ほたる
(一)

 都には、それはそれは名の通った、高貴なお血筋の、若いながらに徳のある僧がおりました。
 その僧の名は、明水。
 僧籍に下る前は、宗平(むねひら)親王と呼ばれていたお方。

 かの方は、兵部卿宮と呼ばれ、帝にも東宮にも覚えめでたいそのような方を兄君に持ち、もちろん東宮も兄君、そして帝その方を父君に持つ、とても立派なお血筋。
 そのような方が、何故、若いながらに出家の道を選ばれたかと申しますと、それは、ほたるに関係があるようでございます。


 今より、五年ほど前のことでございましょうか。
 明水さまが十五歳の頃。
 明水さまには、忘れられぬ女性がいらっしゃるということでございます。
 その女性、名を蛍子(けいこ)と申しますが、すでに夫のある身でございました。
 しかし、どうやら近頃は、夫の通いもなくなり、夜離れ(よがれ)間近だったと申します。
 夜離れ。
 それは、夫が通ってこなくなること。すなわち、離婚――


 明水さまとかの女性が出会われたのは、ほたる飛びかう夏の夜。
 蚕ノ社へ向かいつつ、笛を奏でておられた明水さまの前に、まるで彷徨うようにその女性が現れました。
 ふっと現れたその女性は、何ともこの世のものとは思えぬ艶かしさを放っていたということです。
 明水さまは、その女性を目にされた瞬間、まるで目を奪われたかのように、ぴたっと演奏をとめてしまわれました。
 じっと、目の前に頼りなげにたたずむ女性を見ておられます。
 そして同時に、今、まさに目の前にいるその女性に、何やら違和感を覚えられました。
 それは、このような夜更けに女性が一人歩きをしている、そのことにもでございましたが、違和感を覚えたのは、そのようなことではなく……。
 もっと、違うことに――
 たしかに、この通りには、明水さまただお一人しか歩いておられなかったのに、いきなり目の前に現れていたのです。
 この見通しのよい通りで。
 それは、ふってわいたかのような登場でございました。
 これが、松原ならば、天女が舞い降りた……そのように思ってしまえるような現われ方でございました。
 それが、明水さまには、この上なく不思議に思われてしまったのです。
 それは、必然のめぐりあわせのように思えて……。
「……やめないで。もっと聴かせてください」
 演奏をとめ、胸の前で笛を持っておられる明水さまに、現れたその女性はすがるようにそう言いました。
 明水さまは、不思議そうに女性を見つめられます。
 すると女性は、今しがたの自分の発言に少しの後悔をにじませ、だけどその思いの丈を語らずにはいられないとばかりに言葉を続けます。
「ごめんなさい。でも、わたくし……あなたの演奏に聴きほれてしまって、そうしてこのように、思わず出てきてしまったのです。ですから……」
 女性は、すがるように明水さまを見つめました。
 このような夜更けに、女性が一人で、それだけのために……?
 どこから見ても、地下の娘には見えず、むしろそこそこの身分ある貴族の姫君のような姿。
 綺麗に長くのばされた黒髪。そして、上等のつくりの唐衣。
 とても美しい明水さまの笛の音に、聴き入っていたのは事実でございます。
 この夏の夜に、透き通るように溶け込む明水さまの清涼な笛の音。
 それはまるで、御仏の奏でる調べ――
 明水さまは、ふっとやわらかく微笑まれました。
「……わかりました。続けましょう。しかし、ここでは何ですから、近くに蚕ノ社がございます。そちらでお聴かせする……というのはいかがでしょう? このような通りよりはよいと思いますが?」
「もちろん。お願いします」
 明水さまのご提案に何のためらいもなく答え、女性は嬉しそうに微笑みました。
 明水さまより少し年上の、十六、十七歳といった年頃の、あどけない微笑みでございました。


