恋すてふ
(ニ)

「棗? どうかしたのかい?」
 棗のそのような辛そうな様子に気づかれた月影の中将は、おろおろとしはじめてしまわれました。
 普段の棗は、どれほど香姫さまにめちゃめちゃに遊ばれようが、おもちゃにされようが、めげることなく対抗していく、さらには、その体をはって香姫さまの乱行をとめる、それはそれは元気な女房でありますのに。
 このように、しおらしく、そして頼りなげな姿を、月影の中将はこれまで見られたことがございませんでした。
 月影の中将の記憶にある棗の姿は、いつも笑顔を絶やさず、明るくそこに立つ、遠い異国の地に咲く太陽の花、日輪草(にちりんそう)のような姿。
 その命を張って、香姫さまのお命を守ろうとした棗の気高い姿。
「……中将さまは……ご存知でないのですね? 笹舟の君が……姫さまにとって、どのような方なのか……」
 静かにそう言った棗に、月影の中将はうろたえることをやめ、優しく語りかけられます。
「……少しは、知っているつもりだよ? 梨壺に現れた、あの若者だろう?」
 月影の中将のその言葉に、棗はとうとうぽろぽろと涙を流しはじめてしまいました。
「な、棗!?」
 月影の中将は、流れはじめた棗のその涙に、ぎょっと目を見開き、どうしたものかとあたふたとされております。
 女性の涙にどう対応すればよいのか、ご存知なかったのでございます。
 何しろ、月影の中将その方は、都に名をはせる婿がねでございますが、こと女性に関しては、皆無に等しかったのでございます。
 十八というその年齢であるにもかかわらず、文をかわす女性もおられないとか。
 ついこの間まで、それはそれははちゃめちゃな妹姫につきっきりでしたので、それは無理からぬことではございますが……。
 やれ邸を抜け出した、やれ池に落ちた、やれ北山で行方知れずになったと聞いては、東奔西走しておられたのでございます。
 ですから、女性と情をかわすなど、そのようなお暇はなかったのでございましょう。
 また、月影の中将にとっては、それが何よりの楽しみであり、幸せでございました。
 ……しかし、風流を解するといわれるだけあり、そちらの方はぬかりがなかったようでございますけれど。どのようにお忙しくとも。
「申し訳ございません。ですが……ですが棗は……。姫さまの手前、ずっと我慢していたはずですのに……」
 涙をぬぐい、懸命に泣きやもうとする棗のその健気な姿に、月影の中将は胸を打たれてしまわれました。
 その小さな肩をゆらし泣く、幼い頃より、妹姫とともに見てきた元気な少女。
 彼女はたしか……今は身寄りがないはず……。
 そう、妹姫の乳母(めのと)だった母君を数年前に亡くし、妹姫たっての希望で、その頃よりお付女房として仕えてきた、まだあどけなさの残る少女。
 けれど、その年にふさわしくなく、どこかしっかりとした少女。
 母君が亡くなられたその時には、すでに父君もこの世の人ではなく……。
 もしかすると棗は、笹舟の君のことだけでなく、そのこともあり……。
 棗にとって、はかなくなるとは、そのようなこと。
 とても苦しいこと。忘れられぬこと。
「そういえば……」
 月影の中将はぽつりとそうつぶやくと、そこで言葉をとめてしまわれました。
 ふっと、言ってはだめだと思われたのかもしれません。
 その後に続けるおつもりでした言葉。それは――

 そういえば……母君が亡くなった時も、棗は泣いていなかった。

 乳母を亡くし泣きじゃくる妹姫を慰め、必死に涙をこらえていた。
 それは、見ていてとても辛かった。
 どうしてこの娘は、そのように強いのだろうと。自分に厳しいのだろうと。
 けれど、それは違ったのかもしれない。
 棗はただ、幼い頃より一緒に育ってきた、自分よりもひと月だけ遅く生まれたその姫君に対し、姉のような感情を抱き、接してきたから、だから泣けなかった。泣くことができなかった。
 自分の代わりに大泣きするその小さな姫君を慰めたくて……。
 その小さな姫君の憂いを少しでもなくしてあげたくて……。
 和らげてあげたくて――
 嗚呼。そう思うと、この少女は、なんとあわれな娘なのだろうか……。

 そう思われた瞬間、月影の中将の両腕が、優しく棗を包みこんでおりました。
「ちゅ、中将さま!?」
 突然の月影の中将のそのお振り舞いに、棗はぎょっとし、まじまじと見つめます。
 しかし、やはり、その目から流れ落ちるものはとまることはなく……。
 月影の中将は困ったように微笑むと、棗の頬を伝う涙をすいっとぬぐわれます。
 そして、優しく微笑みかけられます。
「棗。大丈夫。誰もいないから、お泣き。気がすむまでこうしていてあげるから……。――泣きたかったのだろう? ずっと……」
 月影の中将のそのお言葉に、棗はさらにその瞳をうるうるとさせます。
 もう涙でぼやけてしまっているその視界に、月影の中将を、ぼうっと、だけどしっかりととらえて。
「中将さま……!」
 月影の中将の言葉と、その優しい眼差しに触発されたかのように、棗は月影の中将の胸に顔をうずめ、火がついたように泣きはじめてしまいました。
 そのような棗を、月影の中将は、やはり優しく抱き続けられます。
 自らの胸で泣くその少女からは、かぎなれた甘い香りが香ってきました。
 そう、それは、幼い頃からずっと一緒にいた少女の香り。
 妹姫とともに、大切に見守ってきた少女の香り。
 鼻をくすぐる、かぐわしい香り。
 棗を、はじめて、妹のような存在ではなく、女性として意識された瞬間でございました。

