笹の舟に思いを込めて
(ニ)

 陽楊さまと葵瑛さまとの愉快な一夜から、数日後のことでございます。
 やはり、あれ以来、香姫さまのもとを陽楊さまも葵瑛さまも訪ねてこられることはございません。
 仕方がないと言えばそれまでですが、遊び相手がやってこられないとなると、当然、香姫さまのことですから、暇で暇でご機嫌をななめにされる頃でございます。
 じっとしていること、数日ともたない香姫さまでございますから。
 そして、香姫さまのまわりでは、平穏で静かな日々は、そう長くは続かないことも、否定できぬ事実でございます。
 何しろ、トラブルメーカーの葵瑛さまをはじめ、香姫さまご自身もまた、自ら問題を巻き起こされる姫君なのでございますから……。
 やはりあの夜、忙しく、これからまたしばらく会うことがままならないと陽楊さまに告げられた香姫さまは、ぷうっと頬をふくらませすねてしまわれました。
 そこで、なだめようとされる陽楊さまを、「時間ですよ」などとおっしゃり、葵瑛さまがむりやり連れ帰ってしまわれたのでございます。
 ご機嫌をとらぬまま、陽楊さまは香姫さまと別れなければならなくなったのでございます。
 余計なことばかりされ、厄介者の、葵瑛さまのために……。
 そうなるともちろん、香姫さまのご機嫌はよくなるどころか、悪くなる一方で……。
 すると、香姫さまのことでございますから、何かしでかさずにはおられなくなるというのも、また事実でございました。
 そうです。かつて、東宮妃入内が嫌でお邸を抜け出した前科のある香姫さまでございます。
 当然、今回も――
「そういえば……今頃だったかしら? ううん。もう少し後だったわね……。陽楊さまと会ったのは……」
 いつもの指定席に腰をおろされ、そして気だるそうに高欄にもたれかかりながら、ぼんやりと、まだ雪化粧をしたままのお庭をながめておられました。
「懐かしいわね〜……。鴨川。あの出会いがなければ、わたし、今頃……」
 そうつぶやかれたかと思うと、うつろな目で、お庭を眺められます。
 さわさわと、心がざわつきます。
 それは、一年近く前、鴨川で出会った公達のことを思い……。
 そして、ともに行動していくうちに、胸に抱きはじめたその思いが、ゆらゆら揺れ、変化し……。
 懐かしい……。
 そのような感情が、香姫さまの心を支配していきます。
 マリッジブルー……。
 どうやらそれが、香姫さまにも降りかかってきているようでございます。
 な〜んてことはございません、もちろん。
 その日を、今か今かと待ち望んでおられるくらいなのですから。
 そして、その日を思うと、自然、顔がにやけてしまう始末でございます。
 これでは、陽楊さまのそれを責められたものではございません。
 結局は、やはり、似た者同士なのでございます。
 ただ、陽楊さまとの出会いを思い出し、少し感傷にひたられていたにすぎません。
 香姫さまには珍しく、乙女ちっく街道に足を踏み入れられていたのです。
 いえいえ、もともと乙女ちっくな姫君でございました。
 たった一人の人となることを望んでおられる姫君なのでございますから。
 しかし、それも長くは続きませんでした。
 何やらぴんときたらしく、急に立ち上がられます。
「そうよね。もうすぐ入内しちゃって、自由に動きまわれなくなるのだもの。ならば、最後くらいはいいわよね。今のうちに、思いっきり堪能しておきたいわ。もう一度、見たいわ、あの思い出の地!」
 そのような訳のわからない理屈をこね、ばさっとお衣装のすそを持ち上げられました。
 そして、ひょいっと高欄を飛び越えられてしまわれたのです。
 ひらりと見事に飛び越え、舞い降りられたそこには、いつものこととばかりに、ちゃんとお履物まで……。
 香姫さまがお庭を散策されるのは、いくら日常茶飯事といえど、この周到さはいささか――
 お履物をはかれると、香姫さまはそのまま、だっとお庭をかけていかれます。