 先ほどの明水さまのお言葉通り、明水さまとその女性は、蚕ノ社までやってこられておりました。
 こちらへやって来られるまでにも、誰一人として出会ったりなどはいたしませんでした。
 春ならいざ知らず、その陽気にうかれて夜烏のように舞い出てくる者は、この蒸し暑い夏の夜にはいないようでございます。
 明水さまはお一人になられたい時、決まってこちらへやってこられます。
 こちらの、池に浮かぶ三本の鳥居のそのたたずまいが、明水さまのお心を落ち着かせるそうでございます。
 それが、誰もいない夜なら、いっそう……。
 元糺の池に浮かぶ三柱鳥居のなんとも幻想的な姿。
 それを見ていると、心安らぐそうでございます。
 今宵もまた、月明かりをうけ、三柱鳥居は不思議な装いを見せております。
 池に反射した月明かりが、それをいっそうひきたてます。
 そこには、不気味とすら感じてしまうほどの美しさがございました。
 そのような元糺の池の前に立ち、女性の求めるまま、明水さまはひゅうと笛を奏ではじめられました。
 笛を奏でる明水さまのそのお姿は、まだ若いながらに趣を感じさせます。
 明水さまの横に立ち、女性はうっとりと笛に聴きほれておりました。
 現れ、そして口にしたその言葉が嘘偽りでないと語るように。
 明水さまの演奏を堪能していたそのような折、つうっと女性の頬を一筋の涙が伝いました。
 その頬を伝うものに気づかれ、明水さまはふっと演奏をやめてしまわれました。
 そして、その場にたたずみ、何かを思うようにすっと目を閉じられます。
 女性は、今度は演奏を続けるようにと促すのではなく、ただじっと月が浮かぶ池を見つめておりました。
 漆黒の水面に浮かぶ、細い黄色い月を。
「どうか……なさいましたか?」
 明水さまは、再び目を開けられ、女性を見るでもなく、月同様に池に映る女性の姿を見つめ、静かにおっしゃいました。
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくしは……わたくしは……」
 女性はそう言い、首をふるふると横に激しくふります。
 余計な心配を明水さまにかけてしまったと、自分をいさめるように。
「何か……お辛いことでもおありですか? わたくしでよろしければお話しください。胸の内にため込むより、吐き出してしまった方が楽になることもございます」
 明水さまは、相変わらず女性を見られようとはせず、池に浮かぶ月と女性を見ておられました。
 黒い池に浮かぶその二つの姿は、ぼうっと幻想的な光を発しておりました。
 また同時に、池に浮かんだ月も女性の姿も、水面に合わせ、ゆらゆらと揺れておりました。
「……聞いて、くださいますの?」
 ゆっくりと首を動かし、女性は明水さまをじっと見つめます。
 それは、まるで明水さまのそのお言葉を待ちわびていたかのように。
 明水さまは、変わらず女性を見られようとはせず、池を見つめたままこくりとうなずかれます。
 それが、もっともよいとばかりに。
 このような明水さまのお姿は、今の女性には救いのように思えました。
 興味本位からの言葉ではなく心からの言葉であると、明水さまのその態度に確信していたのです。
 そして、それがとても嬉しく感じられたのです。
 この方なら、あるいは自分のこの蝕まれた心を救ってくださるのではないかと……。
 そのような淡い期待をにじませるように、女性はうっすらと微笑んでおりました。
 一向に女性を見ようとしない明水さまをしばらく見つめ、そして、何かを決意したように一度まばたきし、すっとその場にしゃがみこみました。
 そして、ぴしゃんぴしゃんと水音を立て、もてあそぶように池の水に触れます。
 その様子を、明水さまはただじっと、黙って見ておられるだけでございました。
 しばらくそのようなことをしていたかと思うと、ふいに手をとめ、ぽつりと語りはじめます。
 女性が触れていたその水面では、小さな波紋が広がっていきます。
「……わたくしには……結婚して三年ほどになる夫があります」
 濡れたその手をぎゅっと握り締め、それに全ての感情をこめるように、自らの手を見つめております。
「しかし、近頃、他所に女性を作ったようで……。そして……」
 そこまで言うと、女性はいきなりがばっと立ち上がり、明水さまにつかみかかりました。
 明水さまの胸の辺りをぎゅっとつかみ、迫るように見つめます。
 その目にこめられたものは、救いようのない悲しみ、苦しみ。そして、絶望――
