しあわせひとつ
(三)

 しかし、そうは申しましても、そのような幸福な時は、そう長くは続かないのが世の常というものでございます。
 もうそろそろ、夜のとばりが下りる頃となってしまいました。
「陽楊。そろそろおいとましましょう」
 相変わらず、らぶらぶいちゃいちゃと愛を乱れ飛ばされる香姫さまと陽楊さまに、そのような容赦のないお言葉がかけられます。
 それまで、ぱらりと開けたその扇の内で、見て見ぬふりをされていた葵瑛さまの。
「あ、ああ……」
 どうやら、どのようにいちゃつかれていても、まがってもくさっても東宮。
 ちゃんとまわりのお声を気にかける理性だけは、ぷっつんと切れてはおられなかったようでございます。
 あまり気がすすまないと、上の空といったご様子で、陽楊さまは答えられました。
 そして、名残惜しそうに、香姫さまをその手から解き放たれます。
 後ろ髪を引かれる思いで、重い腰を上げられます。
 その時、陽楊さまは、直衣のすそにつんと何かがひっかかるような感じを覚えられました。
 「ん?」と思いつつも、その正体にすぐに気づかれます。
 切なそうに、ご自分の直衣のすそへと視線を移され、そこを見つめられます。
「香……子……」
 そうつぶやかれると同時に、陽楊さまの胸は、どきんと高鳴っておりました。
 そして、胸がきゅんとしめつけられます。
 胸きゅんでございます。胸きゅん。
 直衣のそこには、うるんだ瞳で、すがるように陽楊さまを見つめられる香姫さまがおられました。
 ですから、胸が張り裂けんばかりに高鳴るな……という方が無理なはなしでございましょう。陽楊さまにとっては。
「陽楊さま……。やだ。帰らないで」
 さらにはそのようなことまで言われては、陽楊さまの心の臓は爆発寸前でございます。
 どきんやどくんといったそのようなかわいらしいものではなく、ずどきゅ〜んでございます。
 ばくばくと弾む胸を必死におさえ、すがる香姫さまをみつめられます。
「ずっと一緒にいて?」
 追い討ちをかけるように、またしてもそのような香姫さまのおねがいが……。
 しかし、それでも陽楊さまは帰らねばなりません。
 もう時間がきてしまったのです。
 香姫さまの入内を控えた今、そう長く御所をあけておくわけにもいきません。
 悔しいけれど、悲しいけれど、それが東宮の定めというもの――
 今にも泣き出しそうなお顔で、香姫さまはじっと陽楊さまを見つめられます。
 それはまるで、捨て犬のような目だったかもしれません。
 しかし、やはり、この方にはそのようなものはたわいないこと。
 いいえ。腹立たしいことこの上ありません。
「やだあ。帰らないで、ですか。はいはい。どうぞお好きなだけいちゃついていてください。あと少しだけお時間をさしあげますから。ちゃんとお別れしてくださいね。ですが、東宮。くれぐれも、お風邪をうつされないようにしてくださいよ。このくそ忙しい時に……」
 そのように、込められるだけの嫌味を込め、葵瑛さまは、陽楊さまに嫌味たらしくおっしゃられます。
 ぱたぱたと扇をあおがせながら。
 扇をあおげばあおぐほど、そのお心の内も、すうっと寒くなるような心地がされておりました。
 葵瑛さまのものとは思えぬ、そのような汚いお言葉遣いが、何よりも、葵瑛さまの今のお心を物語っているようでございます。
 本当ならば、今にもこの場をめちゃめちゃにかき乱されたいところでございましょう。
 しかし、そこはぐっとこらえられるのです。
 不幸なことに、香姫さまがお風邪を召されておりますから。
 これが、お風邪を召されたのが陽楊さまなら、当然、関係ないとばかりに、たわいないとばかりに、めちゃくちゃにぶっつぶされることでございましょう。
 この後控えている、ある夜のように――
「葵瑛……。お前……」
 当然、陽楊さまにも、葵瑛さまのその嫌味はこれでもかというほど通じておられます。
 ですから、ふつふつと怒りがこみ上げてこられます。
 しかし、そこはこらえられます。ええ、ぐっと。
 そうしないと、この香姫さまとの幸せなひと時が、ぶっつぶれてしまいますから。
 いいえ。そのような無駄な我慢をしなくとも、ぶっつぶれる時はぶっつぶれるのでございますけれど。
 この方々であるが故に……。

