淡色染まる春の御所
(一)

 むかしむかし、はるかむかし、悠久の歴史の中、雅の風に包まれたむかし。
 都に、ちょっと普通と違った、高貴なお血筋の姫君がいらっしゃいました。
 姫君の御名は、香子さま。
 皆、姫君を、愛情をこめて、こう呼ばれていたそうでございます。
 ――香姫さま。
 そして、都にはもうお一方、ちょっと普通と違った、高貴なお血筋の殿方がいらっしゃいました。
 殿方の御名は、常永親王さま。
 後に帝となられる東宮でございます。
 そして、東宮に近しい香姫さまは、愛情をこめて、こう呼ばれていたそうでございます。
 ――陽楊さま。
 そのようなお二人方が、はじめてお会いになられたのは、それは見事な満月の夜、香姫さまのお父君であられる左大臣が催された管弦の宴でございます。
 ふらりと立ち入った左大臣邸東の対の秋のお庭と呼ばれる、そのお庭のもみじの木の下で、陽楊さまは、簀子におでましになられた、艶やかなる姫君に一目ぼれされてしまわれたそうです。
 その姫君こそが、香姫さまでございました。
 それから、陽楊さまと仲の良い兄上、兵部卿宮、葵瑛さまの迷惑なほどのご協力のおかげで、ある春の日、見事、陽楊さまは香姫さまを手に入れることができたそうでございます。
 香姫さまの東宮妃入内より、一年。
 香姫さまと陽楊さまが出会われてから、二年と半年。
 また、都中を陽気に染める、あの桜咲く季節がめぐってまいりました。


 こちら、都は内裏、東宮御所。
 そちらの南庇に、東宮御所の主であられる陽楊さまがいらっしゃいました。
 脇息にもたれるように肘をつかれ、ぼうっとしておられます。
 どこか物憂げでいて、思わず心配してしまいそうになられたかと思うと、急にお顔をぱっとはなやがせ、にやにやと笑い出してしまわれたり……。
 何とも情緒不安定なように見受けられます。
 もちろん、女房たちはそのような陽楊さまに気づいておりましたが、そのまま放っておき、お声をかけようとすらしておりません。
 どうやら、女房たちには、陽楊さまのこの奇怪なお振る舞いの原因が、わかっているようでございます。
 くすくすと、実に雅に笑い合い、陽楊さまのもとから遠ざかっていきます。
 とうとう一人きりにされてしまった陽楊さまのもとへ、ひょこっと、あの方がやってこられました。
 軽快に御簾を上げ、微笑まれます。
「やあ、陽楊。遊びにきましたよっ」
 陽楊さまは、そのお言葉を聞かれるやいなや、がばっと振り返り、だだだだだっと手で床をかき、後ずさってしまわれました。
 そして、きっとにらみつけるように見上げられます。
 陽楊さまが見上げられたそこには、もちろん、あの方、葵瑛さまのお顔がございました。
「葵瑛! 一体何をしに来たのだ?! 今日だけは、お前の顔など見たくなかったのだがな?」
「おや? これはつれない……」
 残念そうな表情を浮かべられるとすぐに、扇をぱらりと開き、それでお口元を隠され、ふふふと笑われる葵瑛さま。
 あれから一年経った今でも、やはり葵瑛さまは葵瑛さま。まったくお変わりがないようでございます。
 そして、陽楊さまのこの行動から、葵瑛さまの困ったちゃんぶりは、さらに増長していると思ってもよさそうでございます。
「それより、少しお話をしませんか? 今日は、あなたとたっぷりお話をしたい気分なのですよ」
「はあ!? いつも嫌というほど話しているではないか。……迷惑なほどに」
 陽楊さまは、体勢を立て直し、脇息に肘をのせられ、むすっと葵瑛さまをにらみつけられます。
 しかし、そのような陽楊さまに、この葵瑛さまがかまうはずもなく、くすくすっと笑い、そのまま陽楊さまの前に腰を下ろされました。
 こうなってはもう、葵瑛さまを誰もそこから動かすことなどできません。
 もちろん、天下の帝ですらも――
「もう、あれは二年半も前の頃になりますね……。左大臣邸の宴で、はじめて香姫殿……あ、これは失礼。東宮女御を拝見したのは……」
 葵瑛さまは扇を口元へやり、ほうっと趣深いため息をもらされました。
「そうだな。お前は、それ以前から、本当に香子が好きだったからな」
 陽楊さまはあまり気がすすまないといったようではございますが、律儀にも葵瑛さまのお相手をされます。
