葵優抄
(三)

 葵瑛さまは、香姫さまに引っ張られ、陽楊さまと中宮が待っておられる常寧殿へとやって来られました。
 香姫さまが、勢いよく両手でばさっと御簾を上げられると、その向こうでは、陽楊さまと中宮がこちらを向いて微笑んでおられました。
 どうやら、孫庇をどたばたと駆けてこられる足音で、香姫さまがやってこられたことに気づいておられたようでございます。
「お待たせ!」
 香姫さまは、陽楊さまと中宮にそうおっしゃると、まだ孫庇にいらっしゃる葵瑛さまの腕をぐいぐいと引かれます。
 清涼殿でも東宮御所でも、我が物顔でずかずかと入っていかれる葵瑛さまでございますが、さすがに中宮の御座所である常寧殿の母屋には、礼をわきまえず、ずかずかと入られることはできないようでございます。
 その辺りの常識は、わきまえておられるようでございます。
「葵瑛さま、ほら、早く!」
 そうおっしゃり、香姫さまがむりやり葵瑛さまを引き入れられます。
 半分まえのめりになりながら、葵瑛さまが御簾の内に足を踏み入れられました。
「え……?」
 そして、その瞬間には、そうつぶやいておられたのです。
 同時に、どくんと、葵瑛さまの胸は、激しい痛みをはらんだ鼓動を打ちました。
 葵瑛さまが目にされたそこには、陽楊さま、中宮、棗、そして中宮に仕える女房の前で、驚いたようにこちらを凝視している女性の姿がありました。
 その女性は、まだ若い尼君でございました。
 葵瑛さまは、何かを確かめるように、問いただすように、すぐ横におられる香姫さまを凝視されます。
 すると香姫さまは、肩をすくめ、遠慮がちに葵瑛さまを見上げられました。
「余計なこととは思ったのだけれど……。駄目だったかしら?」
 そうおっしゃられた香姫さまの後ろでは、陽楊さまも中宮も棗も、そして女房たちも、その後の葵瑛さまのお言葉を真剣な面持ちで待っておられました。
 そして、尼君は、はらはらそわそわと、心配そうに葵瑛さまを見つめております。
「――香姫殿……。これはまた、どうして……?」
 葵瑛さまは、信じられないとばかりに、震えるお声で小さくつぶやかれました。
 あの葵瑛さまが、震えておられるのでございます。
 香姫さまは、震える葵瑛さまの両腕を握り、優しげに微笑まれます。
「わたし……知っていたの。だからね、尼君を呼んだの。……もう恋仲に戻れなくても、せめて、お友達にはなれないかしらって……。――だって、あまりにも淋しすぎるじゃない?」
「あなたは……彼女をご存知だったのですね?」
 葵瑛さまは、すっと香姫さまから視線をはずし、じっと板敷きの床を見つめられます。
 香姫さまは、葵瑛さまの腕を握る手に、ぎゅっと力をこめられました。
「ええ。かつて……深草(ふかくさ)の稲荷大社で出会って……それで……」
 深草の稲荷大社。
 それはかつて、身分低き姫君と、香姫さまが出会われた場所。
 そして香姫さまは、その姫君から、悲しい恋のお話を聞いておられたのでございます。
 ここに呼ばれたこの尼君は、かつて葵瑛さまと心通わせていた、あの萌葱姫だったのでございます。
 何も答えようとされず、ただじっと床を見つめる葵瑛さまのお顔を、香姫さまは心配そうにのぞきこまれます。
「ごめんなさい。やはり、余計なお世話だったかしら?」
「いえ……。ありがとうございます。香姫殿。わたしも……またお会いしたいと思っておりました。別れが……別れが、あまりにも辛いものでしたので」
 悲しみをはらんだ優しい微笑みを、香姫さまへ向けられました。
 そして、香姫さまに促されるまま、萌葱姫の前へと腰を下ろされます。
 もちろん、葵瑛さまは、ここに萌葱姫が呼ばれていることなど知るはずがありませんでした。
 また、萌葱姫も、どうして、非公式とはいえ、自分が中宮のお召しを受けるなどと疑問に思いながら、恐れ多くも参内してきたのでございます。
 そして、待たされることしばらく後、目の前に、かつて愛したあの葵瑛さまが姿を現したのでございます。
 この時の萌葱姫の驚きようは、尋常ではございませんでした。
 しかし、仏門に下った身。さすがと申しましょうか、一瞬取り乱しただけで、あとは、葵瑛さまのその後のご様子を心配していたのでございます。
 今回のこの葵瑛さまと萌葱姫の再会は、香姫さまが計画されたものでございました。
 近頃、妙に元気のなくなった……と申しましょうか、淋しそうにどこぞを眺めるお姿を、よく目にすることになった葵瑛さまを心配され、香姫さまが、葵瑛さまを元気づけられればと、萌葱姫とのことを、陽楊さまと中宮にお話して、そして協力を仰いでおられたのでございます。
 もちろん、陽楊さまと中宮の親子でございますから、よろこんで……いえ、面白がって、その再会のお膳立てを引き受けられたのでございます。
 すなわち、今回のこの管弦の遊びは、葵瑛さまと萌葱姫を再会させるために用意したものだったのでございます。
 葵瑛さまが腰を下ろされたことを確認すると、香姫さまは、陽楊さまと中宮がおられる上座の方へと歩いていかれ、陽楊さまの横にちょこんと腰をおろされました。
 そして、皆さまとご一緒に、その後の葵瑛さまと萌葱姫の再会を見守られます。
「萌葱……?」
 切なそうに萌葱姫に話しかけられる葵瑛さま。
 その葵瑛さまのお顔を直視することができず、萌葱姫は、少し視線をずらし、葵瑛さまのお顔へと顔を向けました。
「葵瑛さま……」
 葵瑛さまは、萌葱姫の微かに震える手を取り、微笑みかけられます。
「ずっと……後悔しておりました。弱かったあの頃の自分を。ですが今は、もう大丈夫です。お父様と殿の菩提を弔って生きることが、何よりの……」
「ええ。わたしも、もう大丈夫です。あなたのそのお姿を拝見し……いえ、あなたのその後のことを聞いた時から……。もう今は、よい思い出ですね?」
 萌葱姫のその言葉に、葵瑛さまは微笑み、そうおっしゃいました。
 そのような葵瑛さまを見て、萌葱姫は少し驚いたような表情を見せました。
「よかった……。今はもう、他に思う方がいらっしゃるのですね?」
 萌葱姫は、かつてのように、あの百夜通いの頃のように、柔らかく無垢な微笑みを葵瑛さまへ向けます。
 葵瑛さまは、何を語ることなく、ただ静かに微笑み返しておられました。
 少し切なそうで、そしておだやかに。
 これでもう、全てよいのです。
 葵瑛さまをとらえてきたあの頃のしがらみが、ずっと心にひっかかっていたものが、すっと消えてなくなった瞬間でした。
 妙に清々しさを感じておられます。
 そして、陽楊さまの横で心配そうに葵瑛さまを見ておられる香姫さまを、ちらっと盗み見られました。
 もうすぐ、季節は梅雨。
 葵瑛さまの企みで、香姫さまと陽楊さまが出会い、そしてお二人がまんまと恋に落ちた梅雨がやってきます。
 あれから一年、またあの頃と同じ、湿った風が葵瑛さまの髪をなでていきます。
 そのご自分でも理解できない、梅雨のような湿った思いを抱き、葵瑛さまはその風を感じておられました。

