笹の舟に思いを込めて
(一)

 雪がちらちらと舞いはじめた初冬の頃より、年も明け、香姫さま方はまた一つ年をとられました。
 これは、香姫さまが十七歳、陽楊さまが二十一歳となられたその年のはじめの頃のお話でございます。
 お正月の慌しい宮中行事のおかげで、香姫さまは陽楊さまとまったく会うことができませんでした。
 それがなくても、この後すぐに控えた香姫さまの入内の準備で、宮中も左大臣邸も、てんてこまいの忙しさでございます。
 よって、導き出される答えは……。
「暇〜!!」
 そう叫び、だだをこねられる香姫さまのお姿。
 まったくもって、もうすぐ東宮女御となろうというお方のお振る舞いとは、とうてい思えません。
 雪がとけ春になると、樹木が芽吹き、そして蕾がほころびはじめた頃、それはそれは都全部を巻き込んだおめでたい一大行事があると申しますのに。
 その中心人物であるというのに、香姫さまには今もって、まったくその自覚がおありでないようでございます。
 まあ、それでこそ、香姫さまなのでございますけれど。


 もうすぐ立春を控えた、ある日の晩のことでございます。
 今宵の月は、佳月(かげつ)
 冴えわたり、とてもよい月でございます。
 それはまるで、桃の節句のすぐ後にやってくる、とてもおめでたい日を思うと心弾んでしまわれる……香姫さまではなく、陽楊さまのお心のように澄み、冴えわたっております。
 香姫さまは、ここのところの暇……というよりかは、陽楊さまに会えない日々のために、すこぶるご機嫌ななめでございました。
「またやってきたの? くされ宮」
 月明かりの差し込む庇で、御簾越しに、脇息にもたれかかり、扇でぱたぱたとあおぎながら、これ以上ないというほど、ご機嫌を損ねられて、じろりと御簾の外をにらまれました。
 御簾の外には、殿方がお二人。
 月光に照らされた、艶やかなお姿がそこに。
 もちろん、香姫さまを訪ねてこられる殿方といえば、このお二人だけ。
「おや? ご機嫌ななめのようですね。せっかく久しぶりに訪ねてきたというのに……」
 肩をすくめ、残念そうに葵瑛さまがおっしゃいました。
 すると、香姫さまのぎんという鋭い眼差しが、葵瑛さまに向けられます。
「うるさいわよ。――ええ、もちろん嬉しいわ。陽楊さまだけならね、陽楊さまだけなら。お邪魔虫がいたのじゃ、全然嬉しくない!」
 持っておられる扇で、べしべしと床を叩きつけられます。
 そのような香姫さまを、葵瑛さまは、御簾越しに愉快そうに眺めておられました。
 くすくすくすと、とても楽しそうに。
 やはりと申しましょうか、何と申しましょうか……この葵瑛さまのことでございます。このような香姫さまの反応を見越して、わざわざ、わざとやってこられたのでしょう。
 葵瑛さまとて、香姫さまの入内が控えた今、忙しいはずでしょうに……。
 そのような葵瑛さまの横で、もう疲れきったようなお顔で、葵瑛さまに冷たい視線を注がれる殿方がお一人。
 もちろん、この方、陽楊さまでございます。
「まったくだよ。ようやく抜け出してこられたと思えば、お邪魔虫が一匹……」
 じとりとうらめしげに、葵瑛さまをにらまれます。
 せっかく二人きりで久々にくつろげると思ったのにとんだ邪魔者だと、この上なく、心の底からおっしゃられている目つきでございます。
 もちろん、簾中の香姫さまも然り……。
 せっかく、露の宮や笹舟の君のことが片づき、思う存分いちゃつけると思った矢先のこの出来事なのでございます。
 まあ、それはそれはおめでたい、お二人のための行事ですので、嫌だの何だのと言っておられないのもまた事実でございます。
 ですから、仕方がないと半分諦めながら、日々を過ごしておられました。
 そして、そのような日々の中、ようやくめぐってきた、二人きりの甘いひと時……と思ったのもつかの間、やはり愉快そうに一匹のお邪魔虫が乱入してきたのでございます。
 そうなるともちろん、香姫さまも陽楊さまも、ご機嫌を損ねられてしまうのでございます。
 しかし、それもまた、この方には、当然関係のないことでございます。
「おやおや。これはまた、陽楊もつれないですね〜……」
 くすくすと、やはりいつものようにお口元を扇で隠され、笑われる葵瑛さま。
 この時ばかりは、この余裕の笑みは、とてつもなく癪に障るというものでございます。
「……まったく……。わたしたちの邪魔ばかりしていないで、葵瑛さまも、早くいい人を見つけてちょうだい」
 香姫さまは、ぶつぶつとつぶやきながら、御簾を上げ出てこられました。
 そして、当たり前のように陽楊さまのもとへやってこられ、横にちょこんと腰をおろされます。
