笹の舟に思いを込めて
(三)

 香姫さまは、公達が乗ってきたと思われる牛車に乗っておられました。
 ごとごとと、また都へと戻っていかれます。
 公達は、さすがに年頃の姫君と牛車を同じにするわけにもいかず、牛車の横をてくてくと歩いておりました。
 そして、牛車に擦り寄り、他の者に聞かれぬように、そっとつぶやきました。
「母は……あなたのご身分、本当の御名は存じておりません。ですから……くれぐれも、それは内密に……」
 一瞬、どうして?と思われたようでございますが、香姫さまはすぐにその言葉にこめられた意味を理解され、「わかったわ」とお答えになられました。
 公達が言おうとしたことは……それはすなわち、香姫さまのご身分が母親に知れては、少し厄介なことになりかねないということでございます。
 まさか、今をときめく左大臣家の姫君が、笹舟の君の初恋の姫君であってはならないのです。
 そして、それが知れれば、母親は、あらぬ誤解をしてしまうかもしれません。
 香姫さまの入内の報により、もう生きる意味を失った笹舟の君は――
 皮肉なことに、それは、お二人の運命が決まった瞬間が同じだったが故に……。


 香姫さまが連れてこられたそこは、葵瑛さまがおっしゃられていた通り、とても立派なかえでの木があるお邸でございました。
 このかえでの木にように立派な殿上人となるようにと願いを込められ、かえでの若君と呼ばれていた笹舟の君。
 かえでの若君は、この弟君からもわかるように、大切に慈しまれお育ちになっておられたのでしょう。
 そのような笹舟の君だからこそ、はかなくなられてもなお、入内が決まってしまわれても、ご自分の生きる支えとなられていた大切な筒井筒の姫君をお守りしていたのでございましょう。
 大好きだった姫君は、もう自分ではなく、他の殿方を思っていらっしゃるにもかかわらず……。
 東宮妃……。
 それはもう、本当に手の届かなくなってしまった姫君。
「まあ! まあ!! あなたが、あの宇治の姫君……!」
 香姫さまが車寄せにつけられた牛車の中から出てこられると、待っていましたとばかりに、初老の女性が両手を握り、嬉しそうに駆け寄ってきました。
 そして、香姫さまのお姿を見るなり、そう叫んでおりました。
 目には、少しにじむものが……。
「あ、あの……?」
 香姫さまは、少しおされ気味に、困ったように微笑まれました。
 どう対応されればよいのか、わからなかったのです。
 恐らく、この女性が、笹舟の君の母君であろうことがわかっておられるばかりに……。
「あ……。ごめんなさい。先ほど、使いの者からあなたのことを聞きまして、そうしたら、いてもたってもいられなくなり……」
 どうやら、公達は、これから香姫さまが訪ねられるという知らせを、先に送っていたようでございます。
「そう……ですか」
 女性の握られた両手に、香姫さまはそっと手を重ね、微笑まれました。
 それが、その女性には、じんとくるものがあったのでしょう、目ににじんでいたものが一気にこみあげ、とうとう流れ落ちはじめてしまいました。
「母上……!」
 慌てて、先ほどの公達がその女性に駆け寄ります。
 やはり、この女性は、笹舟の君と公達の母君だったようでございます。
「申し訳ございません、姫。母は、兄のこととなるといつもこれで……」
 公達が申し訳なさそうに、香姫さまの顔色をうかがいます。
 香姫さまは、首を小さく横に振られ、にこっと微笑まれました。
 気にしていないわ……と。