 萌葱姫との会話が一段落し、葵瑛さまは、またいつものどこか癪に触る笑顔でおっしゃいました。
「お待たせいたしました。さあ、管弦をはじめましょう。こちらの尼君の琵琶の腕前は、わたしが保障いたしますよ」
 葵瑛さまのそのお言葉に、そこにいらした皆さまは、晴れやかな気分を取り戻され、管弦の遊びへと突入していかれます。
 もう終わりかけの春の陽気を楽しむかのように。
 そのような管弦の遊びが催されている中、香姫さまは母屋の端の壁にもたれかかる葵瑛さまのもとへ、すすすっと擦り寄り、耳元で楽しそうにささやかれました。
「ねえ、葵瑛さま。ご存知かしら? 還俗(げんぞく)という手があることを」
 葵瑛さまは、驚いたように香姫さまの顔を凝視されます。
 還俗。それはすなわち、一度俗世を捨てた者が、再び俗世へ戻ってくること――
 普段では見られない葵瑛さまのそのお顔に、香姫さまはさらに愉快そうに続けられます。
「うふふっ。そこまでは気がまわらなかったのね。葵瑛さまとしたことが、とんだ失態だわ」
 にっこりと、あてつけるように香姫さまは微笑まれました。
 それはまるで、普段、葵瑛さまが香姫さまや陽楊さまをからかわれる時の、それのようでございます。
「まったく……」
 そのような愉快そうに微笑む香姫さまに、葵瑛さまはやはり、どこか困ったように微笑まれるしかなかったようでございます。
 「そうではないのですよ……」とおっしゃりたかったようですが、それは口に出さず、葵瑛さまのお腹の中にそのままおさめてしまわれました。
 これほど愉快そうにこのようなことをおっしゃるということは、香姫さまはまだ、先ほどの萌葱姫が言っていた言葉の意図するものを、理解されていないということでございますから。
 他に思う方……。
 その方がどなたなのか、はたまた本当にいらっしゃるのか、香姫さまがおわかりになる日は、やってくるのでございましょうか。
 いえ、そのようなことは、香姫さまが考える必要はないのです。
 ただ、香姫さまは、ずっとずっとず〜っと、陽楊さまのことだけを思っておられれば、それだけでよいのです。それが、全てなのです。
 たしかに、萌葱姫と再会できたことは嬉しかったのですが、そして、それにより、これまでずっと抱いてきたしがらみがなくなりましたが、葵瑛さまにとっては、今はそのようなことはどうでもよいのです。
 今はただ、目の前で、してやったりとばかりにころころと笑っておられるこの姫君が、気になって仕方がないのでございます。
 もう他の男のものになってしまった姫君が……。
 その思いを伝えぬまま、他の男のもとへいってしまった姫君が――
 出会いは同じだった。好きになったのも同時だった。それなのに何故、弟に姫君を譲り協力したのか、その理由が、今では葵瑛さまにもわからなくなっておられました。
 あの時、協力などせずに、葵瑛さまが姫君との再会を果たしていれば、結果は今とは異なっていたかもしれません。
 あるいは姫君は、弟君ではなく、葵瑛さまを――
 そのようなことを申しましても、今では詮無いことではございますが、やはり、悔やんでも悔やみきれないようでございます。
 手をのばせばすぐ届くところにいるのに、どうしても手をのばすことができない。そのあと一歩が踏み切れない。
 踏み切ってしまうと、世界中の幸せを独り占めしたように笑う、この大切な姫君の幸福を奪ってしまうことになるから。
 だから、それだけはできないと、葵瑛さまはぐっとこらえられるのです。