 すると、これももう当たり前となっておりますが、陽楊さまがすかさず、香姫さまを抱き寄せられました。
「いい人……? これは、また……」
 葵瑛さまは、おやまあと少し驚いたようなお顔をつくり、まじまじと香姫さまを見つめられます。
 そして、にっこりと微笑まれました。
「それはですね、全て、御仏のお心のままに……ですよ? 御仏はまだ、わたしにこの女性という方をお与えになっていないのです……。いいえ。それとも……」
 葵瑛さまはそこでお言葉をとめられ、意味ありげに香姫さまをじっと見つめられます。
 熱い熱い眼差しで……。
 陽楊さまはそのお言葉と視線の意味を素早く理解されたというのに、香姫さまときたら、まったくわかっておられないようでございます。
 びしっと扇を葵瑛さまにつきつけ、語気荒げに叫ばれます。
「御仏もへったくれもあるものですか! あなたは、自分の力しか信じていないくせに。そのようなもの、あなたには必要ないでしょう。そのような言葉で誤魔化さないで。葵瑛さま!」
「ええ、そうですよ」
 憤る香姫さまに、さらっとこともなげに、葵瑛さまはそうお答えになられました。
 予想していたこととはいえ、本当にさらりとさらにはひょうひょうと答えられる葵瑛さまに、香姫さまはがくんと肩を落とされます。
 葵瑛さまの神仏をも恐れぬ困ったちゃんぶりに、脱力されてしまったようでございます。
 そのような香姫さまに、葵瑛さまは、さらに追い討ちをかけるように続けられます。
「だから、わたしはあなたが好きなのです。わたしのことを、よくご存知だ……」
 にやりと微笑み、ずいっと香姫さまへお体を寄せられます。
 もちろん、そのような葵瑛さまの前に、開けられた陽楊さまの扇がすっと現れました。
 それ以上香子に近づくなと、陽楊さまのするどい眼差しが葵瑛さまに向けられております。
 すると葵瑛さまは、興が冷めてしまわれたのか、やれやれと口を動かしながら、またもとの場所へと腰を落ち着かせられました。
 面白くなさそうに、扇をお口元へやり、ふうっと深いため息をもらされます。
 まったく、油断も隙もない宮様でございます。
 隙あらば……すぐに香姫さまに近づこうと、香姫さまで遊ぼうとされるのでございますから。
 ……と申しましてもやはり、今もって、葵瑛さまのいちばんのおもちゃは、陽楊さまであることに変わりはございませんけれど……。
「ねえ、ところで……ずっと気になっていたのだけれど、どうして陽楊さまは、陽楊さまなの?」
 何の振りもなく、いきなり香姫さまはそうつぶやかれました。
 もちろん、横におられる陽楊さまは、「はあ!?」と呆れた顔をされておられます。
 この話の飛びようは、葵瑛さまのそれと匹敵するものがあったのでございましょう。
 しかし、話が飛ぶ……という点においては、第一人者であられますから、葵瑛さまはまったく動じる様子もなく、あっさりとそちらへ話を移されていかれます。
 もう、神仏ねたでは、香姫さまも陽楊さまもからかえないと判断されたのでございましょう。
「知りたいですか……?」
 やはり、どこか含みのある微笑を浮かべられる葵瑛さま。
 そのお顔に、香姫さまは一瞬たじろがれましたが、ここでひくのも癪なので、ふんとふんぞり返り「話したいのでしょう?」などと、高飛車に返されます。
 いつもの香姫さまなら、ここで「誰が!」と反発するか、悔しそうにじろりとにらみつけられるはずなのですが、予定外の香姫さまの反応に、葵瑛さまは、少し反応がにぶられたようでございます。
 ほんの少しの間をおき、ぱらりと扇を開け、「では……」とおっしゃり、語りはじめられます。
 もちろん、それを青い顔をして慌ててとめようとされる陽楊さまなど、あっさりとかわされて。
「それはですね、わたしがむりやりつけた呼び名なのですよ。その仕返しに、わたしは葵瑛という呼び名をもらいました」
「え……?」
 少し意外そうに、香姫さまはつぶやかれました。
 そして、同時に、何だか、胸がぽっと温かくなったような気もされておられました。
 仕返し……などとおっしゃられてはいますが、葵瑛さまはたしかに、優しく微笑んでおられます。
 互いに互いを思い合っておられるなどということは、今さらでございますが……。
 香姫さまは、それをあらためて実感されたのでございましょう。
 自然と、お顔がほころんでまいります。
 陽楊さまは、むすっとしたお顔でそっぽを向き、佳月をにらみつけるように見つめられます。
 もちろん、その腕に抱く香姫さまを放すことなく。