 こほんと、咳払いが几帳の陰から聞こえてまいりました。
 瞬間、陽楊さまのお顔がにくらしげにゆがみます。
 それは、陽楊さまにぎゅっと抱きしめられた香姫さまは知ることはできませんでしたけれど、葵瑛さまにはわかりすぎるほどわかっておられます。
「ああ。いいですよ。わたしがいきます。あなたは思う存分そうしていてください」
 やはり、どこか棘のある言い方をされます。
 そして、几帳の方へとすすすと歩いていかれました。
 妙に優雅に。癪に障るくらい、艶かしく。
 必要もないのに。
 几帳の陰で、葵瑛さまは先ほど咳払いをした女房と、こそこそと何やら二言三言言葉をかわされました。
 それからすぐに、また香姫さまをぎゅっと抱かれている陽楊さまのもとへ戻ってこられます。
 戻ってこられた葵瑛さまは、にやりとどこか不気味に微笑んでおられました。
 ですから当然、陽楊さまの頭の中を、さあっと嫌な予感がよぎります。
「な、何かあったのか!?」
 嫌〜な予感そのままのお顔で、陽楊さまは葵瑛さまにそう尋ねられました。
 すると葵瑛さまは、今度はにっこりと、最高に愉快な微笑みを浮かべられます。
 あまつさえ、くすくすと笑いをまじえて。
「ふふっ。東宮。朗報です」
 葵瑛さまのその何の脈絡もない訳のわからないお言葉に、陽楊さまは当然、はあ!?とお顔をゆがめられます。
 そして、怪訝に葵瑛さまを見つめられます。
 またしても、葵瑛さまはぱらりと扇を開かれ、その内でにやりと不気味な微笑みをたたえられました。
 本当にもう、楽しくって楽しくって仕方がないとばかりに。
「主上がお風邪を召されたそうです。そして、『わたしはもう死ぬ。だから、死ぬ前に、一目東宮に会いたい……』と、そうおっしゃられているそうです。やれやれ、困った主上だっ」
 お言葉とは正反対に、やはり愉快そうにおっしゃられます。
 それの一体どこが、困っているというのでございましょう? 葵瑛さま……。
 葵瑛さまのそのお言葉を聞かれた瞬間、陽楊さまのお顔からさあっと色が失せていきました。
 そして、次の瞬間にはもう、そのお顔は真っ赤に染め上がっておりました。今にもぷしゅ〜と湯気が立ち上りそうなほど。
 怒りのために。
「お前! はかったな!?」
「おや? 人聞きが悪い。くすくすくす。ほらほら。早く行かないと、主上がすねてしまいますよ?」
 そうおっしゃられながら、ぐいっと香姫さまと陽楊さまを引きはなされます。
 そして、香姫さまをご自分へと抱き寄せ、褥へそうっと横たえられました。
 香姫さまも香姫さまで、ぴんとくるものがおありになったようで、何やら思惑がありそうなお顔でにやりと微笑んで、葵瑛さまに素直に従っておられます。
 嗚呼〜。これはもしや……いつものあの展開でございましょうか?
「うるさい! まったく、父君も、最近、お前と一緒になって……」
 そう怒鳴られるも、そのお体はちゃんと踵を返しておられました。
 何だかんだとおっしゃられましても、結局お優しいのですから。
 それが、葵瑛さまと帝のはかりごとだとすでに気づかれているというのに、それにしたがってさしあげるなどとは。
「ええー? 陽楊さま、帰っちゃうのー?」
 褥に横たわりつつも、上体を起こし、香姫さまはいやんいやんと陽楊さまを見つめられます。
 やはりその手は、すがるように陽楊さまの直衣のすそをちょんとつままれて。
「こ、香子……」
 今、葵瑛さまと帝の思惑にのってさしあげようとしたばかりでございますが、香姫さまのそのようなおねがいを前にされては、その決意もぐらぐらぐらりとゆらぎます。
 おねだりをされる香姫さまのそのお姿があまりにも愛らしくて、陽楊さまはめまいを覚えられてしまいました。
 そのお体が、ぐらりとゆれます。
 そして、熱く熱く暑苦しく、香姫さまを見つめられます。
 しかし、次の瞬間、またしても陽楊さまのお顔は真っ青になっておりました。
 陽楊さまは見てしまわれたのです。見てはいけないものを。見ない方がよいものを。
 葵瑛さまに負けず劣らずの、香姫さまのにやりと微笑む意地の悪い笑みを。
 ぐわしゃ〜んと、陽楊さまの中で、何かが壊れてしまったようでございます。
「お、お、お前たちなんてなあ、お前たちなんてなあ、みんな大嫌いだあ!! みんなそろって、わたしをおもちゃにして楽しんでいるな! しかも、香子まで一緒になって!!」
 そのように、まるですねてだだをこねるこどものように叫ばれます。
 するとすかさず、二重奏が奏でられました。
「何を今さら」
 さらりとした、香姫さまと葵瑛さまのそのようなお言葉。
 当然、その瞬間、陽楊さまの頭の中は真っ白に燃えつき、呆然とその場に立ちつくされます。
 そして、次には、すごすごと簀子を帰っていかれる陽楊さまのお姿がございました。
 それを、それまでそこにいて、ただじっと見ていた棗が、気の毒そうに見送っておりました。
 くすくすと笑われる、香姫さまと葵瑛さまの横で。
「まったく……。姫さまも、もう少し陽楊さまをいたわってさしあげればよろしいのに……。これでは、気の毒で仕方がございません」
 どっと疲れたように肩を落とす棗に、にっこりと香姫さまがおっしゃられます。
「あら。これも愛情表現の一つじゃない」
「ねえ? 香姫殿」
 当然のように、葵瑛さまの相槌もうたれるわけで……。
 そのようにして、お二人、いつまでも、愉快そうに意地悪く、くすくすと笑っておられたそうでございます。
 頭痛を覚えはじめた棗の横で。