 香姫さまはすぐに寝殿に通され、そして人払いがされた母屋で、笹舟の君の母君、弟君を前に、腰をおろされておりました。
 母君と公達は、邪魔者を排除し、たった三人だけでお話をしたかったようでございます。
 残念ながら、父君は、まだ内裏でお勤めの最中でございます。
 当然、弟君も出仕をしているであろう年齢でございますが、本日はどうやら、お休みだったようでございます。
「……そうですか……。そのようなことが……」
 母君は、香姫さまから、幼い頃の思い出のお話をうかがい、嬉しそうに微笑をたたえておりました。
 ただ、つい先日起こった不思議な出来事は、お話しされませんでした。
 それは、このお二人にお話ししてはならないことと、わかっておられたから。
 それを話してしまえば、香姫さまのご身分も明かすことになり、そして何より、亡くなられてもなお、その御霊(みたま)をこの世に縛りつけていたことがわかってしまうから……。
 安らかに逝ったと信じているこのお二人には、それは酷なことになるでしょう。
 家の者から多少は聞いていた昔の話でも、やはりご本人に聞かれるのとは、また別なのでございましょう。
 とても嬉しそうでございました。
 そして、大切な若君が思いを寄せて、その生きる支えになっておられた姫君が、とてもお優しかったので……。
 見れば、やはり、聞いていたように、どこか大貴族の姫君のようで、そしてその衣から香る香も、極楽浄土、はたまた桃源郷を思わせる、とてもよい香り。
 その御髪もとてもよく手入れされた、流れるような黒髪。
 何よりも、急な誘いに、嫌な顔せず、こうして訪れてくれた。
 そして、若君の墓前に、かの筒井筒の君のために、笹の舟を供えてくださっていた……。
 若君を、今も大切に思ってくださっている姫君。
 想像の中でしか生きていなかった姫君が、今目の前に――
 御簾も几帳もなしに、くだけたおつき合いをしてくださる姫君。
 それはやはり、お二人のお気持ちを考えて故なのでしょうと、思っておられたようでございます。
 まあ、香姫さまですから、もともと御簾も几帳もないのですけれど。
 このお二人が、そのようなことをご存知のはずがございません。
 想像していた通りの、いえ、想像以上の素晴らしい姫君に、母君には思えておられたようでございます。
 大切な若君の初恋の姫君が、このように素晴らしい姫君だったとはと、誇らしそうでもありました。
 ただ、香姫さまのお噂は、公達も当然ご存知のはずですのに、どうでしょう、それをみじんも感じさせない、このうっとりと香姫さまを見つめる眼差し。
 どうやら、香姫さまは、母君の中だけでなく、公達の中でも、神聖化されているようでございます。
 母君は、突然、何やら思いついたようで、満面の笑みでにっこりと微笑みました。
 そして、ふいに香姫さまの両手を握り、見つめます。
「突然、このようなことを申しますのもはばかられると存じますが……どうです? これも何かのご縁。拝見したところ、まだ一人身のようでございますし、我が家の次男などは?」
 そして、ちらっと、横に控えていた公達を盗み見ました。
 香姫さまは、何を言われているのかわかっておられないようで、きょとんとしたお顔で首をかしげられます。
 もちろん、母君の言葉の意を寸分狂わず汲み取っている公達は、慌てて母君の手を香姫さまの手から放します。
「母上! 突然何を……。それに、姫君にも失礼ですよ」
 顔を真っ赤に染め、公達はきっと母君をにらみました。
 すると、母君もはっとし、ばつが悪そうに顔をそむけます。
 そして、ぼそりと一言……「ごめんなさい」とつぶやきました。
 その様子を見て、香姫さまは、ようやく何を言われたのか理解されたらしく、頬を桃色にほんのり染め、そして困ったように微笑まれます。
「――ごめんなさい。わたくし、結婚を約束した方がいますの……」
 香姫さまがそうおっしゃられた瞬間、母君も、公達も、顔を曇らせました。
 母君は、香姫さまのご身分も、御名もご存知でないので、それは当然の反応だったかもしれません。
 ですが、公達に関しては、これまでの口ぶりから、当然、香姫さまのご身分、そして御身に決まっている重大な事も知っているはずですのに、今さらながらにそのような反応をしました。
 それで、香姫さまは、少し怪訝に思われてしまったのです。
 母君の反応は、まあ、そのようなことを言ったのですから理解できるとして、どうして公達もまた同じ反応を……?
 それは、こと男と女のことに関しては、特にご自分のことに関しては鈍い香姫さまらしい反応でございます。
 どうして、香姫さまはお気づきになられないのでしょう?
 これまでの様子、言葉から、あるいは、公達もまた、香姫さまに思いを寄せているのでは……と――
 まあ、そこが、香姫さまのよいところと申しますと、そうかもしれませんけれど。
 公達は、当然、香姫さまがもうすぐ入内されることを知っているでしょう。
 しかし、あらためてそれを香姫さまのお口から聞かされるのは、さぞ辛かったことでしょう。
 公達が香姫さまに思いを寄せたのは、一体いつなのか……それはわかりませんが、先ほどから香姫さまを見つめるその熱いまなざしで、ある程度の者は、公達が抱く思いを悟ってしまうことでございましょう。
 かつて兄君が言っていた、思い出の姫君。その頃から思いを寄せていたのか、それとも、笹舟の君のお墓にいらっしゃる香姫さまを見つけた時にか……。
 それは、公達にしかわからないことでございますけれど……。
 しかし、この公達もまた、香姫さまを大切に思っていることはわかります。
 兄君の、大切な姫君なのですから……。
「結婚が決まったのは……もう一年近くも前になります。ちょうど、桜の頃でした」
 香姫さまは、にっこりと、とても幸せそうに微笑まれました。
 それで、母君ももう諦めたように微笑みます。
 まさか、結婚の決まった姫君に、これ以上、あのような無粋なことを言うことなどできませんので。
「まあ……。一年前……桜の頃……。輔清が逝ったのも、ちょうどその頃でした……。――不思議な(えにし)ですね」
 そして、淋しそうに微笑みました。
 そのような母君の肩をぽんと叩き、公達は聞かせるように語り出します。
 やはり、どこか淋しそうに微笑みながら。
「母上。姫君は、ずっと兄上のことを気にかけていてくださったそうです。姫君は十七歳。普通ならば、十三や十四で結婚してしまうものです。それが、今まで……。いくら兄上のことを思って下さっていても、これが限界だったのですよ。――それに、兄上が亡くなったのと時期を同じくして、姫君のご結婚が決まったということは、もう姫君も兄上から解放される時期にきていた……ということでしょう」
 母君は、まじまじと公達を見つめました。
 そのようなお二人を、香姫さまは、ただ困ったように見ておられました。
「そうね……。――おめでとうございます。姫さま……」
 公達に肩を抱かれながら、初老の母君は優しく微笑みました。
 やはり、どこか淋しそうに……。
 香姫さまは、困ったように、複雑な微笑みを浮かべられるほかなかったようでございます。
 あたらずとも遠からず……。
 香姫さまがご結婚されなかったのは、笹舟の君を思っていらしてのことではなく、いつかおっしゃられていたように、香姫さまだけを愛してくださる殿方を探しておられたから。
 ナンバーワンではなく、オンリーワン。それが香姫さまの望み。
 そして香姫さまは、やっと見つけられたのです。香姫さまでなくては駄目とおっしゃってくださる殿方を。香姫さまの望みを叶えてくださるたった一人の殿方を。
 それは、香姫さまにとって、どれだけ幸せなことでございましょう。
 しかし、そうは申しましても、笹舟の君が香姫さまのお心にあったこともまた、否定できない事実でございます。


