愛あふるる桜降る夜

 ひらひら舞い落ちる桜の雪。
 ひとたび風が吹けば、それは吹雪へと姿を変える。
 桜吹雪――
 そのような、景色も心も躍る季節。
 辺り一面、淡い桃色の世界と化す頃。
 桜降る光景を目にすると、心は愛あふるる。虜になる。
 それが、趣を解する人というもの――

 この度、都を巻き込んだ一大行事、左の大臣の姫君、香姫さまの入内のお式が、滞りなく執り行われました。
 どこかの困ったちゃんな宮様のお言葉をお借りすると、「つまらない」というほど、それはもう、騒動一つなく円滑に。
 あの左大臣家の香姫さまでございますから、必ず何かしでかしてくださると期待していた者たちの期待をおおいに裏切り、それはそれは盛大なお式となりました。
 桜舞う中のお式は、都の人々の記憶に、深く刻み込まれたことでございましょう。
 そして今宵は、東宮と香姫さまのはじめての夜。
 はじめて過ごす、ご一緒の夜……。


 こちら梨壺、北庇の御寝所は、一つの燈台の小さな淡い光だけで、微かな明かりを保っております。
 簀子の軒に吊り下げられた釣燈篭も、格子が下ろされた今では、そこにまで灯りを運んでくることは少し難しいようでございます。
 月明かりのもと、都中に、ひらひらと桜の花びらが舞っておりました。
 もちろん、こちら東宮御所においても、どこから舞い込んできたのやら、桜の花びらが姿を見せておりました。
 それはまるで、おめでたい今宵を祝福しているかのように。
 御帳台はなく、褥の上にだらりとのばされた黒髪。
 そして、あられもない(ひとえ)姿の女性が一人。
 伏目がちの潤んだ瞳で、ちらっとななめ上を見ると、そこには、同様に単姿の殿方が一人。
「香子……」
 殿方はそうつぶやくと、すっと単姿の女性を抱き寄せました。
 燈台の灯りに照らされ、几帳にぼんやりと映る、重なり合う影……。
 ――と、ここまでくれば、もうおわかりでございましょう。
 そうです。今宵は、ついに、香姫さまと陽楊さまのはじめての夜でございます。
 すでに女房たちも皆下がり、こちら御寝所には、香姫さまと陽楊さま、たったお二人きり。
 となると、もちろん、話は、「あら、いやだっ」と進んでいくはずですが……。
「ま、待って。陽楊さま」
 さすがは香姫さま。そう簡単には、事を運ばせてくださらないようでございます。
 慌てて陽楊さまを突き放されました。
 そして、ほんのりと頬を染め、潤んだ目で陽楊さまを見つめられます。
「香子? どうしたのだい?」
 陽楊さまは、せっかくのりかけていたその気をくじかれ、少し残念そうでございます。
 さりげなく、頬がふくらんでいるような気が……。
「あ、あのね。何かね、わたし、とても嫌〜な予感がするのよ」
「嫌な予感?」
 陽楊さまは、再び香姫さまを抱き寄せられ、そのままご自分の膝の上へとおのせになられました。
 そして、怪訝そうに、香姫さまの耳元でささやかれます。
 そうなるともちろん、香姫さまのお顔はぼんと真っ赤に染め上がり、お体はびくっと反応されます。
 まあ、ここまで雰囲気を作り上げられてしまっては、そりゃあそのような反応をされるでしょう。いくら、鈍い香姫さまとはいえ。
 何しろ、この先にはもう、一つしか道が残されていないのですから。
 だからこそ、いざという時になって、香姫さまは逃げ腰になられてしまったのも、また事実でございます。
 いい加減、ご覚悟なされませ、香姫さま。
 しかし、そのような香姫さまのお気持ちを汲み取り、優しく接されるのが陽楊さまでございます。
 香姫さまには、べた甘でございますから。