 ところで、葵瑛さまはご存知だったのでしょうか?
 萌葱姫が、あの時、葵瑛さまの衣から舞い落ちたひとひらのさくらの花びらを、押し花にして、今もその懐に持っていることを。
 しかし、そのことは、葵瑛さまが知る必要はありません。
 ただ、萌葱姫さえ知っていればよいこと――


 常寧殿での管弦の遊びも終わり、それぞれ退出されていった頃には、もうすっかり夜のとばりが下りておりました。
 葵瑛さまに、本日、ようやく少し仕返しができたと満足され、思う存分楽しまれた香姫さまは、賜っておられる桐壺へとお引き取りになられました。
 そして、東宮御所には、陽楊さまと葵瑛さまお二人だけがいらっしゃいました。
「やれやれ……。今日はとんだめにあいましたよ……」
 葵瑛さまは疲れきったように、どすんと陽楊さまの前に腰を下ろされました。
 そのような葵瑛さまに向かって、陽楊さまも満足げに微笑んでおられます。
「たまには、罠にはめられてみるのもよいだろう? 普段、遊ばれている我々の気持ちがわかって」
 そして、責めるように葵瑛さまをじっと見つめられます。
 すると葵瑛さまは、面白くなさそうに、ぶすっとした表情を浮かべられました。
「そう……ですね……」
 案外素直にそうつぶやかれます。
 すると、陽楊さまは、これまた意外な言葉を聞いたとばかり、これみよがしに、驚いたように目を見開かれました。
 そのような陽楊さまへ、少し気分を害された葵瑛さまの逆襲がはじまることを、陽楊さまはこの時にはまだ、気づいておられなかったようでございます。
「その気になれば、いつでも奪えますからね」
 いきなり、そのような訳のわからないことを、葵瑛さまはあらぬ方向を見つめながらおっしゃいました。
 もちろん、陽楊さまは怪訝そうに葵瑛さまを見ておられます。
 すると葵瑛さまは、ぱらりと扇を開き、いつものようにそれでお顔を隠し、にたりと微笑まれます。
「もちろん、香姫殿をですよ。やはり、陽楊には過ぎた女性です。香姫殿には、わたしがぴったり」
 陽楊さまは、葵瑛さまの「香姫殿は陽楊にはもったいない。それよりも何よりも、香姫殿はわたしのものなのですよ。ご存知でしょう?」という意味をはらんだ、あからさまに喧嘩を売るそのお言葉で、ようやくおっしゃりたいことを理解され、青筋を立て、葵瑛さまにびしっと扇を突きつけられました。
「お前には、萌葱姫がいるだろう!!」
 葵瑛さまは、少しだけ視線を上げ、陽楊さまになめるようにちらりと視線を送られます。
「ふふっ。あれはもう、過去のことですよ。今、わたしの心を占めるのは、ただお一人。東宮女御だけです」
 葵瑛さまのそのお言葉を聞き、陽楊さまは真っ青なお顔をして、ぶるぶると震えはじめられました。
 そして、動揺のあまりでございましょうが、がたんと大きな音を立て、脇息を倒されてしまわれました。
 そのような陽楊さまをご覧になり、やはり葵瑛さまは愉快そうに微笑まれるのでございます。
 冗談だか本気だかわからない、葵瑛さまの陽楊さまいじめともとれるこの告白。
 結局、葵瑛さまは、香姫さまのことがお好きなのかそうでないのか、それはいまだにはっきりいたしません。
 いい加減すぎる、葵瑛さまのそのお振る舞いのために。
「葵瑛〜!!」
 そうして、聞きなれた陽楊さまの雄たけびが、東宮御所に今日も響き渡るのでございます。
 そして、葵瑛さまの陽楊さまでの暇つぶしだけは、変わることなく、いつまでも続くことでございましょう。


葵優抄 おわり

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update:03/11/07