 棗は、ようやく、ずっと胸にしまい込んでいた苦しみから解放されます。

 そうやって、いつしかお二人のお心には、ともる灯があったということです。
 芽吹きはじめた、思いという名の小さな蕾が……。
 殿方は、憂いを帯びた頼りなげな少女の姿に、少女は、気づかなかったその頼りがいのある殿方の胸のぬくもりに、不思議な感情を抱きはじめました。
 それは、心地よさに似た、不思議な感情――


 さて、そのような優しくあまやかな時も、そう続くはずがございません。
 この方々に限って。
 互いにまだ気づかぬ思いを持ちはじめた時、そのようなお二人にあまく切ない空気を一掃するかのような雄たけびが聞こえてまいりました。
「棗〜! 棗はどこにいるのです!? いいえ、中将さま!! 月影の中将さまはどちらにおわします!?」
 その叫びに、月影の中将も棗も、ぎょっとし、慌てて体をばっとはなされました。
 そして、お二人、少し困ったように見つめ合い、くすっと笑い合われます。
 その時でございました。息を切らせた左大臣家の女房が、お二人のお姿を見つけ、ずだだ〜と駆け寄ってまいりました。
 棗は思わずふいっと顔をそむけ、それを隠すように月影の中将が女房の前にたたれます。
 そのようなお二人にはかまわず、女房はさらに叫びます。
 都一の権力者、左大臣家の女房とは思えぬ、教養を欠いたものでございました。
「お二人とも、こちらにいらしたのですね! 大変です。大変なのです。姫さまが……女御さまが……!!」
「何!? 香子がまた、何かしでかしたのか!?」
 月影の中将はそう叫ばれると同時に、くらりとめまいを覚えられました。
 まったく……あの妹は……と、脱力感にも見舞われたとか……。
 それにしても、この言われよう。
 さすがは、都に名をとどろかせる、とんでもないはちゃめちゃな姫君でございます。
「は、はい。それが……ご懐妊されました!!」
「はあ!?」
 女房のとてつもなく予想外の言葉に、そのようなすっとんきょうな叫びの二重奏が披露されました。
 それは当然、月影の中将と棗のもの。
 まだ、熊と格闘して勝利をおさめられたと言われた方が、真実味があるというものでございます。
 ……いえ。しかし、これもまた、とてつもなく真実味があったりなどしますのでしょうか?
 どこかの東宮と、どこかの東宮女御の、らぶらぶいちゃつきっぷりを思えば……。
 棗は、月影の中将の背に隠れるようにして、だけどしっかりとこちらの様子をうかがっております。
「ですから、桐壺女御さまがついにご懐妊されたのです。それで、今、宮中では大騒ぎとかで……。そして、つい今しがた、こちら左大臣邸にも知らせがまいりまして……!」
「ああ。ああ、そうか。わかった。今すぐ参内する」
「は、はい。では、ご用意を」
 女房は慌てて月影の中将のお言葉に答え、くるりと踵を返しました。
 そして、「頼む」という月影の中将のお言葉を聞かぬまま、そのまま来た時と同じように慌しく去っていきました。
 そのような女房の姿を、月影の中将も棗も、ぽか〜んと見ておられました。
 そして、くすっと困ったように微笑み合われます。
「棗……。どうやら、お前の休暇も、一日目にして、早々になくなってしまったようだね?」
「はい」
 気の毒そうにおっしゃる月影の中将に、棗は嬉しそうに返事をいたしました。
 そう、休暇返上になったにもかかわらず……。
 それが、棗というお付女房なのでございます。

 桐壺女御、ご懐妊。
 それはそれは、都をひっくり返す、おめでたい知らせでございます。


 このようにして、お二人の目覚めはじめた淡い恋心は、香姫さまという規格外の困った姫君に、あっさりと邪魔されてしまったのでございます。
 ですが、それもまた、お二人には、とても嬉しいことのようでございました。

 その恋心は、まだ公にはできぬ思いでございます。
 その前に立ちはだかる、身分の差というものがございますから……。
 ……いいえ。それよりも、まだ、ご当人方がその思いに気づいておられぬ……ということが、いちばんの要因かもしれません。
 それはいつかどこかで聞いた恋の歌のよう。

 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思いそめしか


 恋をしているというわたしのうわさは、早くも立ってしまったよ。人に知られないように、ひそかに思いはじめていたのに。

 そのような恋にならぬように願って――
 二人、そっと、その成長をはじめた小さな愛をあたためていくのです。


恋すてふ おわり

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update:03/12/12