 そして、これは余談でございますが、時を同じくして、清涼殿でも、元気まんまんの帝がほくそ笑んでおられたそうでございます。
 棗同様、頭痛を覚えられた左大臣の前で。


 さすがは香姫さま。
 お風邪を召されていると申しましても、やはり元気なようでございます。
 陽楊さまといちゃつく時と、陽楊さまをからかって楽しまれる時だけは。
 何しろ、陽楊さまと葵瑛さまが帰られたそのすぐ後、きゅるるるるる〜ばたんと、再びそのまま褥の上へと倒れられたのでございますから。
 そしてその後、三日三晩、高熱に苦しめられ続けたということでございます。
 それこそ、高名な僧の祈祷ですらきかない、たちの悪い悪霊にでもとりつかれたのではないかと、棗が心配するほどに……。
 さらには、そのたちの悪い悪霊とは、どこのどなたかのように思えてならないのは、香姫さまや棗だけではなかったことでございましょう。
 これは、桜の頃に入内を控えたそのようなある時の、香姫さまの運の悪いできごとでございます。
 いえ。もしかしたら、罰が当たったのかもしれません。
 あまりにも、陽楊さまをいじめられすぎたので。
 しかし、そうは申しましても、陽楊さまにとっては、ほんのちょっぴり幸せだったかもしれません。
 香姫さまに甘えてもらえたのでございますから。
 香姫さまにおねがいとおねだりをしてもらえたのでございますから。
 よかったですね。陽楊さま。
 最後はやはり、帝と兵部卿宮の楽しい親子に邪魔されてしまいましたが。
 まんまと。してやったりと。
 まあ、それも、運命だと諦めてください。
 あなたさまは、所詮、そういう役まわりでございます。


しあわせひとつ おわり

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update:04/02/11