 当然、この後、香姫さまがとられる行動といえば……家の者の目を盗みお邸を抜け出す。それでございます。
 ほぼ一年ぶりにして、二度目の香姫さまお邸抜け出し事件でございます。


 お邸を抜け出した香姫さまがやってこられたのは、もちろん鴨川にかかる橋の上……ではございませんでした。
 先ほどの香姫さまの言動から、当然、陽楊さまと出会われた思い出の場所、鴨川にかかる橋へとやってこられるものと思っておりましたけれど……。
 しかし、実際に香姫さまがやってこられたのは、そこではなく、そこより少し南、東寺(とうじ)の五重塔を南西に見下ろすことのできる場所でございました。
 香姫さまの手には、笹で作った小さな舟が一つ。
 雪をかぶった笹の葉を一枚ちぎり、作られた小さな笹の舟。
 そして、香姫さまの目の前には、かえでの若木が一本。
 かえでもまた、うっすらと雪化粧がほどこされております。
 ということは、この目の前にある立派なお墓が……笹舟の君のお墓。
 そこは、いつだったか葵瑛さまに調べていただいた、かの筒井筒の君、笹舟の君の源輔清さまが眠る場所……。
 どうやら、香姫さまは、陽楊さまと出会われた鴨川にかかる橋からまだ少し南へと下ったところにある、そこへやってこられていたようでございます。
 手に笹の舟を持っていらっしゃるということは、はじめから、鴨川ではなく、こちらへやってくるおつもりだったのでございましょうか。
 ほんの一年ほど前、お二人の運命が分かたれた日。
 お一人は、至上の幸福を手に入れられ、お一人は永遠の黄泉の旅へと旅立っていかれた――
 それは、同じ日、同じ時間の出来事。
 香姫さまは、入内を控えたこの日になっても、はやりまだ、運命が分かたれたその筒井筒の君のことが忘れられないでおられるようでございます。
 それは、決して、恋というものではなく――
 香姫さまは、お墓の前にしゃがみ込み、持っておられた笹舟をそっとそこに供えられると、懐かしむように、だけどやっぱりどこか淋しそうに、ゆっくりと口を開かれました。
 この冬の寒さに、息が白く広がります。
 この季節に反し、それはまるで、真夏の入道雲のように……。
「笹舟の君……。今日はね、笹舟の君に謝りにきたの……。ごめんね。わたし、もうここへはなかなかやってこられなくなるの。――もうすぐね、桃の節句のすぐ後に、わたしは入内するの。だから、ごめんね。これが最後なの……」
 消え入りそうな声でそうささやかれた香姫さまの目には、うるむものがございました。
 あれ以来、度々ここへ訪れては、こうして、笹舟の君に、日々の出来事をご報告されておられました。
 いつもはもちろん、お供の者を連れておられました。
 しかし、本日は、たったお一人……。
 たったお一人で、お別れにいらしたようでございます。
 それはやはり、今日だけは、お一人でいらしたかったからでございましょう。
 今日だけは、最後になってしまう今日だけは。
 その時でございました。
 香姫さまの背で、きゅっと雪を踏みしめたような小さな音がしました。
 それと同時に、驚きをはらんだ声が、香姫さまへと降り注ぎます。
「笹舟……? では、あなたは、宇治の姫君?」
 香姫さまは、その名、笹舟の君しか知らないはずのその呼び名に、はっと驚き、がばっと振り向き、見上げられました。
 するとそこには、どこか笹舟の君に面差しの似た公達が一人、目を丸くして香姫さまを見下ろしておりました。
 訝しげな香姫さまの視線が、その公達へと注がれます。
 どうして、あなたがその名を……?と、尋問するかのような眼差しでございます。
 するとその公達は、肩をすくめ苦笑いを浮かべると、すっと香姫さまの横へしゃがみました。
 香姫さまの視線に合わせるように。
 そして、じっと笹舟の君のお墓を見つめます。
「普通、墓に笹舟は供えないでしょう?」
 少し目線をそらし、今度は香姫さまを見ました。