 こういうところが、葵瑛さまに、「だから、わたしはあなたが好きなのですよ」と言わせてしまう、陽楊さまのよいところであり悪いところなのでございましょう。
「おや? やはり気づいておられましたか?」
 葵瑛さまは少し驚いたように、わざとらしく目を見開かれ、またにやにやと目を細められます。
 そのような葵瑛さまを、陽楊さまがうんざりしたご様子で、ちらっと見られます。
「気づいていたも何も、左大臣邸へ行くことになったのは、お前の……」
「どうしました?」
 いきなり言葉を切られた陽楊さまに、葵瑛さまは首をかしげられます。
「やめた。思い出すだけでも腹立たしい。お前には、全て見透かされていたからな。――あの時、わたしが香子を好きになってしまったことを……」
 陽楊さまはぷいっとお顔をそむけられ、ほんのりと頬を染められました。
 そのような反応をされては、これはもう、葵瑛さまの興をそそる一方でございます。
「そうですね。それからあなたは、東宮女御を手に入れるために左大臣に打診したにもかかわらず、あっさり袖にされてしまいましたからね〜」
 顔をそむけられた陽楊さまに、まだ逃がしませんよ、とばかりに、葵瑛さまは、お話を続けられます。
「お前は、どうして先ほどから、昔のことばかりをそう蒸し返す?」
「いいではありませんか。昔話もまた一興。時間は、まだたっぷりありますよ?」
 葵瑛さまは、扇の向こうでくすくすっと笑われます。
 すると陽楊さまは、もう早々に抵抗することをやめてしまわれたのか、ゆっくりとお顔を戻されました。
 そして、諦めたように、少し困ったように微笑まれます。
 しかし、そのお顔は、たしかに困ってはおられるようでございますが、どことなく……嬉しそうでもございました。
 それに、陽楊さまってば、いつものように、こうしてご機嫌うかが……いえいえ、からかいにやってこられる葵瑛さまを、一度たりとも無下に追い返されたことなどございません。
 葵瑛さまのお気に入りが陽楊さまであるように、陽楊さまのお気に入りもまた、葵瑛さまなのでございます。
 幼い頃、母君を亡くしたかわいそうな皇子は、後に内大臣の後見を受けられることになりました。
 そして、その皇子の最初の参内の際、このご兄弟ははじめてご対面されたのです。
 その時に、どちらからともなく心かよわせ、そして都に知れ渡るほどの親友……悪友になるには、そう時間を要さなかったということでございます。
 その後、いつの間にか、葵瑛さまは、このようにいつでも好きな時に、東宮御所にやってこられるようになっておりました。
 それほどまでに、気がおけない関係に発展していたのでございます。
 そして、このご兄弟の仲を引き裂くものなど、恐らく、この世には存在しないでしょう。
 口や態度では嫌がりもしておられますが、決して、そのお心は嫌がっておられません。
 お互いに信頼しきった、理想のご兄弟像を見ているようでございます。
「まったく……。まるで、何もかも、お前の企み通りに動いているようで、わたしは最近、ことにお前が気に入らない」
 むすっと頬をふくらませ、脇息に肘をついた手にお顔をのせられます。
 そのような陽楊さまの前で、やはり葵瑛さまは、愉快そうに微笑んでおられます。
「おやおや。それは、残念。ですが、わたしはあなたが大好きですよ? 東宮」
「やめろ。気持ち悪い」
 本当に嫌そうに顔をゆがめられた陽楊さまに、葵瑛さまはふふと含みのある笑みをもらされました。
 しかし、含みがあるにもかかわらず、葵瑛さまの目は、いつものようにお優しく、陽楊さまのお姿を映しております。
「まったく、お前は本当、とんでもない奴だよな。自分の楽しみのためなら、平気で東宮御所に呪詛をしかけるは、東宮暗殺を企むは、香子の暗殺を企むは、香子と二人きりのはずだった嵐山には乱入してくるは、宇治に香子と一緒にでかけるは……。他にも、いろいろなことをしでかしてくれたよな!?」
 陽楊さまは、ぎろりと葵瑛さまをにらみつけられます。
 そして、陽楊さまの体から、その怒りが再びこみ上げてくるのか、わなわなと黒い気が立ち上りはじめました。
 それをまたこの方、葵瑛さまは、実に愉快そうに、興味深げにしげしげと見ておられます。
