しあわせひとつ
(一)

 ちらちらちらちら雪が舞うその日。
 ここ左大臣邸では、小さな波紋が起こっておりました。
 それは何故かと申しますと……なんと、あの、あの香姫さまがお風邪を召されてしまったからのようでございます。
 先日、香姫さまはお邸を抜け出し、お一人で町中へでかけられました。
 どうやらそれが災いしたようで、あっさりとお風邪を召されてしまったのです。
 あの香姫さまが。
 鬼――葵瑛さま?――をも恐れぬ、ものともせぬ、あの香姫さまがでございます。
 これは、何かよからぬ災いの予兆では……。
 天変地異の前触れでは……。
 ……と、ここ左大臣邸では、まことしやかにささやかれております。
 当の香姫さまのお耳に入らぬよう、そっと――
 そして、「香姫さまがお風邪を召された」というその事実は、すぐに、陽楊さま、葵瑛さまの知るところとなりました。
 それはもう見事に素早く、陽楊さまのお耳に入っておりました。
 例えるなら……電光石火の如く、でございましょうか?
 しかし、香姫さまが何故お邸を抜け出されたかは、陽楊さま以外はご存知ではありません。
 いいえ。知ることができませんでした。
 真一文字にかたくお口を結び、決してお話ししてくださろうとはされませんでしたので……。
 陽楊さまのお耳元でそっとささやかれたそれは、「とても雪が綺麗だったから、思わず一人で愛でにでかけてしまったの。みんな忙しそうで、邪魔しちゃ悪いと思って……。ごめんなさい」というものでございました。
 しかし、陽楊さまはそのお言葉をまるまる信じておられるご様子ではありません。
 見透かしたように、悟ったように優しく微笑んで、じっと香姫さまのお言葉を聞いておられました。
 どこか、切なそうに――
 それよりも何よりも、あの香姫さまが素直に謝られる……というものほど、気持ち悪いものはなかったようでございますが。
 また、それは、陽楊さまがお察しになられたように、本当は本当ではなかったかもしれません。
 そわそわと、何かを誤魔化すような素振りをされる香姫さまが、そこにいらっしゃいましたから。
 そして、本当のことは、香姫さまのお心にだけとどめておけばよいことでございました。
 そう、笹の舟を握りしめての、決別の旅でございましたから……。
 抱く思いへの決別の旅。雪見と称した――


