淡色染まる春の御所
(ニ)

「おや、まあ」
 少し取り乱したふうのその殿方を見て、葵瑛さまはこれまたおかしそうにくすくすと笑われます。
 そして立ち上がり、殿方を出迎えに行かれます。
 それと同時に、陽楊さまが几帳の陰からばっと姿を現されました。
「は!? 父君!? 一体、何のことです? 約束とは……」
 陽楊さまは、約束というお言葉に身に覚えがないようで、慌てて確認されたかったようでございます。
 そのために、せっかく身をかくしていたというのに、わざわざまた、ご自分から姿を現してしまわれました。
 今の陽楊さまは、狼の前に自ら姿を現す、馬鹿な兎でございます。
 そうです。陽楊さまは、父君……すなわち、帝から逃げたかったようでございます。
 この帝という方もなかなかに曲者で、さすがと言っては何ですが、陽楊さまと葵瑛さまのお父君のことだけはございます。
 いつかのように、やはり血は争えないというものでございます。
「とぼけるな! 言っておいただろう」
 しかし、そうおっしゃられても、やはり陽楊さまには身に覚えがないらしく、しきりに首をかしげておられます。
 そして、ふっと思い当たったのでしょう、ぐりんとお首をまわし、帝の横で不敵に微笑んでいらっしゃる葵瑛さまを、ぎろりとにらみつけられました。
「ああ、そうそう。言い忘れておりましたが、主上より、東宮に伝言を頼まれていたのですよ。――そう……あれはたしか、次の東宮がお生まれになった日……」
 葵瑛さまは、いかにも今思い出したとばかりにわざとらしくそうおっしゃり、不気味な笑みを浮かべ、ちらりと陽楊さまへ視線を送られます。
 その瞬間、陽楊さまは、また嫌な予感に襲われました。
 ぞぞぞっと背筋に悪寒がはしり、ぎゅっと両腕でご自分を抱きしめ、ぶるるっと身を震わされます。
「葵……瑛……?」
 不安げに、葵瑛さまを見つめられます。
 すると葵瑛さまは、これ以上ないというほどさわやかなお顔で、にっこりと微笑まれました。
「次の東宮も生まれたことだし、桐壺女御が戻ってきたら、わたしは隠居するぞ」
 葵瑛さまとともに、帝があっけらかんとしたお顔で、同時にそうおっしゃいました。
 その瞬間、陽楊さまは、ぽか〜んとお口をあけた間の抜けたお顔とともに、葵瑛さまと帝を凝視されたことは言うまでもないでしょう。
 まったく。寝耳に水とは、このことでございます。
「はあ!?」
 まったくもってこの親子は、本当、どうしてそのような、国をもゆるがす大変なことを、事もなげにあっさりと言ってしまうのかと、陽楊さまは頭をかかえよろめかれました。
 嗚呼……。気が遠くなりそうだ……。
 とは、後にこの時の事を語られた、陽楊さまのお言葉でございます。
「くすくすくす……。これはまた、主上も宮もお人が悪い」
 そのような声が聞こえたかと思うと、また御簾がすっと持ち上げられ、扇でお顔を隠した中宮がお姿を現されました。
「母君!」
 中宮のお姿をみとめられると、陽楊さまはさらにお顔の色を失われ、まためまいを感じてしまわれました。
 ようやく気を持ち直し、東宮がお口を開かれるより早く、中宮はにっこりと微笑み、東宮の御煩いを増やされます。
「わたくしもね、早くお顔が見たいのよ。だって、初孫ですもの」
 さすがは中宮。
 あの帝のお妃なだけはございます。実に愉快そうに、わが子、東宮で遊ばれはじめました。
 そのような中宮に、陽楊さまはもう疲れきったように、がくんと肩を落とされます。
「母君まで……」
 そして、恨めしそうに、中宮を見られました。
 もちろん、そのような陽楊さまの前では、中宮はもとより、帝、葵瑛さまもにやりと微笑まれ、実に愉快そうに陽楊さまを観察されております。
 もう嫌だ。このような生活。
 これもまた、後に語られた、陽楊さまの真の思いでございます。
