恋すてふ
(一)

 こちら、内裏から少し南東へ下ったところにある、さる大貴族のお邸。
 どのくらいの大貴族かと申しますと、左の大臣といった程度でございます。
 そちらには、ついこの間まで、それはそれは都にその名をとどろかせる、とんでもない姫君がいらっしゃいました。
 しかし、現在では、その姫君はそちらにはいらっしゃらず、何をどうしたことか、後宮は桐壺におさまっておられます。
 ……いえ。おさまっている……というには、少し語弊があるかもしれません。
 何しろその姫君、後宮はじまって以来のおてんばぶりを発揮しておられるのですから。
 しかし、それが幸いしているのか、後宮での人気はすこぶる高いということなので、はてさて、世の中というものは、まこと不思議なものでございます。

 さて、話は左大臣邸に戻りまして、こちらには、そのような姫君を愛してやまない殿方がお一人いらっしゃいます。
 その方は、姫君の実の兄上さま、月影の中将でございます。
 月影の中将。
 その呼び名は、かつて宿直のおりに、帝御自ら賜った名だとか……。
 幼い頃、「大きくなったら、香子は兄様のお嫁さんになるの」と姫君に言われ、絶対に他の男にやるものかと思われたと、ある酒宴の席で、妹君の夫となられるお方に面と向かっておっしゃられたという程度の愛し方でございます。
 そう、その夫と申しますのが、これまたとても尊いお方。東宮、その方であるにもかかわらず……。
 そして、そのような愛しい妹君の横に、いつも元気な少女がいたことも、月影の中将には当たり前のことでございました。