 すると香姫さまは、「あ……」と小さくつぶやかれると、供えてある笹舟へと視線をおくられます。
「そういえば……そうね」
 そして、くすっと、困ったように微笑まれました。
 その微笑は、とても淋しそうに、公達には見えておりました。
 それは、香姫さまと、公達の心を映しているような微笑――
 そのような香姫さまのご様子を見て、公達は香姫さまに向き直り、真剣な眼差しを向けてきました。
「笹舟……ということは、あなたが、兄が生前申しておりました、宇治の姫君なのですよね?」
 語尾は疑問形ですが、その言葉には確信がこめられておりました。
 間違いないと。肯定しております。
 香姫さまはまた、驚いたような顔をされ、そして少し淋しそうに、再び笹舟へと顔を向けられます。
 じっと、何かを思い出すように、小さな笹舟を見つめられます。
「――ずっと……気になっていたの。そして最近、お亡くなりになったと知り、こうして、せめてお参りだけでもと……。もう、わたしには、その時間も残されていないから……」
 香姫さまは肩をすくめ、駄目だったかしら?と、その公達に目でうったえられます。
 すると公達は、小さく首を横に振り、微笑みました。
「ありがとうございます。兄も喜んでいることでしょう」
 その言葉に、香姫さまはほっとしたように、公達と同じように、少し淋しそうに微笑まれました。
 この公達は、笹舟の君の弟君だったようでございます。
 恐らく、香姫さまには、会った瞬間、それがわかっておられたのでしょう。
 笹舟の君に似た面差しを持つこの公達が、何者であるか――
 同じ思い……笹舟の君に対し同じ思いを抱いていると、この短い間にわかり合われたこのお二人は、どうやら、何も語らずとも、笹舟の君に関し、心が通じ合われてしまったようでございます。
 それは、笹舟の君に対する、説明しようのない、言葉にならない思い。
 淋しいけれど、だけどそれだけではない、複雑な思い――


 しばらく、お二人は、じっと笹舟の君のお墓を見つめておられました。
 そして、何かふっきれたように公達は立ち上がると、すっと香姫さまへと手を差し出しました。
 香姫さまは、その差し出された手と公達の顔を、きょとんとしたお顔で交互に見つめられます。
「我が家へ、いらっしゃいませんか?」
「え?」
 さらに香姫さまのお顔はきょとんとなり、目が点となってしまわれました。
「是非とも、あなたを母にも紹介したいのです。ずっと……兄の生きる支えとなっていたあなたを……」
 香姫さまはその言葉に、ぱっと顔を曇らせてしまわれました。
 それは、香姫さまにとっては、とても辛い言葉……。
 結局は、ずっとずっと大切に思っていた筒井筒の君ではなく、陽楊さまを選んでしまわれたという罪悪感が、今もって香姫さまのお心からは消えておられないのです。
 好きだった……。だけど、その好きは、男女の好きではなく、人としての好き……。
 この世で最も愛する殿方は、陽楊さま……。
 公達は、一瞬にして表情が変わられた香姫さまに気づいておりましたが、あえて気づかぬふりをして続けます。
「兄は、死の間際まで、幼い頃一緒に遊んだ初恋の姫君を……あなたを支えに生きていました……。あなたのおかげで、兄は予想よりも長く生きていられたのです」
 熱く、公達は香姫さまを見つめます。
 それは、その目は……あなたには、あなたにだけは知っていて欲しいと……そう告げていたのです。
 ですから香姫さまも、公達の手を取らなければならなくなってしまわれました。
 香姫さまは、そのような大層なものではないと思われながらも、この公達、笹舟の君の弟君を放ってはおけなかったのでしょう。
 この公達もまた、その心の内に、深い悲しみを抱いているように見えました。
 のばされた公達の手に、そっと手を重ねられます。


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update:03/11/10