「何をしているの? あんたたちはまた……」
 肩を落とされている陽楊さまの耳に、今度はそのような言葉が飛び込んでまいりました。
 陽楊さまは、またか!と、辺りをきょろきょろと見まわされます。
 すると、中宮の後ろの御簾が少し持ち上げられ、そこから梅若が現れました。
「梅若? お前まできたのか!?」
 うげろっと顔をゆがめられ、梅若が次の言葉を出す前に、閉じられた扇で、しっしと追い払おうとされます。
 そのような陽楊さまに、梅若はむすっとし、ぎろっとにらみました。
「お前はたしか、正式に童殿上(わらわてんじょう)をはじめたのではなかったのか? ならば、このようなところで油を売っている暇などないだろう」
 もういい加減うんざりといったご様子で、陽楊さまはさっさと梅若を追い払うようにおっしゃいました。
 すると梅若は、とても童殿上をはじめたばかりの童のものとは思えぬ、世間に疲れきったような大きなため息を一つもらしました。
「ああ、もちろんだよ。だけどねえ、どこぞの、かしこき女君さまに捕まっては、さすがにぼくだって逆らえないものね〜……」
 どこか遠い目をして、梅若がしみじみと言いました。
 腕を胸の前で組んで、うんうんなどとひとりごちます。
「かしこき女君?」
 陽楊さまは、梅若のその言葉に首をかしげられます。
 かしこき女君≠ニ言われても、陽楊さまには、すぐにぴんとくるお方はおられなかったのでございます。
「もちろん、わたくしですわよ」
 これまた御簾がすっと持ち上げられ、くすくすと笑いながら、女四の宮が庇へと入ってこられました。
 それを見て、葵瑛さまは驚いたようなお顔をされ、すぐににっこりと微笑まれます。
「おや、義母上。あなたまでいらっしゃったのですか?」
 葵瑛さまは、ちらっと女四の宮に視線を送り、開いた扇の陰にお顔を隠し、くすくす、くっくっと笑われます。
「もちろんだわ。一刻も早く、次の東宮のお顔……そしてとりわけ、元気なお姿の桐壺女御を拝見したいもの」
 女四の宮はそうおっしゃると、ちらっと陽楊さまを見て、微笑まれました。
 するともちろん、陽楊さまはまた、ぞくっと背筋に冷たいものを感じてしまわれるのです。
 その微笑は、さすがは義理とはいえ、親子。どこか葵瑛さまに通じるものがあったのでございましょう。
「おやおや……」
 そのような義母君のお言葉に、葵瑛さまはお言葉とは裏腹に、楽しげにくすくすと笑いはじめてしまわれました。
 それにつられるかのように、帝、中宮、女四の宮も、くすくすと笑いはじめられました。
 梅若は、むすっとおもしろくなさそうに、目の前のいとかしこき方々を見ておりました。
 陽楊さまは……もう、目の前も頭も真っ白といったご様子でございます。
 くらわんくわらんと脳が回転し、めまいを覚えておられました。
「何なのだ!? あなたたちは、次から次と……」
 これは、心をこめた、陽楊さまの思いでございます。
 そこへまた、追い討ちをかけるように、かすれた小さな声が聞こえてまいりました。
「あ……あの……」
「ん? 今度は何だ!?」
 いい加減うんざりされていた陽楊さまが、声の聞こえた御簾の外へ向かい、語気を荒げおっしゃいました。
 するとまた、小さな声が返ってきます。
「あ。すみません。兄上さま……。その……わたしも……」
 そうおっしゃりながら、とても気まずそうに、御簾を持ち上げ、明水さまがすごすごとお姿を現されました。
「明水? お前まで……一体どうしたのだ?」
 まさかとは思っていた弟君の出現に、陽楊さまは半分絶句されたように、お顔をひくひくと動かしておられます。
 さすがに、これまでのいとかしこき皆様方の行動は、陽楊さまも日頃のその行いから、ある程度の予測はできておられました。
 しかし、さかわざわざ御室から、あの明水さままでもがやって来られるなど、思ってもおられなかったのでございます。