「それは、よいのです。よいとわかっているのです。しかし……頭ではわかっていても、この心が……心がついていけなくて……。わたくし、このままでは、夫も、相手の女性も、この手にかけてしまいそうで、それが怖いのです!」
 明水さまは、ただ苦しそうに女性を見つめておられました。
 しかし、どこか悟ったふうでもありました。
 何も言うことは……いえ、言ってはいけないと、わかっておられたのかもしれません。
 ただ、女性の言葉を聞くだけ。それだけが、今のこの場には必要であると。
 答えは、女性自らが出さねば意味がないと。
「このあさましい心を、どうにかしたくて、わたくし、いけないことを考えてしまったのです。そして……」
 そこまで言い終えると、女性はするりと明水さまの胸から手を放しました。
 そしてまた、池に浮かぶゆらゆらゆれる月へと視線を移します。
 苦しそうに、月を見つめます。
「とても、優しい方ですね……。そして、とても哀れな方だ……」
 明水さまは、ただ静かに、そうおっしゃいました。
 池に浮かぶ月から視線をそらすことなく。先ほどからずっと変わらず。
 明水さまのそのお言葉を聞き、女性は驚いたように明水さまを見つめました。
 そして、ふっと柔らかく微笑みます。
 相変わらず、悲しみをたたえてはおりましたが。
 しかし、何かから解放されたように。
 その言葉を、ずっと待っていたのかもしれないと……。
 いいえ。その言葉ではなく、本当は――
「いいえ。いいえ。わたくしは、優しくなど……。だけど、ありがとう。そう言っていただけて、嬉しいわ」
「それは、ようございました」
 そうおっしゃり、そこではじめて、蚕ノ社にきてから、女性をまっすぐと見つめられました。
 柔らかく、だけどどこか陰を帯びた微笑を浮かべながら。
「あなたには、見透かされているみたいね……」
 月明かりに照らされ、微笑む明水さまのお姿を見て、女性は諦めたようにふうっとため息をもらしました。
 それは、とても長い、そして重いため息。
 だけど、どこか救われたようなそのような感謝の念を込め。
「ごめんなさい。本当のことを申しますと、あの時、あなたの前に現れたのは……」
「ええ。存じております。あなたのお姿を拝見したその時から……」
 空に浮かぶ月を仰ぐように、明水さまはそうおっしゃいました。
 空には、生まれたばかりの月。
 満月には程遠いけれど、だけどしっかりと明かりを放つ月。
 それは、自らの力で輝いているのではないけれど、自らの生命力を誇示するかのように輝く月。
 その月が、妙に愛しく感じてしまう今宵。この時間。
「では……わたくしは、やはり間違っていなかったのね」
 明水さまのお言葉に何かを悟ったように、女性はそう言いました。
 すると、明水さまは月から女性に視線を戻され、うなずくようににこりと微笑まれます。
 全て、承知していたと。
「では、そろそろ、わたくしは本来あるべき場所へと帰ります」
 明水さまの微笑みに、女性はもう十分とばかりにそう言いました。
 目的は達成されたと、淋しげな微笑を浮かべておりました。
「名は……?」
 すっと背を向けた女性に、明水さまは優しく問いかけられます。
 すると女性は、そのままで、少しうつむきゆっくりと答えます。
「……蛍子……」
「そう。素敵な名ですね。ほら、今宵のように」
 明水さまのそのお言葉を聞き、女性は意味がわからないとばかりに振り返り、明水さまを見つめました。
 その時でした。
 どこからともなく数多のほたるが現れ、三柱鳥居のまわりを、戯れるように飛びかいはじめました。
 それを、目にとらえてしまったのです。
 そして、目線を三柱鳥居に移し、その様子をじっと見つめます。
 その月明かりと、三本でたたずむ鳥居と、ほたるの光景は、とても幻想的でございました。
 水面に照りかえった月とほたるの光。
 闇にぽうっと浮き上がる、虹色の数多の淡い灯火。
 それは、きらきらと輝き、明水さまの目にも女性……蛍子の目にも、白くやきつきます。
「きれい……」
 そして、ぽつりと蛍子はつぶやいておりました。
 蛍の名を持つ女性が、ほたるに心打たれ、つぶやいたのです。
 また、その頬につうっと涙が伝います。
「ありがとう。ありがとうございました。宮様……」
 そして、それは次第に勢いを増し、ぽろぽろとその目から流れ落ち、とても嬉しそうに微笑み、蛍子は消えていきました。
 すうっと、その淡い光を発する、ほたる飛びかう、うっすらの月夜に溶け込むように。


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update:03/12/07