 無理強いなどせずに、ひとまずは、香姫さまの心ゆくまで、そのお話につき合おうとされておられます。
 ええ、もちろん。その後は、決まっておりますけれど……。
「陽楊さまは感じない? 今回、妙に順調に進みすぎてやしないかしら? 普段なら、当然入るであろう葵瑛さまの邪魔もないし……」
 ぐりんと首をまわし、香姫さまは訴えるように陽楊さまを見つめられます。
 すると陽楊さまは、むすっとした顔で目をすわらされます。
「このような時に、他の男の名は聞きたくなかったな」
 まあ、陽楊さまのこの反応は、至極当然のことでございましょう。
 これからという時にくじかれ、そして、香姫さまのお口から出た言葉がこれなのですから。
 しかし、香姫さまのおっしゃることも、また無下にはできないことでございます。
 滞りなく入内が済み、今宵、結婚の夜。
 ここ数日、あの葵瑛さまが、一度も香姫さまと陽楊さまの前に現れなかったのでございます。
 香姫さまはともかく、一日たりとも陽楊さまの前に現れなかったことのない、あの葵瑛さまがでございます。
 これはもう、香姫さまではございませんが、何かよからぬ嵐を予感しても、仕方のないことでございます。
「もう、いいから。いくら葵瑛とて、まさかこのような夜に邪魔などしないよ。……そう、このような時に邪魔などしたら、その時こそ、わたしは葵瑛との縁を切る」
 陽楊さまはきっぱりとそうおっしゃると、さらりと香姫さまの御髪に触れ、そのまま褥の上へと横たえておしまいになられました。
 褥に横たえられてしまった香姫さまは、話を途中で切られ、少しすねたようにぷうと頬をふくらませておられます。
 どうやら、陽楊さまは、香姫さまの心ゆくまで……までは、待ちきれなかったようでございます。
 香姫さまもまた、もう諦めてしまわれたのか、うっとりと、ご自分のお顔の上にある陽楊さまのお顔を見つめられました。
 もう、香姫さまのそのお心は、すべて陽楊さまへと向けられているご様子でございます。
 他の何ものにも、気を取られることなく……。
 そのような香姫さまに、ほんのりと赤い頬の陽楊さまの微笑が降り注ぎます。
「長かった……。ようやく、わたしのものになるのだね?」
「ひ、陽楊さま?」
 突然の陽楊さまのそのようなお言葉に、香姫さまは恥ずかしそうに頬を染め、ぷいっとお顔をそむけられてしまいました。
 しかし、そこは褥の上。そして、横たえられている香姫さま。
 抵抗の余地などございません。
 香姫さまの頬に触れた陽楊さまの手によって、香姫さまのお顔は、また陽楊さまへと向けられます。
 やはりそこには、陽楊さまの熱い眼差しがございました。じっと、そらすことなく、香姫さまを見つめておられます。
 次第に、香姫さまの瞳は潤みを増し、何とも艶やかなる視線が、じっと陽楊さまをとらえております。
 うっすらと照らす燈台の灯りにより、香姫さまの艶かしさは、さらに強調されます。
 香姫さまと陽楊さまは、じっと、互いに互いを見つめ合われておられます。
 そして、陽楊さまがおもむろに燈台へ手をのばされ、ふっと息を吹きかけ、灯りを消してしまわれました。
 そこにはもう、明かりはなく、ただ、格子の隙間からすり抜けて入ってきた、微かな月明かり。そして、釣燈篭の灯りのみ。
 微かな月明かりに照らされたお二人のお姿が、また次第に重なり合っていきます。
「香子。愛しているよ……」
 あたたかな吐息とともに、甘いささやきが香姫さまのお耳をくすぐりました。
 そして、陽楊さまのお耳にもまた、
「陽楊さま。わたしもよ……」
そのような甘やかなささやきが――
 そうして、お二人のはじめての夜が更けていきます……。