 予想外の明水さまの行動に、陽楊さまが驚かれるのも無理からぬことでございます。
 陽楊さまの問いかけに、明水さまはぴっと姿勢を正し、柔らかい微笑みを浮かべられました。
「はい。あの……わたしも、皇子の安寧を祈らせていただきたいと参りました」
「あ? ああ、そうか。明水、すまないね」
 陽楊さまは、明水さまのお言葉に気をよくされたのか、そのお顔にすっと微笑みをたたえられました。
 それをご覧になり、明水さまを胸をなでおろされます。
 「よかった……」と、つぶやかれました。
「おや? これはまた、扱いの差によからぬ他意を感じるのですが? 東宮」
 葵瑛さまは扇の内でにやりと微笑み、不気味な眼差しを陽楊さまへ向けられます。
 するとすかさず、明水さまが葵瑛さまへとお体を向けられました。
「当たり前です、宮様。あなたとわたしでは、人のできが違うのです」
 射抜くような冷たい視線を葵瑛さまへ向け、明水さまがきっぱりとおっしゃいました。
 その時、その目が不気味にきらりと煌めいたことは、葵瑛さまだけがご存知のことでございます。
 ぴくりと葵瑛さまの眉が反応されたかと思うと、刹那、邪悪な表情が現れました。
 そう、ほんの一瞬、一刹那。
「まったく……。お前は、昔からそうだよ」
 そして、すっと御簾の外のお庭へ視線を向け、ふうと哀愁漂うため息をもらされました。
 昔から……ということは、どうやらこのお二人には、因縁めいたものが存在するということでございましょうか?
 今さら、そのようなものは、どうでもよいことでございますけれど。
 その時でございました。
 遠くの方で、どよめきが起こりました。
 そして、そうかと思うと、そのどよめきは、何やらこちらへ近づいてきているようでございます。
 それと同時に、さわやかな、春の暖かく甘い風が、御簾の隙間を通って、庇へと入ってまいりました。
 それが、ここにいらっしゃる皆様のお心に、優しい気持ちを運んできます。
 まこと、春の頃に、こと桜の頃に吹く柔らかな風というものは、人々の心をあたたかくさせる効果があるようでございます。
 陽楊さまは、はっと何かに気づかれ、駆け出されます。
 そして、ばさっと御簾を上げられ、簀子にでられました。
 それと同時に、お顔がはなやぎます。
 ぱあと、まるでこの春の頃の満開の桜のように、それはとても美しく、きらきらとした笑顔でございます。
 陽楊さまの視線のずっと先に、陽楊さまをこのような表情にさせるものがございました。
 視線の先には、まだ生まれたばかりの小さな御子を抱いた、陽楊さまのこの世で最も愛しい姫君が、陽楊さまへと、ゆっくりと歩みを進められていたのでございます。
 陽楊さまは、いよいよ南庇に面した簀子へと足を踏み入れられたその姫君へ向かい、ばっと駆け出されました。
 そして、姫君のもとまでやってこられると、幸せいっぱに微笑まれます。
 姫君は、後ろからついてこられていた父上の左大臣、兄上の月影の中将、そしてその後ろに控えていた棗に視線を送られました。
 するとお三方は、すっと姫君をよけ、陽楊さまに続き、ようやく簀子に姿を現された葵瑛さま方のもとへと歩いていかれます。
 姫君もまた、陽楊さまへ、この世の幸せ全てを独り占めしたような、淡い春色の微笑みを返されます。
「ただいま、陽楊さま」
「香子……」
 陽楊さまはそのつぶやきと同時に、姫君……香姫さまから、皇子を託されました。
 恐る恐る、まるで壊れ物を抱くかのように、皇子を受け取られます。
 そして、はじめてご覧になられるご自分の御子に、こぼれんばかりの微笑みを降り注がれます。
 と同時に、後ろから、がばっと帝が現れ、その皇子をさっと奪い取ってしまわれました。
 一瞬のできごとに、香姫さまも陽楊さまもあっけにとられております。