「申し訳ありませんでした。姫君」
 母君と公達とのお話も終わり、外はもうすっかり夕月夜。
 車寄せから牛車に乗り込もうとしておられる香姫さまに、公達がそう声をかけました。
 すると香姫さまは、振り向かれ、首をかしげられます。
 香姫さまには、謝罪される覚えなどないというように。
 そのような香姫さまを見て、公達は苦笑いを浮かべました。
 どうしてこの姫は、ここまで心優しいのだろうと。そして、鈍いのだろうと。
 あれほど失礼なことを言ったにもかかわらず、この姫ときたら、それはまるで気にもとめていないというように……。
 公達の心は、また一歩、香姫さまへと引き寄せられてしまいます。
 それをふっきるかのように、一度首を横にふり、香姫さまを見つめました。
「……母が、あのようなことを申しまして……。何分、母は、兄をとても大切にしておりましたので、あそこはあのように言うしか……」
「ええ、わかっています。あなたは、わたくしをかばってくださったのでしょう? ありがとう」
 そのように、母君と公達の非礼にも、逆に礼をつくしてくださる姫君。
 やはり、東宮女御となられるお方。
 世間でどれほどめちゃくちゃに言われていようとも、その心根は……とても綺麗で優しいものなのだと、公達は確信しておりました。
 何より、心優しかった兄が、最期まで思い続けていた姫君なのですから、それは当たり前だといえば、当たり前なのでございましょう。
 そうして、香姫さまは、左大臣邸まで送られていかれました。
 その後、お邸内外を探しまわっていた棗をはじめとする家の者たちに、こてんぱんにお説教を食らったことは、言うまでもないでしょう。
 また、もう二度と、笹舟の君の母君と弟君にお会いすることもないでしょう。
 香姫さまには、もう暇つぶしのための一人旅をする時間は残されていないのですから。
 これは、入内を控えた香姫さまの、最後の一人旅だったのでございます。
 思いを、すべてをふっきり、これから陽楊さまだけにつくされる香姫さまの、決別の小さな旅――


 笹舟の君、わたし、この世でいちばん幸せな姫になるわ。

 雪がとけはじめ、そして桜の蕾が顔をのぞかせた頃。
 心でそっと、空の上にいる笹舟の君に、そう誓われました。
 きゅっと、笹の舟をにぎりしめられながら……。
 それは、笹の舟にこめられた、香姫さまの思い。笹舟の君に対する誓い――


笹の舟に思いを込めて おわり

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update:03/11/10