ほたる
(ニ)

 蛍子。
 その名は、今朝、宮中で耳にした名――
 懐に忍ばせたその短刀で、とうとう別れを告げにきた夫を、その苦しみのあまり、悲しみのあまり、刺し殺そうとして、けれど結局できずに、自らの首を掻っ切った女の名。
 まだ、十六というそのような若い身空で、世を去った女の名。
 そして、目の前で息を引き取っていく女を見て、夫は女のその深い愛情にはじめて気づくことになったという。
 心通わせて一緒になったはずであるのに、いつの間にか女の愛を顧みなくなった男が目にした、女の最期の姿はそのような姿。
 かの夫は、都でも名の知れた笛の名手……。
 夫は、女の最期の姿に、深い苦しみと、拭い去ることのできない後悔に襲われたという。
 そして、終わることのない罪の意識を背負い、生き続ける。
 それが、昨夜のできごと。


 本当は、誰かに、この胸の内の苦しみを聞いて欲しかったのです。
 それが望み。願い。最後の……。
 本当の気持ちを誰に語ることもできず、逝ってしまうことになったわたしの……。
 ただ、それだけが心残り……いいえ、願望だったのです。
 存じておりました。あなたさまが、どのようなお方か……。
 知っていて、そしてすがってしまったのです。
 このような、あさましくみにくい者でございますが、あなたさまに救っていただきたくて……。
 尊き血筋に連なる、都に名高い、澄んだ気をまとう方――

 御仏のもとへいけなくてもよいのです。
 地獄の業火に身をやかれることになってもよいのです。
 ただ、愛しい人をこの手にかけ、殺めずにすんだのであれば……。
 それが、自らの手で命を絶った報いなれば……。

 その澄んだ笛の音に、惹かれてやってきたのも、また本当――


 蚕ノ社の元糺のほとりにたたずむ明水さまのもとに、どこからともなくそのような蛍子の声が降り注ぎました。
「せめてもの慰めに、笛を……」
 明水さまはぽつりとそうつぶやかれると、笛をかまえ、そして奏ではじめられます。
 それは、どこか物悲しい、追悼の調べ――
 また、その笛に合わせるように、蛍が数多、明水さまのまわりを飛びかいます。
 淡く小さな光を、力いっぱい発しながら。


 宗平親王。
 そのお方は、血筋も悪くなく恵まれたお立場におられました。
 そして、ご自分でも気づいておられました。
 宮様には、何か不思議な力があると。
 幼い頃より、宮様には見えるものが、他の誰一人としてみることができないと。
 それは、後宮の殿舎の陰からそっと顔をのぞかせる、角の生えた生き物だとか。
 それは、北山の空を自由に飛びまわる、鼻の長い鳥のような生き物だとか。
 それは、糺の森に入ると、どこからともなく聞こえてくる厳かな声だとか。
 時には、もうこの世にいるはずのない人だとか……。

 そして、宮様は決意されるのです。
 今回の蛍子の一件で、そのお力に、はっきりと気づいてしまわれたから。
 心にあふれる思いに気づいてしまわれたから。
 幼い頃より持つ稀な力。
 その力が、誰かの救いにならないだろうか。
 救いを求める人の助けにならないだろうか。
 そう思われ、そして、心にゆるぎない思いが生まれました。

 出家したい。

 宮様がそうおっしゃられると、帝も母君も何もおっしゃらず、ただ少し淋しそうに静かにうなずかれたということです。
 それは、どなたさまも承知されていたことでございましょう。
 その不思議な力。慈悲深い心。
 それら条件が見事にそろっていて、どうしてこの皇子がそのように決意しないことがありましょうか。
 それは、皇子がこの世に生まれ落ちたその時から、決まっていたことかもしれません。

 帝には、この皇子以外にもお子はたくさんいらっしゃいますけれど、皇子はたったの三人。
 宮様がお生まれになられた時には、すでに東宮も決まっておりました。
 ですから、幼い頃より、宮様は決めておられたのです。
 はじめてそのお姿を拝見した時、きらきらと光る笑顔で明水さまに話しかけてこられた二番目の兄君。そして、その横にたたずむ、小生意気な表情を浮かべる一番目の兄君。
 ご自分は、その方々を陰からそっと見守ろうと。
 この方々の幸福を守ろうと。
 そしてそれは、二人の兄君だけでなく、宮様が関わりをもつ全ての人を……。
 宮様に救いを求める、全ての悲しき定めのものを……。
 この世に生きるもの、全てに安寧を――