 帝が皇子を奪いとると同時に、待っていましたとばかりに、わらわらとその他の方々も寄ってこられ、後はもう、自分にも抱かせろと、皇子の奪い合いでございます。
 それをご覧になり、香姫さまと陽楊さまは、お顔を見合わされ、少し困ったように微笑まれます。
 そして、くすりと笑われました。
「陽楊さま。ねえ? もちろん、名前はもう決まっているのでしょう?」
 香姫さまは、陽楊さまの衣の袖をちょいっと握り、上目遣いで試すように見られます。
 すると陽楊さまは、にこっと微笑まれました。
「ああ、もちろんだよ。わたしが、とこしえに、かわらず、生まれた時の純粋さを失わぬようにと、常永と名づけられたから、あの子には、とこしえに、かわらず、幸せであって欲しいと、常幸(ときゆき)と名づけようと思うのだけれど。――どうだろう? 香子」
 少し不安げに、陽楊さまは香姫さまを見られます。
 すると香姫さまは、くすっと笑い、陽楊さまへ微笑みを向けられました。
「あら? いい名じゃない。わたしが反対するわけがないわ」
「それはよかった……」
 そう言って、陽楊さまは香姫さまを抱き寄せられ、これまでの少しの会わなかった時間を取り戻されるかのように、ぎゅっと力いっぱい抱きしめられます。
 もう、少しの間でもはなしたくないとばかりに、心をこめて、力いっぱい……。
 そのような陽楊さまに、香姫さまもこたえられます。
 陽楊さまの背にすっと腕をまわされ、むきゅっと陽楊さまの胸へお顔を沈められます。
 そしてお二人、また、くすくすと笑い合われました。
 今のお二人のお姿を拝見していますと、この一年の間、どれだけこのお二人がさらに絆を深め、そして思い合ってこられたのか……容易に想像のできることでございましょう。
 そのような幸せらぶらぶ雰囲気いっぱいの香姫さまと陽楊さまをよそに、こちらでは、今もって、皇子……常幸親王の奪い合いが続いておりました。
 嗚呼……。この皇子の末の運命も、何やら推し量れるようで、気の毒で仕方がございません。
「ところで、宮。お前と棗は、その後、どうなのだ?」
 葵瑛さまに常幸親王を奪い取られ、少し気を悪くされた帝は、仕返しとばかりに、そのようなことをおっしゃいました。
 じとりと、葵瑛さまに視線を送られております。
「はあ? また、何をいきなりおっしゃるのですか、お父君」
 明らかに、馬鹿にしたような表情を浮かべられます。
 すると、そのような葵瑛さまの腕の中から、女四の宮がすっと常幸親王を抜き取られ、ご自分の腕の中へとおさめられます。
 このように、あっちへこっちへと、たらいまわしにされてもなお、一向に泣くことなく、きゃっきゃっと楽しんでおられる皇子を見ると……いとかしこき方々におもちゃにされ、気の毒どころか、何やら、大物になりそうな予感すらしてまいりますから、不思議でございます。
 よくもまあ、この方々相手に、ここまで喜んでいられるものでございます。次の東宮さまは……。
「あら、宮。わたくしも聞きたいわ」
「義母上まで……? まったく、何のことなのですか、それは」
 ふうと、うっとうしそうに、葵瑛さまはあてつけるようなため息をもらされます。
「おや? わたしは、てっきりそうだと……。女房たちの間では、もっぱらの噂だよ。あの兵部卿宮が、桐壺女御のお付き女房ととりわけ仲がよいと……。なあ? 中宮、女四の宮?」
 帝はそうおっしゃり、ちらりと中宮と女四の宮に視線を向けられます。
 するとお二人は、にっこりと微笑み、こくりとうなずかれました。
 どうやら、おじさまおばさま三人組に、葵瑛さまはおもちゃにされはじめたようでございます。
 あの葵瑛さまを肴に楽しもうなどとは、まったく怖いもの知らずの方々でございます。
 さすがは、いとかしこき三人組といったところでございましょうか?