「陽楊の楊の意はやなぎですが、それにはこれと言って意味はないのです。ただ、よう≠ニ読めるものをあてたにすぎません。大切なのは、陽楊の陽の方です。――陽。それはすなわち、太陽を意味しますね?」
 葵瑛さまはにっこりと微笑み、じっと香姫さまの目を見つめられます。
 香姫さまもまた、葵瑛さまから目をそらすことなく、真剣に聞き入っておられます。
 ただその横では、多少投げやりに、ぷうっとほんの少し頬をふくらませた陽楊さまが、相変わらず月を仰ぎ見ておられますけれど。
 とめたくても、もうとめられなくなってしまったのでございます。
 途中でやめさせると、当然香姫さまが暴れ出すことは目に見えておりますし、後々、葵瑛さまに陰でちくちくといたぶられるのもわかっておられます。
 ですので、陽楊さまはもう諦めてしまわれたようでございます。
 しかし、それでもやはり、好ましく思ってはおられません。
 むっつりとしたお顔のままでございます。
「太陽、それは天子の意。いつかは日いづる国の天子となられる方なのですから、この字を使うのは当たり前でしょう?」
 香姫さまは、葵瑛さまのその問いかけに何の反応も示そうとはされず、ただじっとお話に聞き入っておられます。
 何か……思うところがあるように、じっと……。
 そのような香姫さまに、ふっと微笑みかけ、葵瑛さまは続けられます。
「しかし、わたしが陽楊を太陽だと比喩したのは、そのようなところにはないのです」
「え……?」
 香姫さまの表情が、瞬時に変わりました。
 不思議そうに、首をかしげられます。
 それと同時に、陽楊さまがまたとめに入られました。
「もういいだろう。それくらいで。葵瑛、そのような恥ずかしいことはもうよせ!」
 しかし、陽楊さまが嫌がれば嫌がるほど、それを愉快に断行してしまわれるのが葵瑛さま。
 そのようなことくらいわかっておられるはずですのに、陽楊さまはそれにすら気づかなくなるほど、動揺しておられるようでございます。
 どうやら、当たり前といえば当たり前なのでしょうが、陽楊さまには、これから葵瑛さまがおっしゃろうとしていることを、よくわかっておられるようでございます。
「わたしがはじめて陽楊をこの目にした時、陽楊は、その体いっぱいに日の光を浴び、とてもまぶしく見えました。ああ、この小さな皇子が、わたしの弟で、これから守るべき主になるのだと……」
「葵瑛さま……」
 香姫さま、そうおっしゃり、とても優しい微笑みを浮かべられる葵瑛さまに、しゅすっと衣擦れの音をさせ、思わず少し擦り寄っておられました。
 それと同時に、香姫さまを抱き寄せられている陽楊さまの腕も、ぐいっと引っ張られます。
 香姫さまは、それにかまうことなく、きゅっと、胸の前で両手を握り締められました。
 葵瑛さまは、すっと佳月に視線を移され、懐かしむようにつぶやかれます。いいえ、断言されたのです。
「……陽楊は、わたしの太陽なのですよ。暗闇に差し込んできた、一条の光……」
 そして、ちらりと陽楊さまに視線を向けられます。
 葵瑛さまの視線の先では、ぷいっとそっぽを向き、恥ずかしそうに顔を赤らめておられる陽楊さまのお姿がございました。
 そのお姿は、「わたしは、そのような立派な人間ではない。ましてや、お前の太陽などと……。――だから、言わせたくなかったのだ。そのような恥ずかしいことを……。何より、香子には知られたくなかった……」とおっしゃられているようでございます。
 そのようなところに照れて、阻止しようとしておられたなど、陽楊さまも、まだまだ、なかなかにかわいらしいところをお持ちのようでございます。
 それだからこそ、相変わらず、葵瑛さまのおもちゃナンバーワンの座にあられるのでございましょう。
 そのような陽楊さまのお姿を見て、もちろん葵瑛さまはくすりと笑われます。
 そして、それが、くすくすといういつもの腹立たしい企み笑いに変わっていくのに、そう時間はかかりませんでした。
「だけどね、今のわたしの光は……この心いっぱいを照らす陽光は、陽楊などではなく、あなただと気づいておられました? 香姫殿」
 そうおっしゃり、葵瑛さまは、陽楊さまの腕の中からするりと香姫さまを奪い取り、抱き寄せられ、その胸に抱かれます。
 きゅっと、香姫さまのお顔が、葵瑛さまの胸に押し当てられます。
 もちろん、その瞬間、葵瑛さまにダブルで鉄槌が下ったことは言うまでもございません。
 右と左、両の頬が、痛々しげに赤くはれることになります。
 嗚呼、もう。葵瑛さまってば……相変わらずといえば、相変わらずでございますね……。


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update:03/11/10