 蛍子との出会いが、宮様の心を強く成長させたのです。


「へえ〜。そういうことがあったのね」
 都は内裏、東宮御所の北庇で、御簾など無用とばかりに、明水さまと向かい合って、香姫さまがおっしゃいました。
 感心したように、納得したように、にこにこと微笑んでおられます。
「ええ。父上さまも母上さまも、わかっておられたようですね。わたくしが、いつかそのように進むであろうと……」
「うふふ。明水さまらしいわね」
 ぱらりと扇を開き、その陰でくすくすと優しく微笑まれる香姫さま。
 そのような香姫さまを、明水さまも優しく見ておられます。
「……しかし。わたくしは、今でも時折思うのですよ。そのような考えは、わたくしのただのおごりではないかと……」
 明水さまは、ふっと悲しげで辛そうな表情を浮かべられました。
 明水さまのそのようなお姿を見て、香姫さまは一瞬驚いたように目を見開かれましたが、すぐに得意げに微笑まれます。
「どうして? 自信を持てばいいのよ。それは、明水さまご自身が選ばれたこと。お決めになったこと。そこに、どうしておごりなどというものが生まれるのかしら?」
「桐壺……女御……」
 そうおっしゃられた香姫さまを、とてもまぶしいものでも見るかのように、明水さまは目を細めて見つめられます。
 それは、ずっとずっとひっかかっていた何かが、払拭されたような瞬間でございました。
 明水さまは、そのお言葉を、ずっと欲しておられたのかもしれません。
 そして、ようやくそのお言葉を手に入れることができたのです。
 それは、明水さまの控えめで優しすぎるお心が生んでしまった、少しの迷い……。
「わたくしは、これからも、全ての生あるものの安寧を祈って生きたいと思っております。これも、おご――」
「素敵な生き方ね」
 明水さまが最後まで言い終わらないうちに、香姫さまはにっこりと微笑みそうおっしゃいました。
 明水さまに、それ以上は言わせてあげないとばかりに。
 それは、香姫さまの精一杯の思いやりでございました。
 そのような香姫さまのお振る舞いは、明水さまのお心を晴れ晴れとしたものへと変えていきます。
 それは、変化ではなく進化。
 香姫さまのお言葉によって、蛍子の時同様、そのお心は、またいちだんと、強くゆるぎないものへと成長されるのです。
「……申し訳ありません。わたくしのことを話してしまって。本来は、ご懐妊のお祝いにうかがったところですのに……」
 その話は、ここまでと言わんばかりに、突如、明水さまは話題を変えられました。
 すると香姫さまは、「わかっていてよ」と、またにっこりと微笑まれます。
「かまわないわ。だってそれは、もとはわたしがお願いしてお話ししてもらったのですもの。嬉しいわ。また一つ、明水さまのことが知れて」
「女御……」
 少し困ったように、明水さまは微笑まれました。
 そして、袖の内で握る伽羅の数珠が、しゃらりと小さく音を響かせます。
 その時でございました。
 明水さまと香姫さまのお耳に、聞きなれた優しい声が降り注いでまいりました。
 そのお声は、明水さまのお心も香姫さまのお心も、あたたかくさせるお声。
「おや? 明水。来ていたのか?」
 そうおっしゃり、お二人の前に陽楊さまがお姿を現されました。
 陽楊さま。
 その方が、明水さまの二番目の兄君で、東宮でございます。
 明水さまは、陽楊さまのお姿を確認されると、ぽつりとつぶやいておられました。
「兄上さま……」
「陽楊さま。もう主上とのお話は終わったの?」
 香姫さまは、首をかしげ、嬉しそうに陽楊さまを見上げられます。
 陽楊さまは香姫さまの問いかけに小さくうなずかれると、当たり前のように香姫さまの隣にすっと腰をおろされました。
「兄上さま。申し訳ございません。やはり、ご不在の時にこのようにやってくるのは、いささか配慮にかけていましたでしょうか?」
 今、陽楊さまのお姿を拝見して、ようやく気づいたとばかりに、少し遠慮がちに明水さまがおっしゃいました。
 陽楊さまは、「おや?」とわざとらしく驚いてみせられます。
「いや。かまわないよ。むしろ感謝をしているくらいだ。暇をもてあました香子が暴れまわらないからね。少なくとも、明水がいる間は」
 くすくすくすと、香姫さまをからかうように陽楊さまがおっしゃいました。
 すると香姫さまは、ぷうっと頬をふくらませ、うらめしげに陽楊さまをにらみつけられます。
 まったく……いつになっても、香姫さまのおてんばぶりは変わらないということでしょうか。
「これからも、時折、こうしてやって来るといい。明水なら、皆歓迎するよ」
「そうそう。どこかのくされ宮は、おとといきやがれだけれどね?」
 陽楊さまに続け、そのように品のないことを香姫さまがおっしゃいました。
 香姫さまにやれやれと肩をすくめる陽楊さまの横で、愉快そうにころころと笑われます。
 そのような仲睦まじいお二人のお姿を、明水さまは、少しうらやましそうに見ておられたようでございます。
「明水。後で、父君と弘徽殿さまのところにも顔を出していくのだよ。お二人とも、すねておられたからね。全然お前が顔を出してくれないと」
「え……? 父上さまと母上さまが……?」
 少し驚いたように、明水さまは陽楊さまを見られます。
 すると陽楊さまは、ここにもやれやれ≠ェいたのかと、少し困ったように微笑まれます。
「ただでさえ香子を独り占めしているのに、明水までも東宮が独り占めするなどずるいと言われてしまったのだよ。……まったく。香子に関しては、独り占めして当たり前だろうに」
 そうおっしゃると同時に、これまた当たり前のように、香姫さまの肩をすっと抱き寄せられました。
 そのような陽楊さまと、恥ずかしそうに一応は抗ってみせられる香姫さまを見て、明水さまは嬉しそうに微笑まれます。
 ああ。わたしは、なんと幸福なのでしょう……。
 そのように、今の明水さまのお顔はいっておられるようでございました。
 そして、ぽつりとつぶやかれます。
「……後ほど、うかがいます」
 それは、香姫さまが陽楊さまのもとに入内されて数ヶ月後のこと。
 翌年の桜の頃に産み月を迎えることになる、夏のある暑い日のこと。
 ぎらぎらの陽が容赦なく降り注ぐ、真夏の昼下がり。


 ほたる。
 その光は、まるで命の灯火。明水さまの決意の証。

 この時期になると、決まって、ふと思い出してしまうのです。


ほたる おわり

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update:03/12/10