 そのお言葉とお振る舞いに、むっとされたかと思うと、何やらまたよからぬことでもひらめいてしまわれたのか、葵瑛さまは、にやりと不気味な微笑みを浮かべられました。
「当たり前ではないですか。――しかしまあ、棗殿というよりは、わたしは……」
 そうおっしゃられたかと思うと、寄り添っておられる香姫さまと陽楊さまのもとへすっと歩み寄られ、するりと香姫さまの腕を取り、抱き寄せてしまわれました。
 これまたぎゅっと、香姫さまをご自分の腕の中にしっかりと抱きすくめられます。
 そして、愛しそうに、優しい微笑みを、香姫さまに向けられました。
「次の東宮も生まれたことですし、あなたは役目を十分果たしたでしょう? どうです? もうそろそろ、わたしのもとへ戻ってきては?」
「へ?」
 いきなり抱き寄せられたこともですが、いきなりこのような言葉を送られ、香姫さまは、きょとんとしたお顔をされております。
 幸せぼけされている香姫さまでは、この状況をまだ把握できないようでございます。
 香姫さま以上に幸せぼけされた陽楊さまも、然りでございます。
 いつものもの言わせぬ制裁の鉄槌は、今もって葵瑛さまに下されてはおりません。
「ふふっ。だから言ったでしょう? 陽楊。その気になれば、いつでも奪えると。――わたしはね、欲しいもののためなら、何だってしますよ?」
 たしかに香姫さまを見ておられるのですが、その言葉は明らかに陽楊さまへ向けて発せられたものでございました。
 にやりと不気味にほくそ笑んだお顔を、少しだけ陽楊さまに向けられます。
 その瞬間、陽楊さまは、ようやく葵瑛さまの意図に気づかれたようでございます。
 どっか〜んと、爆発してしまわれました。
 もうそれは見事に、こちら、東宮御所から煙が上がっております。

 常幸親王の奪い合いが繰り広げられるその横に控えていた、こちら、この方々にくらべれば、いたってまともなお三方は、何やら、ひそひそと話しておられるようでございます。
「父上……。我々は、これからも……あの皇族方に仕えていかなければならないのですよね?」
「言うな。みなまで言うな」
 月影の中将に話しかけられた左大臣は、苦虫を噛み潰したかのように、険しくお顔をゆがめられます。
「嗚呼、まったく……。もうこれでは、我々に心休まる日は、永遠にやってこないでしょうね……。よくもまあ、あれで国がもっているというものです」
「――まったくだな」
 左大臣と月影の中将は、感慨深く、大きなため息をもらされます。
 そのような左大臣と月影の中将の後ろから、それを非難するような声が聞こえてきました。
「まあ、大臣、中将さま。あなた方はよろしいではありませんか。一日の数時間、お相手をすればよいのですから。わたくしなど、見てくださいよお。お付女房などになったがために、一日全て、あの方々と過ごさなければならないのですよお!?」
 棗が、目に涙をにじませ、訴えるようにお二人を見つめます。
 棗のその指先は、きゅっと月影の中将の束帯の袖を握っておりました。
 月影の中将は、視線を棗に落とし、苦笑いを浮かべられます。
「……棗。同情するよ……」
 そうおっしゃり、袖を握る棗の手へ、月影の中将の手が重ねられたことは、ご当人方は気づいておられませんでした。
 もちろん、あちらでわいわいと騒いでおられるいとかしこき方々も、そのようなことを知るはずがございません。
 ただ、その横にいらした左大臣だけが、その異変に気づいておられるようでございます。
 お三方は、そのようないとかしこき方々にもう一度視線を送り、全てを諦めてしまったかのように、げんなりと肩を落とされました。
 嗚呼……。
 これからのお三方のご苦労を推し量ると、気の毒以上のものを感じてしまいます。ご愁傷さまでございます。

 まるで春の陽気につられたかのように、都は内裏、東宮御所から、楽しげな笑い声が、いつまでも絶えることなく続いていたことは、都の全ての者が知っていることでございます。
 そして、禁色の袍をまとった陽楊さまの横に、香姫さまが並ばれる日も、近い未来のことでございましょう。


 むかしむかし、はるかむかし。悠久の歴史の中、雅の風に包まれていた頃。
 幸せいっぱいの、風変わりな東宮女御と、これまた風変わりな春宮(とうぐう)がいらっしゃいました。
 これは、淡い淡い桃色に染まった頃、そのようなお二人がおわします、春の御所でのできごとでございます。


淡色染まる春の御所 おわり

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update:03/11/16