないのでしょう。かの姫君を。
 だから、まだ一人にしぼる……いえ、他の姫君に目を向けることができないのでございましょう。
 かの姫君以外に、ほのかな淡い思いを抱いた姫君はいらっしゃいましたが、その姫君ももう、今では人のものになってしまいました。
「……望んだ姫が手に入らぬのなら……愛など意味のないものだからね?」
 そして、葵瑛さまは、ふっと淋しそうな顔をされます。
 その目は、現実をとらえていないようでございました。
 どこか遠く、遥か過去を見ておられるようで……。
 そのような葵瑛さまをご覧になり、左大臣は、今度は、「まったく、この方に真に愛されてしまった姫君は、気の毒なことだ」と、心の底から思われていたようでございます。
 そして、望んだ姫が手に入らぬのなら、愛など意味のないものと、あの葵瑛さまに言わせてしまうその望んだ姫という方に、少し興味をもたれてしまいました。
 この葵瑛さまを、それほどまでに思いつめさせる姫。
 左大臣は、その姫が実在する……もしくはしたと、確信しておられました。
 葵瑛さまの、普段ではあり得ないほどの、このはかなげなお姿から。
 その時でございました。弘徽殿(こきでん)の方から、聞き覚えのある女性の声がかかりました。
「あ! 葵瑛さま、このようなところにいたの? もうっ、探したのよ!」
 そう言って、その女性は、葵瑛さまへと駆け寄ってきます。
 その女性の姿を見たとたん、葵瑛さまのお顔はぱっと嬉しそうにほころびました。
 それを、左大臣は見逃しておりませんでした。
 ですから同時に、怪訝な面持ちで、葵瑛さまとその女性を見てしまっておわれたのでございます。
「おや? これは香姫殿。どうしたのです? たしか、これから、中宮主催の管弦の遊びに出られるはずでは……?」
 衣のすそを振り乱しながら、葵瑛さまへ駆け寄ってこられる女性――すなわち、香姫さまなのですが――に、微笑みかけられます。
 左大臣は、そのような香姫さまを「また、このおてんば姫は。もっとしとやかにできないのか! 東宮女御ともいう身にありながら」と、厳しいお顔でにらみつけておられます。
 しかし、香姫さまがそのようなことを気にされるはずもございません。
 葵瑛さまへと駆け寄られると、左大臣など無視して、にっこりと微笑み、葵瑛さまを見上げられます。
「ええ、そうよ。それでね、葵瑛さまもご一緒にいかがかと思って」
「それはまた……。よいのですか? いつもは、わたしを寄せつけようとしないのに。また陽楊がやきもちをやきますよ?」
 少し困ったように、だけどそのお顔の裏では香姫さまをからかわれるように、葵瑛さまはくすくすと笑われます。
 すると香姫さまは、ふんぞり返り、得意げに微笑まれます。
「ふふ。今日は特別よ。よく琵琶を弾く方をお呼びしているの。だから、葵瑛さまも誘いましょうって。陽楊さまも中宮さまもお待ちよ。さあ、行きましょう」
 琵琶……?
 その言葉に反応され、一瞬我を失ったかのような葵瑛さまの腕を、香姫さまはぐいっと引かれます。
 すると同時に、葵瑛さまは我に返られ、困り果てたように、だけど嬉しそうに、香姫さまを見つめられます。
「はいはい。――まったく、わがままな姫ぎ……女御さまだ」
 そのお言葉とは裏腹に、葵瑛さまの表情はとても優しげでございました。
 ぐいぐいと手を引き、弘徽殿へと引っ張っていく香姫さまの後ろ姿を、愛しそうに、まぶしそうに、だけどどこか切なそうに、葵瑛さまは見つめておられます。
 そうして、去っていかれるお二人……とりわけ葵瑛さまをご覧になり、左大臣は少し不安になってしまわれました。
 すっきりとしない気分に、襲われたようでございます。
 複雑そうな表情を浮かべ、葵瑛さまを見つめておられました。
 左大臣の視界から、葵瑛さまのお姿が完全に消えてしまっても、なお――


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update:03/11/07