 お風邪を召され、僧都の祈祷の声が響くこちら、左大臣邸東の対に、この時期には不釣り合いな、いいえ、いらしてはおかしい方のお姿がございました。
 それは当然、陽楊さま。
 桜の頃に控えた香姫さまの入内のご準備で大変だというのに、そのようなものはほっぽり出して、さっさとやってこられていたのでございます。
 今頃は恐らく……内裏では、左大臣が目くじらを立てて、東宮を探しておられることでございましょう。
 もちろん、ご子息の月影の中将もまきこまれ。
 それを、扇などをぱらりと開き、その内でくすくすと笑い、愉快そうに眺めておられる葵瑛さまのお姿なども、目に浮かぶようでございます。
 嗚呼。哀れ。左大臣親子。
「ほら。薬湯を飲んで」
 陽楊さまはそうおっしゃりながら、褥に横たわられる香姫さまのお体をくいっと抱き寄せ、起こされます。
 そして、横においていたお薬湯の入った器を持ち上げ、香姫さまへと差し出されました。
 しかし、香姫さまはむうと恨めしそうに陽楊さまを見つめられ、それを受け取ろうとはされません。
 ぷいっとそむけ、むむむと難しいお顔をされております。
「にがいから、やっ!」
 そのように、まるでだだをこねるこどものように。
 すると陽楊さまは、一瞬、ぽかんとお口を情けなくあけてしまわれました。
 しかしすぐに、くすっと嬉しそうに微笑まれます。
 そして、当然のように、香姫さまを抱く腕に、きゅっとさらに力を加えられます。
 多少強引に、香姫さまのお顔を再び陽楊さまへと向けられました。
「だめだよ。わがままは。これを飲まないとよくならないよ?」
 くすくすくすと笑う陽楊さまを、香姫さまはやはり恨めしそうににらまれます。
 ぷうと頬をふくらませたりなどされて。
 そのような普段お見せにならない香姫さまのこどもっぽいところをご覧になり、陽楊さまは笑いがこみ上げてきて仕方がないようでございます。
 それはもう本当、幸せそうにお顔をとろんと崩されて。
 安心しきったように陽楊さまにお体をお任せになる香姫さまに、身悶えるような幸福感を感じておられました。陽楊さまが。
「そのようなものを飲んでは、ますます病気になるわ」
 むすうとお口をとがらせて、香姫さまはいやいやと首を振られます。
 その行為が本当にかわいらしく思えたのか、陽楊さまはもう呆れるくらい幸せそうに微笑んでおられます。
 そして、次の瞬間には、にっこりと、どこか不気味な笑みを浮かべておられました。
 ぐいっと香姫さまのお顔をご自分の方へと向けて。
 触れた頬から、いつもよりも少し熱い香姫さまの体温を感じられながら。
 触れたそこから、やはり幸せをかみしめられるように。
 こつんと、香姫さまのおでこに、陽楊さまのおでこがくっつきます。
 「ほら。熱があるのだから」と言うように。
「あまりわがままばかり言っていると、口移しで飲ませるよ」
「なあっ……!!」
 陽楊さまらしからぬそのような大胆な発言に、香姫さまはぼんとお顔を真っ赤にされてしまいました。
 当然、それは冗談だとわかっておられますが、ですが……。
 悔しい!!と、陽楊さまの胸へとお顔を埋められます。
 ぐりぐりと……。
 その行為がまた陽楊さまにとっては、かわいくってかわいくって仕方がないのでございましょう。
 もういい加減にしてくれというくらい、お顔が……。
 それにしても、本日の陽楊さまは、まこと大胆でございます。
 普段なら……決してなさらないそのような発言。――ぎゅっと抱きしめられるなどは、普段通りでございますが――
 それはやはり、香姫さまが患っておられる今、優位に立てるとでも思われたのでございましょうか?
 香姫さまがご病気の今しか勝てない……という辺り、何とも情けないですが。
 しかしまあ、陽楊さまがお幸せなら、それはそれでよいのかもしれません。
 お風邪を召され、いつもより余計に甘えてくる香姫さまを、独り占めできるのですから、これ以上の幸せはないのでございましょう。
 しかし、そのような、陽楊さまにとっては、今後再び訪れるかどうかわからない幸福な時を邪魔する方がお一人、今さらすぎて、どなたとは申しませんが……いらっしゃるのでございます。
 そう。どこからか、神出鬼没にふってわかれるあのお方。兵部卿宮こと、葵瑛さま。
「おやおや。これはまた、珍しいものが見られますね〜」
 陽楊さまにぎゅっと抱きしめられ、そこで嬉しそうにおとなしくされている香姫さまのお顔を、実に愉快そうに葵瑛さまがのぞきこまれました。
 ひょいっと。
 今の今までここにいらっしゃらなかったのに、いきなり現れ、ひょいっと。
 それはもう本当に、不愉快なくらい愉快に。
 そして、葵瑛さまにのぞきこまれた香姫さまの頬が、ほんのり染まっておられるのは、恐らく、お風邪のためだけではございませんでしょう。
 それでは何故……?とは、申し上げなくともわかりきったことでございます。
「うわ〜!!」
 葵瑛さまがわかれた瞬間、当然、そのような愉快な二重奏がご披露されます。
 香姫さまと陽楊さまの。
 陽楊さまは、突然現れた葵瑛さまのお顔に、思わずのけぞっておられました。
 しかし、その手から香姫さまをはなすことは決してございません。
 相変わらず、ぎゅっと抱きしめられたままでございます。
 まったく……この辺りだけは、抜け目がないのでございますから。陽楊さまは。
 他のところでは、さっぱりですのに。
 切れ者とうたわれる東宮のはずですのに……。
 そして、当たり前のように、そのような葵瑛さまに香姫さまのにらみが入り、陽楊さまの扇攻撃が炸裂いたします。
 ぺしっと景気のよい音を立てて。
 不景気な香姫さまの頭の上で。
 見事、葵瑛さまのおでこに直撃。
「うるさいわよ。葵瑛さま。冷やかしにきたのなら、さっさと帰ってちょうだい。迷惑よ」
 陽楊さまの腕の中、あからさまに嫌がる香姫さまが、葵瑛さまをじとりとにらみつけておられます。
 「帰れ。とにかく帰れ。今すぐ帰れ」といったように。
 葵瑛さまはそのような視線をいただいたというのに、先ほど陽楊さまにぺしっとされた額に触れられながら、無表情に香姫さまと陽楊さまをご覧になられています。
「……」
 そのもの言わぬ葵瑛さまのお姿といったら……なんと恐ろしいことでございましょう。
 思わず、息をのんでしまいそうです。


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update:04/02/11