「おや? 棗じゃないか? どうしたのだい? 帰ってきたのかい?」
 寝殿に続く渡殿で、ふと目にしたその少女に、月影の中将は話しかけておられました。
 辺りに人はおらず、たったお二人きり。
 皆、夏の午後のこのうだるような暑さに滅入り、邸奥へ引っ込んでしまっているようでございます。
 まこと、今年の都の夏は、例年になく厳しい暑さでございます。
 そのような中、まいる様子もなく、この少女は元気よく渡殿を渡っておりました。
 それがまた、月影の中将には、いかにもその少女らしく見え、微笑ましく思われます。
 そう、幼い頃、妹姫とともに、邸の庭を駆けまわっていた少女らしく……。
「中将さま……。――はい。お暇をいただきまして、下がってまいりました。……と申しましても、ほんの三日ほどなのですが。それ以上おそばをはなれますと、その……」
 棗は、言いにくそうに、ちらっと月影の中将のお顔を見上げます。
 すると月影の中将は、ひきつったように微笑まれました。
「ああ……。まったく、あのおてんば姫は、いつになっても……」
「ですが、そのような姫さまが、わたくしは好きなので、もうこれは仕方がありませんね」
 月影の中将のお言葉に、即座に棗はそう答えておりました。
 少し困ったように、自嘲気味に。しかし、決して嫌そうではなく、むしろ嬉しそうに。
 そのような棗に、月影の中将のとても柔らかく優しい微笑みが降り注ぎます。
「やはり……お前を香子付きにして正解だったようだね?」
「え……?」
 棗はかなり驚いたように、まじまじと月影の中将を見つめます。
 何しろ、そのようなことを言われたことも思ったことも、これまでなかったのでございますから。
 どちらかというと、そのような若い身ですぎたるものと、古参の女房から皮肉まじりに言われることはしばしばありましたけれど。
 そしてまた、お付女房がそのようなものだから、姫さまはああなってしまわれたのですと、あらぬ中傷まで受けておりました。
 棗がお付女房をしておられるその方は、都一の権力者、左大臣の姫君。
 お血筋もよく、母君は先々帝の内親王さまというのですから、それはそれは素晴らしい都一の妃がねでございます。
 そのような姫君に付くのですから、当然女房にも高い教養が求められるというもの。
 しかし、この棗は、どうしたことか、遊び盛りの姫君と一緒になって遊んでしまうような女房なのでございます。
 ……いえ。ずるずると姫君に引きずりこまれる……と申しました方が正解でございましょうか。
 そして、その恵まれた姫君という方が、これまた困った方で、いつかはお邸を抜け出してしまわれたほどでございます。
 さらに、そのような姫君にもかかわらず、どうしたことか、この度、東宮のもとへ入内されてしまったのですから、棗への風当たりはさらに厳しくなってしまったとか。
 ……と申しましても、もちろん古参女房からでございますが。
 同じ若い女房仲間からは、逆に「よくあのような姫さまにつき合えるわね。わたしでなくてよかったわ」と、感謝されているくらいでございます。
「おや? 違ったかい?」
 少し肩をすくめるように、月影の中将はくすりと笑われます。
 しかしその目は、しっかりと、棗を試すように見ておりました。多少、意地悪っぽく。
 すると棗は、そのような月影の中将の意地悪に、困ったように肩をすくめます。
 そして、ゆっくりと目を閉じ、ふるふると首を横に振りました。
「いいえ。違っておりません」
「そう。それはよかった」
 お二人はそうおっしゃると、ともに左大臣邸の夏のお庭と呼ばれるそのお庭を眺められます。
 お二人が眺めるそこでは、朝顔、昼顔、夕顔、撫子、月見草、露草などといった夏の花々が咲き乱れ、池には睡蓮が浮かんでおりました。
 こちらは、木々を基調としたつくりではなく、花を基調としたお庭のようです。
「ところで棗。こちらにいる間、時間をとることはできるかな?」
 お庭を眺めたまま、ふいに月影の中将がおっしゃいました。
 するともちろん、棗は不思議そうに首をかしげ、月影の中将を見つめます。
「そのような顔をしない。……実はね、香子に少し頼まれたことがあって……」
「姫さまに?」
 少し困ったように棗を見る月影の中将に、棗はどこか訝しげに、いえ、嫌な予感がするとばかりに、神妙な面持ちでたずね返します。
 ええ。それは当然、そのお名前を聞いてしまったがために。
 そのお方のお願い事で、騒動や問題が生じなかったことは、棗が知る限り一度もございません。
 問題製造人間。それが、香姫さまなのでございます。
「やはり……棗もそう思うかい?」
「もちろんです。姫さまのお願い事に、ろくなためしはございません」
 棗は拳をつくり、力強く言い切りました。
 その棗の様子に、月影の中将は、やはり困ったように肩をすくめられます。
 まったく……どのようにしたら、あのように手のほどこしようのない破天荒な姫君に育つのやら……と。
 その一因をおつくりになられたのがご自身だと知ってか知らずか、月影の中将はそう思われました。
 月影の中将のお言葉をお借りしますと、「わたしと一緒に遊びたいと言って、蹴鞠もしたし、木にものぼった。兄様と一緒に勉強すると言って、女の身には過ぎたものであるのに、漢詩の勉強もした。そうそう……あまりにもはしゃぎすぎて、池に落ちたこともあったな〜……」ということでございます。
 それをとめようとはなさらず、むしろ嬉しそうに香姫さまのお相手をされていたのでございますから、月影の中将に香姫さまの男前っぷりをとやかくおっしゃる資格はないのでございます。
 棗もそれを承知しておりましたが、そこはあえて言わないのが、優しさというものでございましょう。
「まあ……今回ばかりは、その嫌な予感もはずれていると思うよ。何しろ、頼まれ事が頼まれ事なだけに……」
 ふうと遠い目をして、月影の中将はつぶやきました。
 それで、棗はさらに訳がわからなくなってしまいました。
 今しがた、香姫さまに頼まれ事をして、とてつもなくいや〜な予感がするとおっしゃられたばかりですのに、それをあっさりと覆してしまわれたのですから、棗が訳がわからなくなっても、それは仕方のないことかもしれません。
「中将さま?」
 棗は、あらためて真意を確認するように、月影の中将を見つめます。
 すると月影の中将は、少し淋しげな眼差しを棗に向けられました。
「笹舟の君……だったかな? その方の墓前に、笹舟を供えるように頼まれたのだよ。もう半年以上も参っていないとかで……。そこへの案内を頼みたいのだよ」
 月影の中将が口にしたその名に、棗は目を見開き、信じられないと見つめました。
 とても苦しそうに、切なそうに……。
「……棗……?」
 そのような棗の普段とは違う様子に、月影の中将の顔に急に陰がおりました。
 様子をうかがうように、じっと棗を見つめられます。
「……申し訳ございません。わたくしには……それはとても……」
 棗は月影の中将からふいっと顔をそむけると、かすれたような声でつぶやきました。
 そして、胸の前で、ぎゅっと手を握り締めます。
 それは、まるで、何か辛いものを、必死にこらえているようでございました。
 その名は……まだ聞きたくはなかったと。
 まだ、もう少し、忘れることができるまで……。
 香姫さまにとってお辛い思い出と同時に、ずっとおそばについてきた棗にとっても、その名は辛く苦しいものだったのでございます。
 かつて、東宮御所の烟月(えんげつ)の夜のこと。
 香姫さまが、その胸に秘める笹舟の君への思いを打ち明けられた時。
 棗の胸は、張り裂けそうな痛みを感じておりました。
 それは、香姫さまが感じるものと、さほどかわらず……。
 今もって、棗の胸を痛めさせるのです。

 かの君は、はかなくなってもなお、香姫さまに会いたくてやってきました。
 そして、香姫さまの危険を察知し、現世(うつしよ)にとどまった御霊(みたま)……。
 その不思議なできごとは、全て、幼い頃からの愛しい姫君、香姫さまのためのもの――
 そしてそれが、今もって、香姫さまのお心にとどまり、とらえているのです。
 その事実が、香姫さまの幸福を願う棗を苦しめるのです。


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update:03/12/11