 と、思ったその時でございます。
 いきなり、香姫さまと陽楊さまの視界が、ぱっと明るくなりました。
 それに、何事か!?と驚かれた陽楊さまが、がばっと身を起こし、香姫さまからはなれられます。
 同様に、香姫さまもばっと身を起こされました。
 するとそこには、お二人の目の前には、何とも嫌な、今宵だけは、今宵だけこそは、見たくなかったそれがあるではありませんか。
 にやにやと、とても愉快そうに微笑む葵瑛さまのお顔が。
 手に燈台を持ち、その灯りを陽楊さまのお顔へとかざす、葵瑛さまのお姿が。
 お二人をのぞきこむようにして。
 そして、葵瑛さまのまわりには、無数の灯りのともった燈台が。
 どうやら、これが、突然明るくなった原因のようでございます。
 まったくもって、噂をすれば何とやら……でございます。
 やはり、そううまくは進まなかったようでございます。このお二人なだけに。
「……」
 香姫さまも陽楊さまも、あまりもの驚きぶりに、お言葉がでないご様子でございます。
 ぽか〜んと大きくお口を開けたまま、葵瑛さまを見つめておられます。
 そのようなお二人に、くすくすと嫌な笑い声が降り注いだかと思うと、次に、信じられない言葉が投げかけられました。
「さあ、これから、お二人のご結婚のお祝いをいたしますよ。清涼殿で宴の用意が整っております。皆様お待ちですからね、ちゃちゃと適当に何かはおって、早急にお越しくださいね?」
 にっこりと微笑む葵瑛さま。
 ことりと音を響かせ、持っておられた燈台を床に置かれます。
 扇でお顔をお隠しになったその内から、くすくすくすと愉快そうに、いつもの笑い声が聞こえてまいります。
 そして、呆然とされている陽楊さまの腕を、強引に引き上げられます。
 さらに、腕を引き上げられた陽楊さまの目に、またまたとんでもないものが飛び込んでまいりました。
「ち、父君!?」
 陽楊さまがようやくお口にされた言葉が、それでございました。
 見ると、格子の前に、これまた扇でお顔をお隠しになられた帝のお姿がございました。
「めでたいからね。やはり、このような夜は、皆で酒盛りといこうではないかっ。――あ。ほらほら、いつまでそのような単姿のままでいるのだい。さっさと(ほう)なり何なりはおって、おいで。清涼殿へ」
 帝のそのお言葉を聞かれた瞬間、陽楊さまのお体がぐらりと大きく揺れていました。
 そして、目をまわすかのように、そのままばたんとその場に突っ伏されてしまいました。
 香姫さまはと申しますと、いまだに放心状態でございます。
 少しお胸元が乱れた、単姿そのままで。
「おやおや。わたしは早く孫の顔を見たいというのに、東宮がこのような腑抜けでは期待できないね」
 床に突っ伏す陽楊さまのお顔をのぞきこむようにして、帝がにこりと微笑みおっしゃいました。
 すると陽楊さまは、がばっとお顔を上げ、帝の胸倉をつかみ上げ、ぎろりとにらみつけられます。
「そう望むなら、邪魔しないでください!!」
 当然、怒鳴る陽楊さまを、この上なく愉快そうに、ぱらりと扇などを開き、くすくすくすと笑われる、鬼のような親子のお姿がそこにございました。
 月明かりに照らされたその二つの微笑みは、それはそれはもう、恐ろしいものでございます。
 陽楊さまは、まるで百鬼夜行(ひゃっきやこう)にでも出会ったかのような衝撃を受けられたとか。
 そこでようやく、香姫さまが正気に返られました。
 瞬時に全身を真っ赤に染め上げ、うるうると瞳を潤ませ、お顔を覆い隠してしまわれました。
 そして、そのまま褥に突っ伏し、いやんいやんと、首を激しく左右に振っておられます。
 こと男女の仲、とくにご自分のこととなるとこの上なく鈍くなる香姫さまでございますから、まさかこのような爆弾発言が飛び出るなど思いもよらなかったようでございます。
 香姫さまには、まだ少し、刺激の強いお言葉だったのでございます。
 孫の顔ということは、孫の顔ということは、すなわち――
 今にもこの場から逃げ出してしまいそうなご様子でございます。
 嗚呼。お気の毒に、香姫さま。
 はじめての夜をぶっ潰され、そして投げかけられた言葉がこれ。
 まったくもって、帝も葵瑛さまも、お戯れが過ぎるというものでございます。
 いくら相手が、天下無敵の破天荒、誇りの姫君、香姫さまとて、香姫さまもまたうら若き乙女でございますから、さすがにこの仕打ちは、ちょっと……。
 これから家族となられるお方からこのような仕打ちを受けては、香姫さまの後宮での生活も、前途多難な予感がそこはかとなく漂ってまいります。
 もちろんそれは、後宮においての権力争いなどといったそのような無粋なものではなく、おもちゃにして遊ばれる……といった意味ででございます。
 それにしても、さまか、このような日にまで、このような夜にまで、このお二方の邪魔が入るとは、さすがの香姫さまも陽楊さまも思ってはおられなかっただけに、もうどうしたらよいのやら、頭が真っ白といったご様子でございます。
 よって、いつものダブル鉄槌もお見舞いされません。
 ……まあ、香姫さまに関しては、どうやら、女の勘とやらで気づいておられたようでございますが……。
 しかし、気づいていようがいまいが、恥ずかしいものは恥ずかしく、悔しいものは悔しいというものでございます。
 どうやら、この日のために、油断させるために、葵瑛さまは、陽楊さまで遊ぶことをぐっとこらえておられたようでございます。
 まったくもって、おかしなところでだけは、こらえ性のあるお方でございます。
 さすがは、ご自分が楽しむためなら、苦労も厭わないお方でございます。
 そして、香姫さまは、今もって、恥ずかしそうに泣きそうなお顔をされておりました。
 体を起こされ、すすすっと几帳の陰にお姿を隠していかれます。
 恥ずかしいことこの上なかったことでございましょう。
 ある種、あわや濡れ場を、見られてしまったのですから。
 そのようなもの、乙女ちっく、ロマンチストの香姫さまにとったら、それはもう――
 嗚呼。陽楊さま。本当に、もう、このような宮様とは、さっさと縁を切ってしまわれた方がよいと思いますよ……?
 しかし、葵瑛さまが、陽楊さまを決して放してくださらないのも、また事実でございましょう。
 なぜなら、このようなに愉快なおもちゃは、そうそうありませんからね?
 それにしても、まさか、帝まで巻き込んでおられるとは。そして、帝まで悪乗りしておられるとは……。
 さすがは、困ったちゃんな親子でございます。


 このようにはじまった、香姫さまと陽楊さまの新婚生活。
 今後の行方が、とてつもなく不安になってしまうのは、果たして、香姫さまと陽楊さまのお二人だけでございましょうか?

 そうして、愛あふるる桜降るはじめての夜が、一晩ぶっ通しのどんちゃん騒ぎの宴会へと化けて、更けていくのでございます。


愛あふるる桜降る夜 おわり

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update:03/11/13