 この心地よい春の陽気も、このような葵瑛さまを前にしては、台無しでございます。
 陽楊さまは、この上なく、ご気分が優れなくなってしまわれました。
「陽楊。それは違いますよ。ひとつだけ訂正させてください。宇治へは、わたしが東宮女御に拉致されたのですよ」
 試すように、葵瑛さまの目が、実に愉快そうに陽楊さまをとらえております。
 葵瑛さまの視線を受け、陽楊さまはかちんとこられましたが、何やらすぐにその怒りは、先ほどの黒い気とともに消え去ってしまったようでございます。
「……あの時は、本当、どうなるかと思ったよ」
 切なそうに、ふっと視線を御簾の外の春真っ盛りのお庭へ移されました。
 そのご様子だけで、葵瑛さまは、陽楊さまが何をおっしゃりたいのかわかってしまわれたようでございます。
「そうですね。たしか、東宮女御の筒井筒の君が現れて……。ああ。あの謀反人、露の宮も出てきましたかねえ?」
「……お前。本当に楽しそうに話すな?」
 視線を戻し、陽楊さまは葵瑛さまを恨めしそうににらまれます。
「ええ。あの時のあなたは、見ものでしたよ? 『どうしよう、葵瑛。わたしは香子に捨てられる〜』とね?」
 くすくすくすと、またいつもの葵瑛さまの笑い声が、庇いっぱいに響きます。
 陽楊さまは、何か言いたそうにお口をぱくぱくとされましたが、すぐに何かを悟ったようにやめてしまわれました。
 さすがに、もう数えるのも面倒なくらいご一緒に過ごされておられるお二人でございますから、陽楊さまも、そろそろまともに葵瑛さまのお相手をしてはならないということを、わかりはじめてこられたようでございます。
 ――ええ、それに気づかれるまで、とてつもなく長い年月を費やしておられますが。
 すっかり抵抗することをやめてしまわれ、脇息にもたれるようにされ、ぼうっと遠くへ思いをはせはじめられた陽楊さまをご覧になり、葵瑛さまは少しつまらなそうにむっとされました。
 そしてまた、思い出したかのように、ぱらりと扇を開き、すいっと陽楊さまのお耳元にご自分のお顔を持っていき、そっとささやかれます。
「いよいよですね。里帰りしておられた東宮女御が戻っていらっしゃるのは。今回は、ずいぶん待たされましたね?」
 その瞬間、かっと陽楊さまのお顔が真っ赤になってしまわれました。
 そして、目ににじむものを浮かべ、恨めしそうに葵瑛さまを見つめられます。
 そのような陽楊さまを見て、葵瑛さまはまたふふと笑われました。
 どうやら、先ほどから香姫さまのお姿が見えないと思いましたら、香姫さまは左大臣邸へとお里帰りをされていたようでございます。
 そして、この陽楊さまの反応からすると、もしやまた、いつかのように、喧嘩をされているということでございましょうか?
 ……まったく、懲りない方々でございますね。
 それならば、葵瑛さまがひょっこり現れる前までの、情緒不安定な陽楊さまもうなずけるというものでございます。
 陽楊さまは、やはりいつまでたっても、香姫さまなしでは、朝も昼も夜もないのですから。
 いつまでたっても、めっためったのぎっとぎっとに、香姫さまにめろめろなのでございます。
 出会いより二年。入内より一年たった今でも……。
 その時でございました。
 どこからともなく、ずだだだだだという、けたたましい足音が響いてまいります。
 そしてその足音は、次第にこちら、陽楊さまと葵瑛さまがいらっしゃる南庇へと近づいてきているようでございます。
 陽楊さまは、その足音に聞き覚えでもあるのか、ぎょっと身を震わされ、脇息を投げ出してしまわれました。
 そして、そのまま几帳の後ろへさっとお隠れになります。
 そのような慌てふためく陽楊さまをご覧になり、葵瑛さまはくすくすと笑われます。
 やはり、扇などをぱらりと開き、実に愉快そうに、実に雅に。
 陽楊さまの悪い予感は的中でございます。
 先ほどの足音がぴたっとこちら庇の前で止まったかと思うと、その瞬間、ばさっと乱暴に御簾が持ち上げられ、一人の殿方が飛び込んできました。
「東宮! 約束だからな!!」
 そして、いきなりそう叫ばれたのです。


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update:03/11/16